薄氷
それから数日のうちに、ガベイラの潜入の用意は整えられた。
偽名は使わず、アルトゥーロ・ガベイラのままで行くことになったのは、今から別の名前で入隊記録をでっちあげるよりも、もともと存在しているガベイラの記録を改竄する方がデータ上の違和感が減らせるという情報管理部の判断によるものだ。
改竄部分が大きくなればなるほど、偽装には気づかれやすくなる。
本来こういったデータは一般には公開されていないが、優秀なハッカーであれば侵入は容易い。
それがわかっているならばセキュリティレベルを上げろという話にはなるのだが、そうすると現場レベルでの情報の共有に問題が出るため、なかなかそうもいかないのである。
実際いくらセキュリティレベルを上げたところで、内部の人間を抱きこまれればこの程度の情報というのはいくらでも流出しうるのだ。
というわけで、最初から引っこ抜かれることを前提にあらかじめ潜入捜査用のデータにガベイラの内部データを完全に書き換える形で用意することになったのだった。
基本的に、軍で取得した資格や、辿った経歴はほぼそのままだ。
異なるのは、周囲からの評価と経歴の〆の部分だ。
「優秀だが独善的で協調性に欠け、感情のコントロールに問題がある」というのが現在のガベイラに対する周囲からの評価であり、最終更新記録は、上官と揉めたあげくに、口論の果てにぶん殴って不名誉除隊、というものである。
そうして仕事を失った為にサザルテラに流れてきたガベイラは、仲介人を通してちょうど用心棒を探していた蓮糸楼に潜り込む、というわけなのだ。
「……それにしても」
ガベイラは手元のメモから顔をあげて、目的の場所を確認して訝し気に眉根を寄せた。
「……これ本当に場所あってる?」
ぼやく。
潜入ともなればマイクの一つでも仕込むのが常套手段ではあるのだが、蓮糸楼のオーナーことドン・チヴォリの秘蔵っ子とやらは大変に警戒心が強く、店の中にカメラやマイクの類を持ち込むことはおろか、現状まともにその姿を捉えた写真すら撮れてはいないのだという。
そんな男が相手ともなれば身体検査は避けられないだろうし、そこでマイクが見つかれば潜入捜査は始まる前に終わってしまう。
そんなわけで現在のガベイラの独り言を聞くものはいない。
そうわかっていても思わずぼやいてしまうほどに、仲介人を通して顔合わせの為に選ばれた場所には意外性があった。
――おそらくは、テーラーだ。
住所からしてサザルテラの繁華街のただなかであることはわかっていたので、ガベイラはてっきり酒場にでも呼び出されたものだと思い込んでいたのだが。
品のある深い紺と緑の中間のような色合いを基調に整えられた店構えは酷く落ち着き、看板にはただ黒地に金で蓮の花が描かれているだけだ。
ショーウィンドーに何体か高そうなスーツを着たマネキンが並んでいることからスーツを取り扱っているのだろう、と見当をつけたものの、外からは中が窺えないようになっているせいで一見には随分と敷居が高い店のように思える。
周囲にレストランや酒場が並ぶ中には少しばかり場違いさを感じる。
もう一度住所を確認する。
やはりここだ。
まあ違っていたら違っていたらで改めて探すしかないだろう。
ガベイラはからりと入口のベルを鳴らして店の中へと踏み込む。
静かな店だった。
薄明りの下、木のぬくもりと静謐さを漂わせる調度品の向こうに男が一人座っている。
男がベルの音に釣られたように顔をあげる。
綺麗な男だった。
東洋の血が入っているのだろうか。
肩の辺りで切り揃えられた黒髪に、クリームがかった白い肌。
ダークカラーの双眸にはどこか物憂げな色合いが宿り、草食動物めいた思慮深さを匂いだたせている。
いらっしゃいませ、と立ち上がるその物腰も柔らかだ。
細身の、どこか体の線を強調するような思惑が感じ取れるスーツもよく似合っている。
装飾品のような男だ。
隣に立つ誰かを引き立たせる為の、華やかな、それでいて主体性には欠ける出で立ちと言えば良いのだろうか。
そのたおやかな麗人といった風情の男に向かって、ガベイラは懐こく笑いかけて見せた。
「ごめんね、オレ、客じゃないんだよ。人と待ち合わせをしててね」
「――…失礼致しました。こちらへどうぞ」
事情は承知なのだろう。
恭しく頭を一つ下げて、男は入口にカギをかけると店の奥へとガベイラを先導するように歩き始める。
「御持物を、調べさせていただいても?」
「構わないよ」
当然だろう。
ガベイラは慣れたように足を肩幅程度に開いて壁に向かって立つと、両手を壁について見せた。
男の手が、ガベイラの体を辿っていく。
丁寧な手つきだ。
「武器はお預かり致します」
「帰りに返してくれる?」
「ええ、もちろん」
ジャケットの下、ショルダーホルスターに吊るしてあった銃をするりと抜き取られる。
メインウェポンを取られるのはそれだけでも心細い気がするものだ。
一緒に差してあったナイフまできっちり回収していかれた。
手際は良いものの、ガベイラに対応するのがこの男一人というのは随分と肩透かしにあった気分だ。
彼であれば、武器がなくとも制圧することは可能だろう。
今のところ人の気配は感じてはいないものの、もしかするとこれから通される部屋の中に大勢控えている可能性もあるのわけなのだが。
「壁から手を離してこちらを向いていただけますか」
「うん」
指示に従って、男へと向きなおる。
ガベイラより頭一つほど小柄な男がガベイラの腰から足首にかけてを撫でおろす。
当然、レッグホルスターの存在には気づかれただろう。
同様に内腿から足首までを撫でおろしてから、男がついとガベイラの裾を持ち上げ、足首からも銃を奪っていく。
反対側からもきっちりナイフを持っていかれるのを苦々しく見下ろしているところで、ふと。
目の前に跪く男の、さらりと割れて肩口に流れる黒髪の間から覗く艶を帯びて白いうなじに赤い痕が鮮やかに浮かぶのが目に入った。
男が立ち上がる。
整った顔が、ガベイラの眼前にやってくる。
そこで初めてその距離感に戸惑ったように、男は薄く目元を染めて視線をそらした。
ふわりと黒髪が揺れて、うっすらと花の香りがガベイラの鼻先を掠める。
誘われているようだと思った。
否、煽られている、と受け取った方が良いのだろうか。
その腕を捕まえて、引き寄せて、そのたおやかな面持ちを崩してやりたいような衝動に駆られる。
そういうタイプの人間というのは、存在するのだ。
本人にそんなつもりもないのに、知らず人の嗜虐性を煽る。
そういった人間はえてしてタチの悪い人間に囚われがちだが、果たしてこの男はどうなのだろう。
蓮糸楼の主人とやらは、彼にとって良い支配者たるのだろうか。
気を取り直したように、ガベイラから取り上げた武器を携えたまま男が奥の部屋に続く扉を開けて、「中へどうぞ」とガベイラを促した。
「しばらくお待ちください」
しとりとした仕草で頭を下げて、男は部屋を出ていく。
案内された部屋は客間なのだろう。
品の良いソファセットと、観葉植物がいくらか飾られている。
その向こうにある大きな机は、もしかするとここで布の裁断などもできるのかもしれない。
上客だけが通される部屋、といったところだろうか。
出入り口は他になく、その部屋の中にはガベイラ以外の人の姿はない。
ソファに腰を下ろしたまま、周囲を観察する。
窓はない。
脱出経路は今入ってきたドアのみだ。
店の入口にはあの男がロックをかけていたものの、扉自体の作りはそれほどしっかりとしたものではなかった。
いざとなればドアごと蹴破れば脱出は叶うだろう。
何せこちとら丸腰なのだ。
有事の際には逃げるが勝ちだ。
そんな算段を付けているところで、がちゃりとドアが鳴った。
視線を向ければ、先ほどの男が戻ってきたところだった。
手には盆を携え、その上には湯気とともに良い香りを漂わせる茶器が載せられている。
ガベイラの傍らに膝をつき、男がテーブルに二人分のティーカップを並べる。
一つはガベイラの手前に。
もう一つは、ガベイラの向かい、今は誰もいない席に。
その卒のない美しい所作をなんとなしに眺めていて、ガベイラはひくりと静かに眉根を寄せた。
シャツの裾から覗く男の手首に赤黒い痣が覗いていたからだ。
手型、だろうか。
紐や縄で縛られたにしては幅が広い。
男の掌で力任せに握りしめたなら、きっとあんな痣になるだろうと思った。
眉間の皺が、知らず深くなる。
そういう暴力性は、どうにも好きになれないのだ。
力を持つ人間が、そうでない人間を良いようにするということが。
それを良しとする精神性が。
どうしたって、美しくない。
苦虫を嚙み潰したような気持ちを押し隠して、ガベイラは「ありがとう」と礼を告げてティーカップを手に取った。
そして一口、口に運んだところで。
男が。
当たり前のような顔で、ぽすりとガベイラの対面に腰を下ろした。
「………………………………」
ハメられた。
そう気づいたのは、華やかな紅茶の香りを嚥下してからのことだ。
男の双眸が、まっすぐに見定めるようにガベイラを見ている。
男はもう、目を伏せてはいない。
何が草食動物の思慮深さ、だ。
これは狩る側の目だ。
したたかに獲物を観察し、仕留めるタイミングを見計らうしなやかで美しい獣の目だ。
ただ暗い色をしている、と思っていたその双眸が、稀有な紫の色味を帯びていることに気づいたのもこのタイミングだった。
光を受けて、鮮やかな紅紫にちかりと瞬く。
この男こそが――……、蓮糸楼の主だ。
ガベイラが気づいたことに、男も気づいたのだろう。
にこりと面白がるようにその双眸が笑みの形に細くなる。
「やあ、こんにちは。僕が、蓮糸楼のオーナー、皓月だ」
「………………ドウモ」
苦い口調でそう応じて、ガベイラは時間を稼ぐようにして紅茶を再び口に運んだ。
砂糖は入れていないはずだが、渋みはなく、香り高いほのかな甘味が美味だ。
こんな状況でなければ、きっともっと美味い。
「…………なんで、こんなことを」
「腕っぷしの強い人間は欲しいんだけれど、自分より弱い立場のものを虐げて喜ぶ輩を身の内に招くつもりはなくてね」
「なるほど。……それも?」
とん、とガベイラは自らの首筋を人差し指の腹で叩く。
男の首回りには、いっそわざとらしいほどに鬱血痕がテンテンと残されていた。
この男が憐れな被害者であることをアピールするかのような痕も、きっとそのための偽装に過ぎないのだろう。
ガベイラの仕草に、男がくつりと喉を鳴らして笑う。
「店に出入りする子にね、頼んでみたら思ってた以上に張り切られてしまって」
つ、と男の指先が自分の首筋を辿って、シャツの襟もとをトンと示した。
「このあたり、派手に噛まれたんだよ。痛いのなんの」
「ふふ」
男の言葉に、釣られたようにガベイラも笑う。
その様子を注意深く見ながら、男は言葉を続ける。
静かで耳に心地良い穏やかな声音ではあるものの、そこにもはや気弱さはない。
「うちにはいろいろな事情を抱えた子が多いからね。これは偏見もあるのだけれど――…君たちのように身体を資本としている戦闘職の人々は、どうも弱者を侮りがちだ。自分たちが努力して克服した弱さを抱えたままに生きている他者が許せないのかな。女性的なもの、男性的でないものを極端なまでに蔑む。いっそあれは恐れに近いようにも僕には見えるけれども。まあ、そういうの、僕はあまり好きじゃなくて」
滔々と語られる内容には、ガベイラにも思い当たる節があった。
軍がまさにそうだ。
弱さを克服すべき敵と看做し、徹底的に憎み、蔑む。
今でこそ実力で周囲からの尊敬を勝ち取ったものの、金髪碧眼に優しげな顔立ちのガベイラも、入隊当初は随分と弄られたものだ。
ガベイラ、という家名からガーベラ、花の名前につなげて、「お花チャン」やら「お嬢さん」などと揶揄う者もいた。
そう言った連中を実力で捻じ伏せて、あるいはそういった風潮に迎合して己を変えて、ガベイラは生きてきた。
きっと、教育の行き届いていない者であれば、男の癖に美しさに価値を置き、他の男の支配下におかれることを良しとするような、最初目の前の男が偽っていたようなものに対してはきっとキツく当たっていたことだろう。
「その手首の痕もそのために?」
「――……、」
なんとはなしの問に、男がはちりと瞬いた。
虚をつかれた、というようなわずかな間が落ちる。
男は少し考えるように長い睫毛を伏せて、手首のシャツの袖口をく、と指先で引いて整える。
その所作に、ああそれは見せるためのものではなかったのだな、ということが察せられた。
「……余計なお世話なんだけど」
「何か」
「手に負えない相手を挑発するのはやめた方が良いんじゃない?」
きっと、ここにはガベイラ以外の男たちも来たはずだ。
そして、同じように試された。
中にはきっと、男の挑発に乗ったものもいたのだろう。
だからこその、手首の痣だ。
偽装ではなく、本物の暴力の証だと思えばやはりその今は隠された痕が痛々しく思えて、ガベイラの眉根が寄る。
それに対して、男は面白くなさそうにツンと澄ました面持ちで口を開いた。
「相手は、僕以上に痛い目を見たよ」
「ふは」
思わず、笑ってしまったガベイラだ。
やはり、この男はおとなしく狩られるようなタマではないらしい。
その一方で、危うさも感じた。
本来なら、こうして用心棒志願者を試すのは別の人間に任せるべきだ。
もしくは、いざというときにちゃんとこの男を守れるだけの実力を持った護衛を偽のトップとして立たせておくべきだ。
そうでなくては、この蓮糸楼という組織はあっさりと瓦解しかねない。
けれど、この男にはそれを任せられる人間がいないのだ。
ハリボテであったとしても、王座を任せられる人間がいない。
それはとても危うい脆さを秘めている。
例えば。
「オレが、あんたを襲ったら?」
す、と双眸を細めてガベイラは男に問う。
これまでの連中同様に、痛い目とやらに合わせられるのか。
男との間にはローテーブルが一つ。
一メートルも離れてはいない。
男が銃を持っている可能性もあるが、この間合いであれば充分に勝機はある。
これはガベイラの間合いだ。
この距離ならば、殺せる。
男の双眸が、警戒の色を滲ませ探るようにガベイラを見る。
空気がひりつく。
どちらかが少しでも判断を誤れば、どちらかが命を落とすことになってもおかしくはない。
そういう、空気だ。
「――……、」
そんな不穏な空気を散らして見せたのは、男の方だった。
ふ、とわざとらしく呼気を逃し、背をソファに預けながら宣う。
「そういう時のためにね、用心棒を探してるんだ」
「なるほど」
それはある意味、男ではガベイラには敵わないという白旗だ。
だから、ガベイラもひょいと肩を竦めてやるつもりはないことを示す。
「それじゃあさ、オレ、ぴったりなんじゃないの」
紅茶のカップを持ち上げながらしれりと続けた言葉に、男の口の端に笑みが乗る。
「君、名前は?」
「アルトゥーロ・ガベイラ。履歴書もあるよ」
意図的にゆっくりとした所作で懐に手を入れて、畳んだ履歴書を差し出す。
男はそれを受け取ると、手元で広げて目を通し始める。
それから懐から端末を取り出すと、ぱしゃりとガベイラの履歴書を写真に撮ってどこかへと送信したようだった。
ほとんど間をおかずに、受信を示すように端末が瞬く。
男の指先が画面を滑り、ふむ、と小さく声をあげた。
「……、上司を殴って不名誉除隊か」
「…………」
ガベイラは内心舌を巻く。
軍のデータベースに侵入されることは予測していた。
だが、こんな短時間で情報を取り寄せられるとは思ってもみなかった。
おそらく人を使ったのだろうが、それはすなわち、軍の中でデータベースにアクセス可能な人間の中にこの男の協力者がいるということでもある。
ガベイラのデータにアクセスした記録から協力者を洗いだせるかもしれないが、そんな下手を打つような相手を協力者に据えるようにも思えない。
「問題でも?」
開き直ったように問えば、男はわざとらしく困った風情で肩を竦めた。
「殴られたら困る」
「殴られるようなことをしなきゃいいんだよ」
「……なるほど」
男は考え込むように目を伏せる。
しばらく続く間に、これはダメだったかな、とガベイラが思い始めたころ、ふと男が顔をあげた。
「明日から来られるかな、ガーベラくん」
「ガベイラだ。あんたがそれで呼ぶなら、オレはあんたのこと皓月って呼び捨てにするぞ」
「構わないよ。では明日から」
あっさりと受け入れられて、ガベイラはぱちくりと瞬いた。
人前での上下関係には厳しそうな男だと思っていた。
例え意図的なものであっても、立場の逆転を許せばそのまま寝首を掻かれるとばかりに警戒心が強いと思っていたのだ。
そんな男があっさりと呼び捨てを許したことに、戸惑ってしまう。
「僕を殴りたくなったら、とりあえず殴るぞ、って先に宣言してくれ。逃げるから。君に殴られるのはとんでもなく痛そうだ」
「今ちょっと殴りたいよ」
「条件は呑んだだろ、ガーベラくん」
面白がるように、稀有な紫の双眸が笑う。
こうして、ガベイラは蓮糸楼のオーナーであり、ドン・チヴォリの秘蔵っ子と名高い皓月と名乗る男に雇われることになったのだ。
ギリギリノギリで週末更新。
できれば毎週末に更新をかけたい気持ち。
PT、ブクマ、感想、いつもありがとうございます。
励みになっております!
誤字のお知らせもとても助かっております!