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【第二章まで完】幸福のモラトリオ  作者: 山田まる
第二章 ガベイラくんの誤算
17/22

野生動物

 ガベイラが無事に蓮糸楼に潜入してから、数週間が過ぎた。

 蓮糸楼自体は、あのテーラーから少し離れた繁華街の大通りにあった。

 それほど規模は大きくないものの、日々繁盛しているといった印象だ。 

 昼夜を問わず客が訪れ、遊び、金を落としていく。

 オーナーである皓月はといえば、店にいる間のほとんどはオーナー室で過ごし、たまにホールで自ら客をもてなし、そしてふらりと一人でいなくなる。

 本当ならば、護衛の肩書きで皓月の出先にまでついていきたいところだが、あの男は自分が組織のトップであるという自覚に乏しいのか部下を連れ歩かない。

 そんなわけで、ガベイラの現在の仕事は蓮糸楼の警備主任、といったところである。

 元軍人であるという経歴が功を奏したのか、いきなりの役職だ。

 とはいえ、仕事の内容は地味だ。

 店の警備システムを構築し、問題が起きたら対処する。

 その繰り返しだ。

 最初のうちはトラブル発生時に皓月に口頭で指示を仰いだこともあったが、今ではすっかり信用されたのかある程度の裁量権を与えられ、ガベイラの判断で対処することが許されている。

 そう。

 信頼は、勝ち得ているのだ。

 店を預かる警備主任としては、認められているという手応えを感じている。

 だが、驚くほどにオーナーである皓月本人との関わりは薄い。

 日々の報告はデータでの提出を求められており、ガベイラが皓月と顔を合わせる機会はほとんどない。

 店ですれ違う際に、一言二言労われる程度だ。

 それでも、店の警備を任されていればわかることもある。

 蓮糸楼の運営は驚くほどにクリーンだ。

 国の認めた範囲で、様々な規則をしっかりと守った上で運営されている。

 ガベイラの見える範囲には不正は見当たらない。

 こういった商売には付きものの裏帳簿の気配すらないのだ。

 皓月という男は、蓮糸楼のオーナーとして真っ当な商売をしていると言っても過言ではないだろう。

 特に、蓮糸楼で働く従業員に対する福祉は手厚い。

 ガベイラも、カジノの警備主任としては破格の給与を提示されている。

 蓮糸楼は、いわゆる理想的な職場だと言うことも出来るだろう。

 だが、その一方で。

 オーナーである皓月自身はといえば、前評判通りどうにもうさんくさい連中との交流を深めているようだった。

 事前に見て覚えた顔が、人目を避けるようにしてオーナー室に出入りする様を結構な頻度で見かけている。

 皆、サザルテラのドラッグビジネスへの関与が強く疑われている連中だ。

 中には、ドラッグの密売関係の前科を持つ者も少なくはない。

 なんらかの計画が進行中だと、捜査本部は睨んでいる。

 ただ、現状証拠がない。

 強制捜査に踏み切れるほどの証拠が揃わないのだ。

 金は、動いている。

 皓月名義の口座から、そういった連中へと多額の支払いが行われているという事実は確認できている。

 そこでまだ与しやすい売人の一人を適当な別件で署に引っぱり、問い詰めたところ出てきた名目はコンサルタント料、である。

 あまりにも、嘘くさい。

 カジノを取り仕切るオーナーが、その辺のチンピラに過ぎない売人に何をコンサルされるというのか。

 それでも証拠が見つからない。

 せめて蓮糸楼で何かドラッグの関わる商売が行われているという証拠があれば捜査本部としても動けるというのに、今のところ蓮糸楼でドラッグを買ったというような客が皆無なのだ。

 よほど上手くやっているのか。

 それとも、現在は仕入れに専念しているのか。

 捜査本部は、おそらく後者だろうと見ている。

 サザルテラのドラッグビジネスに食い込むために、まずは金をばらまき、あちこちのディーラーから商品となるブツをかき集め、供給元を確保しているのだ。

 それが済めば、本格的な商売が始まる。

 現在蓮糸楼に集中している大量のドラッグが、一気に拡散されるのだ。

 今はまだチヴォリ・ファミリーに禁じられているという名目の為に大人しく商売していた連中も、ドン・チヴォリの秘蔵っ子がドラッグビジネスに参入したとなれば張り合うように活発化することになるだろう。

 そうなれば、サザルテラのドラッグ汚染の進行は止められない。

 その前に叩き、ドラッグの拡散をなんとか食い止めたいというのが捜査本部の考えだ。

 捜査の行方は、ガベイラの肩に掛かっている。


「とはいえ、今のところ何も収穫はないんだけどな」


 口の中で小声でぼやきつつ、ガベイラは警備室を出る。

 定時の巡回だ。

 基本的に巡回は部下たちに任せることも出来るのだが、巡回の名目で店の中をいろいろと見て回れることもあって、ガベイラは積極的に参加するようにしている。

 とはいえ、部下たちとは別行動だ。

 蓮糸楼は2つのフロアからなる店だ。

 一階部分にはスロットなどマシン系が置かれ、地下部に対人の遊びが出来る様々な遊戯台が設置されている。

 監視カメラなどのモニタールームも兼ねた警備室や、金庫のあるオーナー室も地下だ。

 正規の巡回チームは一階のフロアを見て回り、トラブルが起きていないかを確認した後、地下のフロアを巡回してから警備室に戻る。

 ガベイラは、その逆に地下の警備室を出発し、オーナー室の辺りまで足を伸ばして金庫に異常がないことを確認してから地下のフロア部分を巡回し、それから地上のフロアに上がるようにしている。

 今日も、そのつもりだった。


「…………」


 眉を、寄せる。

 扉の閉ざされたオーナー室の前に、ぽたりと赤が落ちていた。

 血痕だ。

 形状からして、高さは1メートル前後から落ちた、といったところだろうか。

 その証拠のようにドアノブにもよく見ると薄く血の跡が残っている。

 ちょうど腕の高さから出血していたのならば、こういう血痕が残されるだろう。

 問題はここから出たのか、それとも入ったのか、だ。

 顔をあげる。

 廊下に、テンテンと赤が続いている。

 突き当たりには、外階段に繋がる扉がある。

 階段の先は裏路地だ。

 普段は締め切られており、鍵が掛かっている。

 血痕は、その裏路地へと続くドアの前で途切れていた。

 ドアのロック部とハンドルにはやはり、血の跡が残っている。

 ドアに、手をかける。

 がちゃりと堅い手応えが返る。

 鍵が、掛かっている。

 血痕から見ても、外から入ってきた人間が内側から鍵をかけたと見ていいだろう。

 トン、と指腹で耳元の通信装置を叩いて起動する。

 一度、警備チームに侵入者に警戒するように伝えようとしかけて――…ガベイラは代わりに回線を切り替えた。


「あ、皓月? オレ、警備主任のガベイラだけど」


 何事も起きていないかのような、からりとした明るい声で話しかける。

 しばし、待つ。

 返事はない。

 ドアの前から、オーナー室の前まで戻るまでの間、皓月からの反応はない。

 ジャケットの内側から銃を抜く。

 セーフティを外し、何かあればすぐに応戦できる用意を整えてから、無造作にドアを叩いた。


「皓月、いる? 定期報告しようと思ったら返答がないからさ。無線、スイッチ入ってる?」


 やはり返答はない。

 ドアの向こうのオーナー室は、しんと静まりかえっている。

 もう一度、ノック。

 これに返事がなければ踏み込もうと決めたところで、ようやくドアの向こうから聞き覚えのある声がした。


「……、ああ、すまないね。ちょっと今はタイミング悪いんだ。報告はまた後で、改めてにしてくれるかな」

「あ、そう。わかったよ。ところで――…このドア、今すぐ開けないと蹴破る」


 高らかな宣言に、部屋の内側で微かに息を呑む気配が伝わってきたようだった。


「3秒待つ」

「ガーベラくん」

「いーち」

「持ち場に戻って」

「にーい」

「命令だよ」

「さー」


 ガベイラはドアから距離を取る。

 そして、「ん」とカウントを終えると同時に足を持ち上げかけたところで、がちゃりとオーナー室の鍵が開く音がした。

 ドアノブに手をかけ、細く開ける。

 隙間から、薄暗い室内に顰め面の皓月が立っているのが見えた。

 珍しく、ジャケットの上着を抜いだジレスタイルだ。

 その白いシャツの左腕の肘から先がぐっしょりと重たげに赤黒く濡れていた。

 だらりとぶら下げられた指の先端から、ぽたり、とまた一つ滴が落ちる。

 案の定だ。

 あの外に繋がる扉の鍵は、限られた人間しか持っていない。

 オーナー室とあの扉の鍵の両方を持っているのは皓月ぐらいだ。

 もしも怪我をした状態で外に逃げたのであれば、あの扉を外から施錠するような余裕はなかっただろう。

 外から内に、逃げたのだ。

 もしくは、連れ込まれたか。

 油断なく、見える範囲を確認する。

 皓月の他に、人影は見える範囲にはない。


「ガーベラくん」


 苛立ちに尖ったような声音で名を呼ばれるのも歯牙にかけず、ガベイラはするりとオーナー室へと踏み込んだ。

 まだ、銃は下ろさない。

 素早く左右を確認し、それから皓月に声をかける。


「他に人は」

「誰も居ないよ」

「確認する。ドアから離れて、動かないで」


 ドアを閉めて、改めてロックをかける。

 皓月が部屋の中央に位置する応接セットの辺りに立つのを待ってから、ガベイラはドア付近からは死角となる物陰を一つ一つ確認し、皓月の「誰も居ない」という言葉が真実であることを確認してからようやく銃にセーフティをかけてホルスターに戻した。

 どうやら押し入られたわけではなかったようである。


「そこ、座って。怪我の具合、見るから」

「いい。仕事に戻ってくれ」

「これもオレの仕事だよ」

「君の仕事は店の警備だ」

「で、あんたは店のオーナーだろ」

「だとしても君の仕事は警備までだ」

「いいから傷見せて」

「厭だ」


 皓月は、譲らない。

 その間も、ぽたり、ぽたり、と赤い滴がその袖口からは滴り続けている。

 出血が止まっていない。

 顔色も、良くはなかった。

 だというのに、ガベイラを相手に皓月は一歩も譲らない。

 紫暗の双眸を爛と燃やして、まっすぐにガベイラを睨みつける様は気高くも警戒心の強い野生の獣のようだった。

 ただ、その事実が皓月の余裕のなさを物語ってもいる。

 普段であれば皓月は卒なく、「警戒している」ことを人に気取られないように振る舞うはずなのだ。

 それどころか相手の油断を誘う為にあえて隙を見せるぐらいのことはやる。

 それがこうして警戒心を剥き出しに、近寄るなと毛を逆立てているのだから、それだけ状況は切迫している。

 本当ならば、信頼を得て一歩ずつ距離を詰めるのが正しいやり方なのだろう。

 だが、今その時間はない。

 だから、ガベイラは一度息を吐くと、わざとホルスターが見えるようにジャケットをちらりとめくって見せる。


「皓月」

「…………何だ」

「今ここは密室で、あんたは手負いで、オレは武装してる」

「………………」

「この距離なら、例えあんたが銃を持っていたとしてもオレなら素手で殺せる」


 ガベイラは淡々と事実として告げる。

 この状況に追い込まれた以上、皓月に警戒などもはや不要なのだ。

 皓月が何をしようと、ガベイラが皓月を殺すことが出来るという事実は揺らがないのだから。


「………………」


 双眸は強い色を浮かべたまま、渋面の皓月がソファに腰を下ろした。

 それで良いとばかりに頷いて、ガベイラは距離を詰める。


「ナイフ出すよ。シャツ、切るだけだから」


 何をするかを先に宣言してからナイフを抜き、ぐっしょりと血に濡れたシャツを切り裂いて傷口を露出させる。

 ぱっくりと割れた裂傷は左前腕の腹側にあった。

 典型的な防御創と言えるだろう。

 ナイフか何か、鋭い刃物で切りつけられた傷だ。


「…………これは縫わなきゃ駄目そうだな」


 傷は一部真皮にまで達している。

 何か傷口を押さえられるものを、と顔をあげつつ言う。


「その灰皿でオレをぶん殴るのはやめときなよ。ナイフ持ってるからね。勢いで傷増やしちゃ意味ないだろ」

「…………」


 皓月の唇がへの字になる。

 右手で密やかに引き寄せていた灰皿から、手が離れる。

 念のためにその灰皿を無造作に皓月の手が届かない位置へと押しやってから、ガベイラは懐から取り出したハンカチを皓月の傷口の上に押し当てた。

 本当は清潔なタオル等があれば良かったのだが、現状手元にないのだから仕方がない。


「そっちの手で強く押さえておいて。指は動く?」

「…………動く」

「神経も大丈夫みたいだね。傷口綺麗だし、たぶん縫えばすぐに良くなるよ。痕は残っちゃうかもだけど。車出す? それとも救急車の方がいい?」

「……どっちも、厭だ」

「わかった、簀巻きにして運ぶ」


 それが脅しでないことは、皓月にもすぐに伝わったようだった。

 のろりと逡巡するように紫闇の双眸が揺れる。


「…………………………………………、知り合いの、医者がいる」

「じゃあ呼ぶよ。番号は」

「ジャケットの内側に、端末がある。連絡先の上から三つ目」

「はいよ」


 ソファの上に放り出されていたジャケットの内側を探って端末を取り出し、差し出す。


「……ロックを解除する間、目をそらすぐらい気をきかせてくれてもいいのでは」

「目をそらした瞬間すぐにでもオレの喉を喰い破りそうな目で何を言ってるんだか」


 心底厭そうな面持ちで、それでもガベイラが手にしたままの端末の表面を皓月の指先がつつつとたどってロックが解除された。

 表示されたホーム画面から連絡帳を呼び出し、上から三つ目を表示する。


「これ?」

「……そう」

「それじゃあ呼ぶよ。その間あんたは休んでて。その出血じゃ座ってても辛いだろ。鎮痛剤はある?」

「置いてない」

「警備室にあると思うけど、持ってこさせようか」

「要らない」

「そう」


 素っ気ない会話の後、ガベイラはソファから離れて電話をかける。

 何度目かのコールの後に繋がった壮年の男に怪我の状態と至急往診してほしいとの旨を伝えて会話を終えた。

 それから、無線を部下に繋ぐ。


「ガベイラだけど。地下フロアでグラスを割ったお客様が怪我をしちゃってね。往診を頼んだから、医者がきたらオーナー室までご案内してくれる? そう。今オーナー室で休んでいただいてるから」


 医者は呼んだ。

 部下にも話を通した。

 他にやることは、と思案して、ガベイラは一度廊下に出て血痕を片付けてしまうことにした。

 人目につけば騒ぎになりかねない。


「オレ、ちょっと外の血痕始末してくるから。何かあったら呼んで。ドア、鍵かけて閉め出したりなんかしたら蹴破るからね」

「…………」


 胡乱な目で見られた。

 世の中、力isパワーなのだ。

 ドアハンドルを拭ってから、白い床に落ちた赤黒い血の跡をウェットティッシュで一つ一つ丁寧に拭っていく。

 突き当たりのドアまでたどり着いたら、一度外に出て外側からもドアハンドルを拭うのを忘れてはいけない。

 おそらく路地裏にも血痕は残っているだろうが、アスファルトに落ちた血の跡はそれほど目立つものでもない。

 後回しにしても大丈夫だろう。

 中に戻って施錠を確認してからオーナー室へと戻る。

 ありがたいことに鍵はかかっていなかった。

 皓月は、と視線をやれば、ソファの背に身体を預けるようにしてぐったりと目を閉じているのが見えた。

 血の気の失せた顔色は白く、その様子はあまりにも生気に乏しい。

 呼吸を確かめようと、ガベイラはソファに向かって一歩踏み出し――…その途端閉ざされていた紫闇の双眸が射貫くようにガベイラを見据えた。

 

「何」

「ごめん、息してなさそうに見えて」

「生きてるよ」

「それなら良かった」


 また、億劫そうに皓月の瞼が閉ざされる。

 少しでも体力の消費を抑えたいのだろう。

 その癖、周囲に対する警戒心はより鋭敏に尖っている。

 ガベイラがほんの少し身じろぐだけでも気取られそうだ。

 まさに手負いの獣だ。

 医者が到着したのは、それから10分ほどしてからのことだった。

 部下の案内でオーナー室近くまでやってきていた医者を迎えに出る。

 往診バッグを抱えた医者は、いかにも町医者といった風情を漂わせる男だった。

 年の頃は六十に差し掛かった頃合い、だろうか。

 皺の寄った白衣を纏う背中は丸く、小柄だ。

 それでいてどこか、油断のならない胡散臭さを醸し出している。

 このおっさん本当に医師免許持ってるんだろうか、などと思いながらガベイラは医者をオーナー室へと通す。

 医者は、部屋に入るなりソファに座った皓月の様子に片眉をぴんと跳ね上げた。


「わしを呼ぶなんぞ、やっぱり怪我をしたのはお前さんか」

「不覚を、取りまして」

「いい、そのまま楽にしてろ」


 身体を起こそうとした皓月を手で制して、医者は皓月の傍らに膝をつく。

 傷口を抑えていた手をどかせて手早く傷口を改め、顔をしかめる。


「これは縫わんといかんな。おい、そこの」

「はいはい」

「バケツもってこい、バケツ」


 ちらり、とガベイラは皓月を見る。

 この場に、医者と皓月を二人残していいものなのか。

 ガベイラの主人はあくまで皓月だ。

 動かないガベイラの様子に一拍遅れて皓月の視線が持ち上がった。


「…………なに」

「お前さんの許可を待っとるんじゃろうが」

「…………アア」


 なるほど、と納得したようにうん、と緩く皓月が頷く。

 どうやらこの医者は皓月にとっては警戒の対象ではないらしかった。

 顔見知りだろうか。

 皓月は単身サザルテラに乗り込んできたと思われていたものの、もしかするとそうではなかったのかもしれない。

 後で調べておこう、と脳内でメモを取る。


「他に必要なものは?」

「それくらいでよかろ」

「それじゃあ取ってくるね」


 ガベイラは一度部屋を出て、警備室に向かう。

 バケツを取って戻れば、テーブルの上に治療の為の道具が広げられたところだった。

 皓月は腕を医者に預けたままぐったりと項垂れている。


「どうしたの」

「局部麻酔したった」

「あー……」


 あれは、痛い。

 怪我というのは、意外と痛まないのだ。

 アドレナリンが分泌されるからだろう。

 痛みを自覚するのは、落ち着いてからだ。

 が、どうしてだか注射は痛い。

 傷口に刺されるからなのか、余計に痛く感じるのだ。

  

「やられた時より痛い……」


 皓月が呻く。 

 

「これからが本番じゃぞ」


 医者がガベイラの用意したバケツを腕の下に置き、ぴ、と口を切った生理食塩水を絞り出すようにじゃばじゃばと容赦なく傷口にぶちまけて洗浄を始める。

 皓月が「~~~~~~ッ」と声にならない悲鳴をあげて、右の指先ががりとソファの生地を引っ掻いた。


「…………もしや、わざと痛くしているのでは」

「麻酔が足らんかったか」


 ぎろりと睨まれても、医者はそしらぬ顔である。

 いい性格をしている。

 そして、その分腕も確かなようだった。


「縫うぞ」

「……ええ」


 ぱっくりと裂けた裂傷を丁寧に、それでいて速やかに縫合する。

 外科手術の腕前というのは、縫合の縫い目に表れる。

 胡散臭い外見とは裏腹に、その縫い目はきちりと等間隔に並び、ガベイラの目から見ても腕が良いことがわかった。

 最後にもう一度消毒し、真新しい清潔な包帯を巻けば治療は終わりだ。


「神経や太い血管が傷ついてなかったのは不幸中の幸いじゃな。これなら安静にしていればすぐに治る。傷口は最低一日に一回は消毒するようにな。鎮痛剤と抗生物質を出しとくから……そうじゃな、今飲め」

「…………」


 厭どす、と皓月の顔が無言で訴えていた。

 が、医者は黙殺する。

 錠剤を二つ掌に押し出し、往診鞄から取り出したペットボトルの水の封を皓月の目の前できって見せる。


「飲め」

「…………鎮痛剤は、眠くなるから厭だ」

「問答無用で眠らせる薬をぶちこんでもええぞ」

「……………………」


 渋々と皓月は医者の掌から錠剤を受け取り、口の中へと放り込んだ。

 差し出された水で流し込む。


「飲んだ」

「口をあけてみい」

「あまりにも信用がなさすぎでは」

「これまでの前科がありすぎる」


 顰め面のまま、皓月が口を開ける。

 医者は念入りに舌の裏まで確認し、確実に皓月が薬を飲んだことを確かめてからようやくヨシと頷いた。

 どこまでも野生動物のような男である。

 と、そこで医者がちらりとガベイラへと視線を向ける。


「そこの兄さん」

「オレ?」

「そう、あんたじゃ」

「何か」

「わしが帰った後、そこの坊主が薬を吐くようなことがあったら今度は漏斗で流し込んでええぞ」

「オッケー」

「オッケーしないで」


 医者はにんまりと面白がるように笑うと、帰りの案内はいらんと言ってさっさとオーナー室を出て行ってしまった。

 往診代を支払っていないわけだが、そこはきっと後ほど請求書が届くなどするのだろう。

 皓月はその背中を見送った後、深々と息を吐いてそのままぐずぐずと崩れるようにソファに横になった。

 先ほどまで決して横になろうとしなかったことを考えると、多少薬が回って気が緩んでいるのかもしれない。

 もしくは、今の治療で精も根も使い果たしたか。


「ところでさ」

「何」

「誰にやられたの」

「商売敵……、かな。たぶん。もしかしたら強盗かも」


 曖昧な回答だった。

 おそらく見覚えのない相手だったのだろう。

 誰ぞから差し向けられた鉄砲玉、といったところだろうか。


「相手は?」

「返り討ち」

「殺したの?」


 ガベイラの温度の変わらない問いに、皓月がのたりと首を傾ける。

 少し眠たげに蕩けた双眸が緩く壁際に立つガベイラを見た。


「殺してない。殺してないよ。ナイフ蹴り飛ばしてやったら逃げた。……ああ、たぶん戻って回収してなければゴミ箱の下あたりにナイフが残ってると思う」


 声音も、緩やかだ。

 先ほどまでの神経質な尖りがなりを潜め、いつもの穏やかさを取り戻しつつある。


「後で探しとく。警察には?」

「言わなくていい」

「了解」


 とろりと瞼が落ちる。

 けれど、まだ眠ってはいない。


「オレにさ、護衛させなよ。オレがいたら、そんな怪我させないよ」

「……………………」

「そのためにオレを雇ったんだろ」

「……………………」

「寝たふり?」

「……………………、君の、目的は」


 今度は、目を閉じたままの問いだった。


「仕事だよ。ここは待遇も良いし、給料も良い。あんたに死なれたら、オレはまた職探しから始めるハメになる」

「……………………」


 もしかしたら寝入ったか、いうような間を置いてから、ぽつりと皓月が口を開いた。


「………少し、休む」

「そう」

「2時間経ったら起こして」

「ここに控えてた方がいい? 外で待っててもいいけど」

「ここで構わない」

「了解」


 それきり、皓月は口を噤んだ。

 もう、言うことはないということだろう。

 声をかければ何かしら返事は返ってくるだろうが、ガベイラとしても今これ以上聞きたいことはなかった。

 ソファに横になり、両の腕を腹の上に乗せた姿勢のまま皓月はぴくりとも動かない。

 よくよく見れば微かに呼吸にあわせて胸が上下していようにも見えるが、気のせいなのではないかと思ってしまうほどにその姿は静かだ。

 脈を確かめたくなる。

 だが、入り口近くの壁際に立つガベイラが一歩でも距離を詰めれば、すぐさま飛び起きて身構えるのだろう。

 それがわかっているから、ガベイラは動かない。

 ちらりと時計を確認して、それからの2時間、ガベイラはただそこに控えた。

 本当はもっと休ませた方が良いのはわかっている。

 だが、2時間で起こさなければ皓月はガベイラをもう二度と試そうとすらしないだろう。

 きっかり2時間待って、呼びかける。


「皓月」

「起きてるよ」


 ぱちりと皓月の瞼が持ち上がる。

 返事は明瞭で、これまで眠っていた人間のものとは思えなかった。

 ただそれでも、顔色は少し良くなっている。

 ゆっくりと身体を起こして、皓月がガベイラへと向き直る。


「ガーベラくん」

「なに?」

「しばらく……、そうだな。腕が動くようになるまでで構わないんだけど、僕付きの護衛を頼めるかな」

「もちろん」

「それは良かった。で、早速なんだけど」


 にこり、と紫闇の双眸が笑みの形に細くなる。


「今夜、挨拶でフロアに出る用事があってね。君、僕の愛人になる気は?」

ガーベラくんVS野生動物


ここまでお読みいただきありがとうございます!

PT、感想、ブクマ、励みになっております。

次回もまた週末に更新できたらな、と思いつつ。

よろしくお願い致します。


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