ガベイラという男
アルトゥーロ・ガベイラには、恋情が理解出来ない。
そういった感情が存在していることは幼いうちからも見聞きしていた。
だが、それはいわゆる『真実の愛』というような概念にも似たものだと思っていた。
誰しにも実感できるものではないが、「ある」とされているもの。
美しいもの、尊いものとされて皆が憧れるもの。
ガベイラにとって、恋情とはそういうものだった。
ガベイラにとって世界は「好きではない」か「好き」の二択しかなかった。
好ましい存在は多かった。
むしろ好ましい存在に多く囲まれていた。
恵まれた環境だったように思う。
家族のことは好きだったし、仲の良い友人も多かった。
だが、『特別』はなかった。
ガベイラの好きは万人に向けられ、平坦だった。
だから、誰にでも親切だと褒められた。
だから、誰からも好かれた。
どうやらそれが普通ではないと気づいたのは、14歳の頃だった。
一人の女の子に、告白されたのだ。
好きだと言われて、付き合ってほしい、と言われた。
緊張から涙ぐみ、頬を真っ赤に染めた少女のことを可愛いと思ったから頷いた。
彼氏彼女の関係になっても、ガベイラは変わらなかった。
相変わらず誰にでも親切だった。
彼女に対してだって、親切だった。
付き合いは、一ヶ月も持たなかった。
別れを切り出したのは彼女の方だった。
あなたの特別になりたかったのに、と言われてガベイラは大いに困惑した。
誰かを特別に好きになるなんていうのは、物語の中だけだと思っていたのだ。
もしくは、長年連れ添って初めて「特別好き」に至るのだと。
ぽかんと目を丸くしたガベイラに、少女は「好きじゃないのになんでOKしたの」と恨めしげに言った。
嫌いじゃなかったから。
可愛いと思ったから。
そんな言葉を言ったら余計に傷つけてしまいそうで、ガベイラは何も言えなかった。
ただ「ごめん」とだけ謝った。
それが、最初の恋の想い出だ。
それから何度も自問自答した。
どうして、あのとき頷いたのか。
可愛かったからだ。
嫌いじゃなかったからだ。
そのとき付き合っている相手がいなくて、相手が付き合ってくれと申し出て、それに対してわざわざNOを言うほどの理由が特になかったからだ。
なるほど。
確かにこれは「誰でもいい」。
そう納得して以来、ガベイラは特定の誰かを作らないままに生きてきた。
人に踏み込まれそうになるたびに、やんわりと拒絶して、距離を保った。
深入りされることが嫌なのではない。
同じだけの気持ちを返せないからだ。
同じだけの距離に歩み寄ることが出来ないからだ。
ガベイラが大学に進学してからしばらくして、家族は国外に越した。
正確には帰国した、という方が正しいのかもしれない。
ガベイラの両親はシステリアの近隣国であるミテシルア生まれのミテシルア育ちのミテシルア人だ。
父親の仕事の都合で夫婦でシステリアに移住し、ガベイラや弟、妹が生まれたのだ。
両親にしてみれば、もともといつかは祖父母のいるミテルシアに帰るつもりではあったらしい。
弟や妹はまだ未成年だったことから両親についてミテルシアに越すことになった。
すでに成人していたガベイラだけが、一人でシスタリアに残った。
「お兄ちゃんって、優しいけどこういうとき薄情だよね」
空港まで家族を見送りにいったガベイラにぽつりとそう言ったのは末の妹だった。
最後まで引っ越しには賛成していなかっただけあって、一人だけ我を通す形でシスタリアに残ったガベイラに対する恨み言だったのだろう。
兄妹間の他愛もない憎まれ口だ。
そんなことないよ、普通だよ、僕もみんなと離れるのは寂しいよ、と言いながらガベイラは妹の髪をぐしゃぐしゃと撫でてやったものの少しだけ胸の奥がひやりとした。
傷ついたわけではなかった。
ただ、バレたのかな、とそんな薄ら寒さをほんのりと覚えただけだった。
時折そうやってガベイラの本質を見抜く人間がいる。
そういった人間は大抵薄気味悪い化け物でも見るような目でがベイラを見て、そっと距離を取る。
ガベイラから距離を詰めるようなことはしない。
距離を詰める必要はない。
互いに適切な距離が保てるのであれば、ガベイラとしては問題ないからだ。
中には「誰にでもいい顔して気持ち悪い」などとガベイラの悪口を言うものもいたが、そういう者は大体周囲の人間に「あんないい人を捕まえてなんてこと言うんだ」と白い目を向けられていて、なんだかガベイラの方が申し訳ない気持ちになった。
彼らの方が正しいのだ。
ガベイラは努めて誰にでも親切に分け隔てなく接しようとしているわけではない。
好意に差が生じないから、誰に対しても同じように対応できるだけなのだ。
他の人と違うのは、欠けているのは、歪なのは、ガベイラの方だ。
なんとなくすまないような気持ちもあったものだから、気づいた範囲で他の人同様に親切に接していれば、「お前みたいな良いやつの悪口を言ったりなんかして悪かった」と謝られてしまうことも少なくはなかった。
ガベイラにとっては大変都合の良い誤解だったので、とくに解こうとは思わなかった。
順風満帆な人生だった。
他者に対して特別な感情を抱けない、というのは確かに欠落ではあっただろう。
だが、その欠落故に生まれる距離感はガベイラにとって不快なものではなかった。
距離があるからこそ見えるもの多かったし、それ故に下せる冷静な判断は周囲からも高く評価されていた。
就職のことを考え始めた際に、軍からの勧誘が来たのもそれ故だろう。
少しだけ考えて、ガベイラは入隊の道を選んだ。
向いていると思った。
機密を抱えるが故に他者と距離を取り、常に冷静な判断を求められる立場というのはガベイラにはぴったりだ。
そういう職にいれば、ガベイラの性質が生かせる。
そういう職だから、という言い訳が効くようになる。
もとより身体を動かすことは好んでいたし、難題に挑むのも好きだった。
同期が次々とドロップアウトしていく自らの限界に挑み続けるような過酷な訓練も、ガベイラにとっては自分がどこまでやれるのかを試し、性能をあげていくようで楽しかった。
一度クリアして、もう受けなくても良いとされた訓練を二年目も希望した際には、同期どころか教官たちまでが目を丸くしたものだった。
そうして鍛錬を重ね、任された任務を無事に完遂していくうちに正しくガベイラの実力は評価され、特殊任務を任されることも多くなってきた。
ガベイラが上官室に呼び出されたのは、そんなある日のことだ。
「ガベイラ、君に特殊任務を任せたい」
そう言いながら、上官はデスクの上にばさりとファイルを投げ渡す。
任せたい、と言いつつも基本的にガベイラに拒否権はない。
上官命令は絶対だ。
ガベイラはファイルを手に取って中の書類に目を通し始める。
その途中で、資料の書式が軍で用いられているものとは異なっていることに気がついてヘッダーを確認する。
書かれているのはサザルテラ警察の名前と、その紋章だった。
「サザルテラ警察との共同捜査ですか?」
「ああ。君には潜入を任せたい」
「そんな危険な任務なんです?」
「その可能性は高い」
通常であれば、警察の捜査は警察内で行われるものだ。
サザルテラは大きな街だし、警察署の規模も大きい。
人員も豊富であろうサザルテラ警察署がわざわざ軍に協力を求めるということは、それだけ危険性が高く、専門に訓練を積んだ人員を借りたい、ということだ。
もしくは単純にサザルテラで顔を知られていない人間がほしい、という線もあるが、そうであればわざわざガベイラに頼まなくても良い。
近隣都市の警察署から人を借りてくればいいだけの話だし、軍に協力を要請するにしても精鋭である特殊部隊に所属するガベイラが出張る必要はない。
出来る限り有事に備えた人材を派遣したい、ということだろう。
「相手は?」
「チヴォリ・ファミリーだ」
「………………オレの記憶が確かなら、チヴォリ・ファミリーは随分とおとなしくなって、今ではフロント企業の方をメインにした正常化が進んでるっていう話じゃなかったですか? 今ではサザルテラではなくて確か……、金融関係の集まってるノーデンの辺りに本拠地を置いてるという話だったような」
「その通りだ。そのチヴォリ・ファミリーの秘蔵っ子がサザルテラでドラッグビジネスを再開しようとしている、というのがサザルテラ署の見込みだ」
「うへえ」
ガベイラの気の抜けた厭そうな声にも、上官はちらりと視線を持ち上げるだけだ。
やるべきことさえやっていれば、これぐらいのお茶目は見逃してくれる人物であるということをガベイラはきちんと判断した上でそう振る舞っているし、上官自身もそういったガベイラの処世術の巧みさを把握した上で評価している。
「そりゃ確かに……、ウチに協力要請が来てもおかしくない話ですね」
ぼやいて、ガベイラは再び資料へと視線を落とす。
チヴォリ・ファミリーというのはサザルテラを牛耳る巨大なマフィア組織の名だ。
組織を束ねるドンの名は、ラウロ・チヴォリ。
彼の名前がサザルテラで畏怖とともに囁かれるようになったのは、ここ四半世紀のうちのことだ。
貴族政治から民主主義への変化の中で荒れたサザルテラを実力でのしあがり、対立組織を圧倒的な力と恐怖でねじ伏せ、やがては裏社会を完全に支配して見せた傑物だ。
そこまでの道のりは、凄惨な暴力に彩られているといっても過言ではないだろう。
対立する組織の人間をその家族まですべて皆殺しにしただとか、チヴォリ・ファミリーにとって不利な証言を行うことになっていた証人が攫われ、法廷にその生首だけが放り込まれた、というような数々の逸話が未だにまことしやかに語り継がれている。
紛うことなく、サザルテラの暗黒期における伝説だ。
が、そんな男も年を取るにつれて多少は丸くなったのだろう。
組織間の抗争なども減り、今では真っ当なフロント企業に専念し、本拠地をサザルテラから金融都市ノーデンの辺りに移したとも言われている。
今でもサザルテラへの影響力は喪っていないものの、その強権を振るうことは珍しくなってきているのだ。
そんなチヴォリ・ファミリーから突如人が送られてきたこともあって、サザルテラ署は厳戒態勢を強いている、というところらしい。
「既に動き始めてるんですか、その秘蔵っ子とやらは」
「ああ。カジノを買い取って、経営を始めたと聞いている。その裏でドラッグディーラーに渡りをつけ、サザルテラ署の麻薬取締課の人間にもそれとなくコンタクトを取ろうとしているとのことだ」
「買収ですか」
「そのようだ」
「うわ頭痛いやつだこれ」
「だからお前が呼ばれてるんだ」
「でしょうね」
サザルテラは近隣諸国と比較しても、遊興街にしては犯罪の発生率が低いことで知られている。
その原因の一つは、チヴォリ・ファミリーだ。
10年ほど前にドン・チヴォリの一声で、チヴォリ・ファミリーの縄張り内におけるドラッグビジネスはご禁制になったのだ。
なんでもドン・チヴォリの目をかけていた部下がドラッグに溺れて死んだだの、お気に入りの女がドラッグディーラーに殺されただの、いろんな噂は飛び交ったものの真実はわかっていない。
ただ事実として、チヴォリ・ファミリーはドラッグビジネスから手を引いた。
サザルテラ警察からしてみれば、ありがたい話だ。
ドン・チヴォリの大号令以降、チヴォリ・ファミリー内でも内紛が勃発し、サザルテラの治安は急激に悪化したものの――それらの粛正が終わってみれば、結局ドラッグビジネスを閉め出したことによりサザルテラにおける犯罪発生率は、他国に比べても低いことで知られるようになったのだから。
だが、それも今は昔のことだ。
ドン・チヴォリが本拠地をサザルテラより移し、犯罪組織から合法な企業への転換を始めて以来、チヴォリ・ファミリーのサザルテラへの影響力は少しずつ薄れていっている。
チヴォリ・ファミリーへの畏怖を知らぬ新参者たちが、台頭し始めているのだ。
かつては完全に禁じられていたドラッグも、今では細々と流通するようになっている。
そんなサザルテラに、チヴォリ・ファミリーの人間が派遣されてくるのである。
しかもそれが、ドン・チヴォリの秘蔵っ子とまで呼ばれるお気に入りであるらしいのだから、サザルテラ警察として身構えるのは当然だ。
ドン・チヴォリがサザルテラにおける己の影響力を強化するために送り込んだ名代と看做したからだ。
だが、その人物は現在サザルテラにおいてはチヴォリ・ファミリーが禁じるドラッグビジネスに乗り出そうとしている。
それがドン・チヴォリの思惑であるのならば大変なことだ。
そして、それがドン・チヴォリの思惑でなくても、大変なことだ。
チヴォリ・ファミリーから送り込まれた秘蔵っ子とやらが、大々的にドン・チヴォリを裏切ってサザルテラのドラッグディーラーを束ね、チヴォリ・ファミリーと戦争をおっぱじめる可能性があるからだ。
現状のサザルテラは、得体のしれないキナ臭さに満ちている。
下手な火花一つで、ボカンといってしまう可能性がある。
だからこそ、ガベイラのもとにこの潜入任務がやってきたのだ。
「それで、オレが潜入するのはなんて組織なんです?」
「組織の名前はまだ不明だ。ただ、店の名前はわかってる」
上司は、不吉な忌み言葉でも口にするような苦々しさで言葉を続けた。
「―――蓮糸楼だ」
第二部スタートですん!
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励みになっております。
ここからぼちぼち二章、ガベイラくん編を書いていきたいと思うのでよろしくお願いします。