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【第二章まで完】幸福のモラトリオ  作者: 山田まる
第一章 姫の嫁入り
14/22

幸福のモラトリオ


 リリィの愛情のたっぷり籠もった白湯に皓月がしょっぱい顔をしてから数時間もしないうちに、日頃閑静な屋敷周辺はかなり賑やかなことになっていた。

 玄関は大きく開け放たれ、スーツ姿の男たちがドヤドヤと出入りする。

 聞けば彼らはサザルテラ署の人間であるらしい。

 皓月の仕事のことを思えば、何かまずいものが見つかりでもしたらとリリィは内心焦るものの、後ろ暗い商売に手を染めているはずの家主たる男は堂々と長椅子に腰掛けたまま事情聴取に応じている。

 その傍らには、当然のようにガベイラが控えている。

 警察の車両と同時に駆けつけてきた救急車で手当を受けて脳震盪の傾向は見られないとの言葉を聞くや否や、早々に皓月の護衛に復帰したのだ。

 皓月はもう少し休んでなよ、と嫌そうな顔をしたものの、ガベイラ本人はそんな苦言をさらりと聞き流して今に至っている。

 お互いに人の話を聞かないコンビである。

 そして現在、そんな二人の前には苦虫を噛み潰したような渋面の男が一人。

 事情聴取の為にやってきた刑事である。

 仕立ては良いものの、生地に多少草臥れが目立ち始めたスーツ姿の初老の男はしみじみと疲れたようなため息を吐いた。


「で」

「はい」


 迎え撃つ皓月はといえば、愛想の良いにこやかな笑みをその面に貼り付けている。


「つまり、ベル伯爵から犯罪に巻き込まれたかもしれないという相談を受けて、家族に危険が及ぶかもしれないから娘を預かっていてほしいと頼まれたと」

「ええ。先日、お嬢さんのデビュタントに招いていただいた際に意気投合しまして」

「それでその件について調べていたら命を狙われてしまったと」

「ええ」


 皓月はいっそ白々しいほどににこやかだ。

 比例するかのように、刑事の面持ちの疲労度が上がっていくようだった。


「毒薬は危ないと思って彼女が捨ててしまった?」

「ええ」

「皓月さん、貴方が今まるで毒でも飲んだように具合が悪そうなのは?」

「おや、そんな風に見えますか?」

「見えますね」

「お恥ずかしい話ですが、昨晩少々飲み過ぎてしまいまして」

「自分を殺すための毒薬が送りつけられてきたことを知った晩にですか」

「あまりにも恐ろしくて酒でも飲まないと眠れそうになかったんです」

「なるほど」


 つらつらと語られるデタラメに、は――、と心底疲れたように刑事がため息をつく。

 リリィが言えたことではないが、なんだか非常に申し訳ない心地になってしまった。

 おそらくお互いにそれが嘘であることはわかっている。

 帳尻あわせのための茶番に過ぎないことをわかった上で、お互いにその役を演じているのだ。

 皓月はまだいい。

 望んで立った舞台だ。

 だが、仕事上仕方なく舞台にあげられたといった風情の刑事のかっくりと落ちた肩には哀愁がほのかに漂っているようにも見えた。

 リリィは申し訳なさからやわりと目を伏せる。

 そうしていると、かえって何も知らずに事件に巻き込まれたいたいけな被害者といった風情が増しているわけだが、リリィ本人は気づいていない。


「どうして倉庫やソヴァン兄弟のことをもっと早く我々警察に知らせていただけなかったんですか」

「不用意に動いてベル家の名に傷をつけるのは申し訳ないと思いまして。確かな証拠を掴んだ上で、ご報告さしあげようと考えておりました。僕の判断ミスでご迷惑をおかけして大変申し訳ありません」

「なるほど」


 棒読みにもほどのある「なるほど(二回目)」だった。

 それから、また疲れたようなため息を一つ。


「通報は市民の義務ですからね。何かおかしなことがあったらご自分で解決なさろうとせず、すぐに警察に頼ってください」

「承知いたしました」


 しらりとした皓月の様子に、刑事は疲れ切った半眼で半ば決まり切ったお役所仕事のように「後からまた二、三お話を伺うこともあるかと思いますので、しばらくは居場所を明らかにしておいてください」などと告げた。

 そうして、ようやく茶番が終わったとばかりに切り上げていくその刑事の背中に向かって、ふと。

 皓月が何気ない様子で声をかけた。


「刑事さん」

「……まだ何か」


 面倒ごとは御免です、と書いてあるかのような愛想のない草臥れた面持ちに負けず、皓月がにこりと双眸を細めて笑う。


「カゼニスより美味しいと評判の茶葉を仕入れたんですよ」


 その言葉の意図にリリィが思い至るより先に、刑事の口角が軽やかに持ち上がる。


「……歓迎しますよ」


 皓月は、多くを口にはしなかった。

 刑事も、聞き返すようなことはなかった。

 疲れたような半眼の奥に喰えない色をちらつかせて、初老の刑事は軽く会釈をすると再びこちらに背を向けて去っていく。

 いつの間にかリリィの隣にやってきていたガベイラが、屈んでリリィの耳元でこしょりと囁いた。


「あれが、皓月の茶飲み友達」


 つまりは、諸々の情報源だ。

 何なら、ソヴァン兄弟の襲撃を受ける前に皓月が電話で話していた相手でもある。


「大人って汚いん……」

「今更今更」


 からりと笑って、ガベイラがリリィの頭をくしゃりと撫でる。

 それから、ポケットの中からキィを取り出して二人へと揺らして見せた。


「さっき部下が代車を届けてくれたから、もう出られるけどどうする?」

「そうだね、そろそろ行こうか」


 スッと立ち上がった皓月に手を差し出されて、状況がわからないままにリリィはその手を取って立ち上がる。


「どこに行くん?」

「ホテルだよ。しばらくは鑑識やら何やらの出入りでここは騒がしくなるからね。そこなら警備関係も信用できるし、安全だ」

「わかったん」

「僕は表に車を回してくるよ」


 ガベイラが一足先に外に出る。

 玄関先ではまだまだ鑑識の人間が作業をしているようだった。

 門を塞いでいた車は既にレッカーで移動されている。

 それでも根元から歪んだ門柱やら、周囲に散った細かい硝子や金属片が事故があった事実を物語っている。

 だがそれも、数日中には修復されることだろう。

 ガベイラのことだ。

 その辺りの手配も万全に違いない。


「ガーベラくんね」


 ぽつりと、車が来るのを待ちながら皓月が口を開いた。


「あれだけ僕に無茶をするなと小言を言っておきながら、自分はギリギリまで運転席から動かなかったんだよ」


 はあ、と物憂げなため息が零れる。

 その視線の先には、事故の痕跡が色濃い門がある。


「相手の車が見えたらすぐに退避しろって言ってあったのに。少しでも衝撃を減らそうとして、ギリギリまで車バックさせたんだ」


 ああ、と思い至った。

 事故の前、ガベイラの警告が響いてすぐのことだ。

 顔を上げて外を見ようとしたリリィの身体は、がくんと前につんのめった。

 あれは、ガベイラが車を後退させたからなのだ。

 だからこそ、あの程度で済んだのだとも言える。


「……そういうところ、本当良くないと思う」

「…………」


 恨めしげにぼやく皓月の声音がどこか心細そうにも響いたもので。

 リリィはぎゅ、と繋いでいる手に力をこめてやることにした。

 眉尻を下げた皓月が、ちらりとリリィへと視線を落とす。

 その希有な色をした綺麗な藤色の双眸を見上げて、言う。


「立派な似たもの同士なん」


 返事は、深々としたため息だった。



■□■



 皓月が避難場所に選んだのは、サザルテラの中でも五つ星と名高い有名なホテルの一室だった。

 急な話であったはずなのに、最上階の角に位置するスイートを用意することが出来たあたりがさすが蓮糸楼のオーナーだと言えるだろう。

 こういった時に、リリィは改めて皓月の持つ力を思い知る。

 皓月はわざわざ出迎えに出てきた支配人相手にも卒なくにこやかに言葉を交わし、平然とした面持ちで部屋まで案内させ――…彼らがいなくなったとたんにまっすぐにベッドへと向かった。

 キングサイズのベッドにどさりと腰掛けて、まるで急に電池が切れた玩具のようにぐにゃりと項垂れる。

 その落差についていけずにリリィが瞬いている間に、皓月はのろのろと幽鬼のように視線を持ち上げてガベイラへと視線をやった。

 

「ガーベラくん」

「はいよ」

「着替え、手伝って」

「はいはい」


 手伝いを要請した割りに、皓月の黒革に覆われた指先が自分で身に纏う艶やかな装束の釦を一つ一つゆっくりと外していく。

 日頃、他人に肌を見せるのを良しとはしない皓月が目の前で着替えようとしているという事実に、状況も忘れてリリィの心臓はドキドキと高鳴っていたわけだが。

 鮮やかな装束の下から出てきたのは決して素肌ではなく、ぴたりと手首、喉元までを覆うようなインナーの黒だった。

 さらにはその上に、無骨な厚手のプロテクターを重ねている。

 皓月が固定用のベルトを外すのを待ってから、ガベイラはすぽりと引き抜くようにしてプロテクターを脱がしてやった。

 そのままの勢いで、皓月はばたりとベッドに身体を沈める。

 ぽいと傍らのソファの上に放り出されたプロテクターは、どすりとなかなかに重そうな音をたててスプリングを軋ませた。

 リリィ自身も着せられてわかっているが、防弾チョッキというのは軽量化が進んでいるとはいえどうしたって重い。

 弱った身にはなかなかに堪えたのだろう。

 思えば、今日の皓月が長椅子の住人と化していたのはそのせいだったのだ。


「はい、お疲れさま」


 プロテクターに続いてついでに靴も脱がしてやって、それからガベイラは手際よく皓月の身体を布団の中に収納した。

 さらには、手首から先を覆う黒革の手套すらべろりと果物の皮でも向くかのような雑さで剥ぎ取っていく。

 皓月はぐったりとおとなしくされるがままだ。

 ちらりと見えた横顔はよほど疲れているのか、虚無の面持ちだった。

 動物病院で抵抗むなしく保定される猫の面持ちとでも言えばいいのか。

 抵抗しても無駄だと悟りきったが故の虚無である。

 この境地に至るまでにはいろいろあったんだろうな、と察してしまったリリィだ。

 ガベイラはそのまま慣れたように皓月の素肌の手首をとって脈を測り、額に手を当てて熱を測って眉間にギュっと皺を寄せた。


「寝て」


 指示は酷くシンプルだった。

 皓月はンン、と喉を鳴らすようにして頷く。


「…………寝るよ。寝る。さすがに疲れたからね。でも、あと一つ片付けないと」


 ごろり、と皓月が寝返りをうつ。

 枕に頭を沈めたまま、皓月の紫闇の双眸がリリィを見る。

 そうだ。

 あと一つ、片付けないといけないこと。

 それは、リリィの身柄だ。

 部屋に入ってから立ち尽くしたままだったリリィに向かって、皓月は疲れの滲んだ掠れた声音で「おいで」と呼んだ。

 力なくぱたぱたとベッドの端を叩かれたので、リリィはおずおずと歩み寄ってそこにぽすりと腰掛ける。


「今日はどたばたして、大変な一日だったね」


 声音は、穏やかだ。

 とろりと低く、甘く優しい。

 一日の終わりに寝物語を語るような声だ。

 だが、それはリリィにとっては夢の終わりを語る声でもある。

 リリィは、『ソヴァン兄弟の手出しを恐れた父親によって皓月に預けられた』ということになった。

 そのソヴァン兄弟が捕まった今、リリィが皓月の元に残る理由はなくなった。

 なくなって、しまった。

 あの優しい日々は、終わってしまった。


「そんな一日の終わりにね、もう一つだけ姫には考えてほしいことがあるんだ」

「考えて、ほしいこと……?」

「そう。これから、どうしたいか」

「どう、したいか」


 これからも、皓月やガベイラとともに暮らしたい。

 そう、喉元までこみ上げた言葉をリリィはぎゅっと手を握りしめてこらえる。

 今目の前で疲れ切ってふかふかのベッドに埋まるように横たわっている男に対して、これ以上の負担を強いるようなことはとても言えなかった。

 リリィのせいなのだ。

 リリィに関わったせいで、こんなことになった。

 それなのに、これからも一緒に暮らしたいなどと言えるはずもない。

 皓月にとっては何のメリットにもならない。

 リリィには、皓月に対して差し出せる対価が何もない。


「姫が望むならね、僕は君を逃がしてやることもできる」

「…………逃がす?」

「そう。善良な後見人を見つけて、その人たちのもとで普通の女の子として生活させてあげることだってできるし……、ああ、そうそう。姫が選んだ学校には確か寮もあったはずだから、そちらに入れるように手配することもできるよ。あとはまあ……、姫が望むのならば、実家に帰してあげることも。でも、それはあまりお勧めしないかな。釘は刺しておいたけど、君のお父様は結構アレだから」

「アレ」

「アレ」


 明確に言葉にしないあたりが、実の娘であるリリィに対するささやかな気遣いであるらしかった。

 ゆるりと皓月の手が持ち上がる。

 黒革を纏わない、素肌の指先が優しくリリィの髪を梳く。

 優しく、思いやりに満ちた仕草だ。

 リリィがどの道を選んだとしても、皓月は快く応援してくれるだろう。


「……………………皓月は」


 考えるよりも先に、その疑問はほろりとリリィの唇から零れ落ちていた。


「どうして、そこまでするん」

「うん?」

「どうして、姫にそこまで親切にしてくれるん」


 皓月は、今回何も得てはいない。

 リリィを守り、ベル家の名誉を守り、ソヴァン兄弟のドラッグビジネスからサザルテラを守ったものの、その報酬と呼べるようなものを何一つ得てはいない。

 むしろ被害は甚大だ。

 自らの命まで懸けて、車まで潰されて。

 一体、何の為に皓月はそこまでしたのだろう。

 何が、皓月にそうさせたのだろう。

 皓月は蓮糸楼というカジノのオーナーであり、経営者だ。

 それも一代であそこまで蓮糸楼を大きくし、サザルテラでも五本の指に入ると謳われるほどなのだから、特別優秀な経営者だと言えるだろう。

 それなのに、こんな益のないことにどうして手を尽くしてくれたのかが、リリィにはわからない。


「姫が」

「うん」

「姫が…………可愛いから、なん?」


 本当は。

 好きだからなのか、と聞きたかった。

 リリィへの好意故に助けてくれたのか、と。

 そうだったら良いと思った。

 そうであったのなら、リリィは皓月に渡せるものがある。

 まごころでもってその気持ちに応えることができる。

 そうであってほしいと願って初めて、リリィはこの自らの夫となるはずだった男のことが好きなのだということに気づかされた。

 好きなのだ。

 好きになって、しまった。

 皓月は、リリィの問いに一瞬驚いたように瞬いて、それから小さく笑った。

 さざ波のように穏やかな声音だ。

 優しく耳朶を擽って、何も残さずに引いていってしまう。


「そうだね、姫が可愛かったから」

「皓月」


 大人が、小さな子どもをあやすような、揶揄うような言葉に拗ねたような半眼を向ける。

 それが許されるとわかっていて、甘えて見せる。

 そんなリリィに、皓月はまた一つ喉を鳴らすようにして笑った。


「嘘じゃあないよ。でもまあ、そうだね。あともう一つ理由をつけるとしたら――…、自己満足だろうな」

「自己満足?」

「……僕もね、あまり家庭には恵まれていなくて。君に、自分自身の境遇を重ねて……、君を通して、過去の自分を救済していたのかもしれない」


 皓月の声音は変わらずに静かだ。

 救済を必要とするほどのかつての痛みをすべて受け入れて、過去にしてしまったからこその揺らぎのない声音だ。


「それと、僕、ドラッグというものが大ッ嫌いでね。我慢ならないんだ。だから……、そうだね。君は、僕に利用されたんだと考えてみたらどうかな」


 優しく、髪を撫でながら皓月は言う。

 だから何も気兼ねなどしなくて良いのだと語る。


「僕が、ソヴァン兄弟を潰す為に君を利用したんだ。だから、僕の提案はそのことに対する埋め合わせだと思ってくれたら良いんじゃないかな。実際に危険な目にもあわせてしまったし……」


 そ、と素肌の指先が触れるか触れないかの距離感でリリィの目元をたどる。


「……泣かせても、しまったから」

「今もすごく泣きたいん」

「エッ」


 泣きたくもなる。

 リリィの好いた男は、リリィのためにたくさんのことをしてくれた。

 命すら懸けて、リリィとリリィの家族を守ろうとしてくれた。

 それなのに、それは単なる個人的な主義信条によってやったことなので恩に感じる必要すらない、なんて言われてしまったのだ。

 感謝ぐらい、させてほしい。

 優しい言葉で、リリィの気持ちに背を向けないでほしい。

 おろり、とどことなく動揺した風情の皓月をリリィはまっすぐに見据える。

 こんな風、リリィが泣きそうだと言っただけでこんなにもわかりやすく心を揺らして見せるのに、それを何でもないことのように扱わないでほしかった。

 リリィ自身の為だけでなく、皓月が自身の感情をないもののように扱うことが、リリィにはあまり面白くなかったのだ。

 皓月の言葉は、的外れではあっても常にリリィのためにだけ紡がれている。

 気にしなくていいのだと、恩を感じる必要などないのだと、それはリリィのために語られる言葉だ。

 皓月自身の気持ちは、どこにあるのだろう。

 自分自身の気持ちを隠すことに長けた大人の男だと、思っていた。

 人のことを思いやることのできる立派な大人なのだと。

 けれど、きっとそれは違うのだ。


「…………姫は、ちゃんと皓月のことが、好きなん」


 口にした言葉は、あまりにもすとんと腑に落ちた。

 リリィは、皓月が好きだ。

 ドラッグビジネスが嫌いだという理由だけで、利益を度外視して自らの命すら懸けて危険な犯罪者と対峙してしまうような危うくも強かでうつくしい男が。


「好き、なん」

「――…」


 閉ざされた実家の部屋から連れ出して外の世界を見せてくれて。

 リリィのことをベル家の娘ではなく、一人の人間として敬意を持って接してくれて。

 たくさん、たくさん、優しくしてくれて。

 そんな相手を、好きにならない方がおかしい。


「なのに、利用した埋め合わせなんて、ひどいん」

「エッ、エッ、いや、エッ」


 皓月の身体がずり、と逃げを打つようにずり上がる。

 どうやら、本気で焦っているようだった。

 それが、こんな風にリリィから好意を寄せられることなんてまるで考えていなかったのだという証左じみていて、余計にリリィの心を苛立たせた。

 皓月の、自分自身には誰かから好意を寄せられる価値はない、と頑なに思い込んでいるような態度がかなしくて、腹が立つ。

 皓月は、自分自身の気持ちを棚に上げる。

 自分自身には何も願いもないのだというように扱う。


「皓月は、姫と結婚するのは嫌なん?」

「エッ」


 平然とわらって毒を湛えた杯を飲み干して見せた男が、心底追い詰められた面持ちでおろおろと視線を揺らしている。

 だから、リリィは我侭と知りつつも自分の気持ちをぶつけることにした。

 厭なら厭だと言ってほしかった。

 皓月自身の気持ちを聞きたい。


「姫は、後見人も全寮制の学校も嫌なん。皓月の、奥さんになりたいん」

「エ……」


 皓月は、これまでリリィが見てきた中で、一番困った顔をしていた。

 完全に言葉を喪っている。

 起こした上身をびたりとベッドの背に貼り付けて、逃げ場を求めるように視線が揺れている。

 言いたいことを全部言って、リリィは皓月の返事を待つ。

 口をむんとへの字にして、さあ来いと待ち構える。

 振られるなら、それはそれで良いのだ。

 それだって、皓月自身の気持ちであり、言葉であるのだから。

 と、そこで。


「ふひ」


 変な音がした。

 なんだなんだ、とリリィがその音のした方向を見やれば、ガベイラが懸命に口元を片手で覆っているところだった。

 前屈み気味に片手で口元をぴったりと覆い、もう片手で気にせず続けて、と言うような仕草を繰り返している。

 その背中が揺れている。

 めっちゃ小刻みに揺れている。


「ガーベラくん、他人事だと思って笑うのやめて!」

「いや笑うでしょ笑うよわははははは」

「ガーベラくん!!」


 苛立たしげ3割、焦り7割の声音で怒鳴って、皓月が背とベッドヘッドの間でみっちりと圧縮されていたふかふかの枕を引き抜いてガベイラへと投げつける。

 それをあっさりぽすりと受け止めて、ガベイラはちょうど良いとばかりにその枕に顔面を埋めた。

 少しでも笑い声を殺そうという気遣いらしい。

 が、それでも殺しきれなかった「ぷくくくくくくくくくく」という笑い声が時折零れてくるのにあわせて、皓月のこめかみが引き攣っている。

 睨み付ける目元は化粧の朱だけでなくほんのりと色づいていた。

 いつもは平然としれりとした面持ちを保つ男が動揺しているのは、リリィにとっても随分と愉快な気がする。

 この男の感情を揺らすことができる、というのはそれだけ特別扱いをされているような気がしてしまうのだ。

 じ、と見つめて返事を待つ圧をかけていれば、心底困った、というように皓月が口を開いた。


「……ええと。その。あのね」


 普段饒舌な男には不似合いなほどに、たどたどしい口ぶりだ。


「僕は、姫より一回り以上年上でね。そんな僕が、14歳の姫に奥さんになって、なんて言うのは大変にこう、よろしくないというかね?」

「認めなよ、皓月」

「うるさいよ外野!」

「はいはい」


 ぱふ、と音がする。

 おそらくまたガベイラがおとなしくクッションに顔を埋める音だろう。


「…………あと、そのなんだ、あまりこう、姫を縛りたくもなくて」

「……………………」


 縛る、とは。

 リリィは、ちょろ、と視線をガベイラに向ける。


「ママ……」

「ママではないよ」


 即答で否定しつつも、枕に顔をうずめていたガベイラが顔をあげて口を開く。


「姫に恩着せがましいことをしたくない、ってさ」

「なるほど」

「解説するのやめてくれる!?」

「わははははははは」


 ガベイラは心底楽しそうである。

 笑い声が軽快だ。

 皓月はといえば、ひたすら困ったように眉尻を下げて目元を染めている。


「姫は賢い上に、優しいからね。僕の望みが透けて見えたら、負い目からそれを叶えようとしてしまうかと思ったんだよ」


 リリィが、皓月への恩を返すために側に居ることを選ぶようなことを避けたかった、ということらしい。

 いつかその選択がリリィの負担になるだろうと思って、あえて言わないことを選んだということ自体が既に充分な優しさで、好意の現れだと思ってしまうのはリリィの思い上がりだろうか。


「皓月は姫のこと好きなん?」

「直球で追い詰めるのやめて」


 傍らで、ぶふッと吹き出す音が聞こえた。

 

「皓月」

「好きだよ。皓月ね、基本的に人間不信の野生動物だから家に他人を入れたくないし、他人の気配のあるところでは眠れないんだよ。でも、姫のことは自宅に迎えたし、寝室に来るのだって拒んだことないだろ」

「ガーベラくん!!」

「わははははははははは」


 ガベイラは絶好調だ。

 完全に面白がっている。

 心底楽しそうにわろている。


「………………」


 皓月は射殺しそうな勢いで放っておいても勝手に笑い死にそうな護衛の男を睨みつけた後、完全にふてくされたかのようにもぞもぞと布団の中に潜り込んでしまった。

 ごろりとリリィに向けられる背中はこんもりと丸く、どことなく哀愁が漂っている。

 これまで、リリィの前ではずっと寝たふりをしてきてくれていた背中をそろりと撫でる。


「皓月」

「…………なぁに」

「姫、これからも皓月と一緒にいたいん」

「…………」


 ごろり、と皓月が寝返りを打つ。

 寝乱れた黒髪の隙間から、紫闇の双眸が困ったような、それでいて暖かな苦笑を宿してリリィを見上げる。


「……僕はね、蓮糸楼というカジノのオーナーで。犯罪者……、というほど悪いことはしてないつもりだけれども、真っ当な人間だと胸を張って言えるほどクリーンでもない。そもそも出自すら怪しいしね」

「それでも、皓月が良いん。皓月はどうなん」


 皓月が、リリィを傍らに置くべきではないという話が聞きたいわけではなかった。

 皓月自身が、リリィをどう思っているのかが聞きたいのだ。

 

「…………」

「…………」


 皓月が、ふ、と呼気を逃した。


「……姫」

「なん」

「僕は今日とても頑張って、とても疲れているので、膝枕をしてほしい」

「誤魔化しでは」

「膝枕してほしい」


 ごり押しだった。

 まあ、皓月がそう言うのなら、とリリィももぞりとベッドの上に上がる。

 そのリリィの膝に頭を乗せて、皓月はといえばふて寝めいて丸くなってしまった。

 艶やかな黒髪から覗く白い耳朶が、うっすらと赤いことに本人は気づいているのかどうか。


「……モラトリアムだ」


 皓月が、小さく言う。

 モラトリアム。

 それは、大人になるまでの猶予。

 いつか独り立ちするまでの、準備を整えるための時間。


「リリィ・ベル」

「なん」

「僕は、君を受け入れる」

「…………」


 ちらり、とリリィはガベイラを見る。


「ママ」

「ママではないよ、あと皓月が一緒に暮らしていいって」


 リリィにもわかりやすいように翻訳してくれる優秀な護衛に、皓月がぐうと恨めしげに呻いていたのをあやすようにリリィはその黒髪を指先で撫で梳く。

 いつか、大人になるまでのモラトリアム。

 大人になったリリィが望めば、皓月はその時こそきちんと応えてくれるのだろうか。

 人間不信の野生動物めいた男も、いつかは自分に向けられる他人の好意を信じることが出来るようになるのだろうか。

 と、そこではたと気づいた。


「姫がいると、皓月、眠れないのでは」


 他人が側にいると眠れないのだと、ガベイラは言っていた。

 リリィが皓月の屋敷で暮らすようになって、ほとんど自宅では眠れていなかった、ということだろう。

 そもそも、そんな皓月にとって不特定多数の出入りするホテル、というのはあまりにも休息に不向きなような気がしてくる。

 そんなリリィの素朴な疑問に、あっさりと答えたのはガベイラだった。


「僕がいるから大丈夫」


 ぱちり、とリリィは瞬く。


「ガベイラがいると、皓月、眠れるん?」

「うん。僕がいれば眠っても大丈夫だって学ばせました」


 ぶい、とガベイラが誇らしげにVサインを送ってくる。


「僕はこっちのソファで休むからさ」

「……、せっかくスイートで部屋を取ったんだ、君、隣の部屋のベッド使いなよ」

「元々そっちは姫のために取った部屋だろ」

「そうだけども」


 続きの間は、リリィのために用意された部屋であったらしい。

 『婚約者』との立場に縛られなくとも良くなったリリィのために、という皓月の気遣いだろう。

 ガベイラは元々皓月の護衛として、その傍らに控えるつもりでいたようだった。

 皓月が人間不信の野生動物だというならば、さながらガベイラはその飼育員である。


「…………」


 リリィは、キングサイズの広々としたベッドのスペースを見る。

 それから、ガベイラを見る。


「ガベイラも一緒に寝たら良いと思うん」

「皓月どうしよう、僕姫のこと本気で好きになっちゃった」

「……………………」


 皓月は頭痛が痛いというような面持ちでぐったりとリリィの膝に伏せたまま動かなくなった。

 死んだふりかもしれない。


「ベッド広いし、ふかふかだし、3人で寝ても大丈夫なん」

「いろんな意味で大丈夫じゃなくない……?」

「大丈夫大丈夫、僕の本命は皓月だから」

「ガーベラくん、もう黙って頼むから」

「わははははは」


 楽しそうに笑いながら、ガベイラがベッドに乗る。

 きしりとスプリングが軋んで、そちら側が沈む気配がリリィの身体にも伝わってくる。


「…………」


 皓月はもう抵抗を諦めたのか、さっさと夢の世界に逃避することを決めたようだった。

 紛うことのない現実逃避である。

 僕は寝ています、と主張するように瞼が下ろされてからそう間を置かずに、静かな寝息がすよりすよりと響く。

 よほど疲れが溜まっていたのだろう。 

 とはいえ、もしかしたらこれもやっぱり寝たふりなのかもしれないが。


「膝、つらくない?」


 気遣うような言葉に、平気なん、と答える。

 それから、リリィはそっと口を開いた。


「ガベイラは、皓月のことが好きなん?」

「好きだよ」


 返事は即答だった。


「好きじゃなきゃ、こんな手の掛かる野生動物の面倒見てられないって」

「確かに」


 圧倒的な説得力に、リリィもしみじみと頷く。

 皓月は上司や経営者としては優秀だが、護衛対象としては失格だ。

 

「………………」

「姫?」

「ガベイラは、姫が皓月の側にいるの、嫌じゃないん?」


 ガベイラは、皓月のことが好きなのだと言った。

 普通、恋敵というのは望ましい存在ではないだろう。

 これまでたくさん親切にしてくれて、リリィの立場に寄り添ってくれたガベイラにその真意を問うのは恐ろしい気もしたが、だからこそリリィは知らないふりをすることもしたくはなかった。

 無邪気に恋心のままに振る舞って、ガベイラを傷つけるのは本意ではない。

 と、いうのに。


「いや?」


 リリィの真剣な問いに対するガベイラの返答はどこまでも軽かった。


「僕さ、すごい博愛主義なんだよね」

「博愛主義」

「愛が多いというか」

「愛が多い」


 リリィにはよくわからない。

 皓月なら、翻訳することが出来るのだろうか。

 助けを求めるように、膝の上ですややかに眠る男の横顔に視線を落としても見るものの、助け船を出して貰えそうな気配はなかった。

 本当に寝ているのかもしれない。


「僕はずっとみんな好きで、誰も好きじゃなかった」

「…………難しいん」

「特別がなかった、って言ったらわかりやすい?」

「なるほど」


 全員が同じぐらい好きで、特別抜きん出て好きな相手、というものがいなかったというのならそれはなんだか少しわかるような気がした。 


「僕は、人を好きになる才能がありすぎるか、逆になさすぎるんだと思ってた。でも皓月に出会ってさ、こんな面白いヤツがいるのか、って衝撃的で。それなのに放っておいたらあっさり死んじゃいそうで、それはやだなって思ったんだよね。だから、こうして今も傍にいるわけなんだけど」


 誰もが特別になりえなかったガベイラにとっての、『特別』。

 それが皓月という存在であるらしい。


「特別だけど、僕だけを見てほしい、とかそういういわゆる恋愛感情っていうのかな、そういう気持ちはないんだよ。説明しづらいんだけど。皓月が誰かに害されたりするのは絶対に許せないし、許さないけど、皓月が誰かを好きになって、幸せになるのは大歓迎、というか」


 そんなことを穏やかに語りながら、ベッドサイドのリモコンを使ってガベイラは部屋の明かりを落としていく。

 枕元の橙の明かりだけが柔らかく三人の枕元を照らしている。

 部屋の四隅には闇がわだかまり、ベッドの上だけがこの世界に取り残された空間であるような不思議な心地がしてくる。

 暗がりを漂う暖かな船、であるかのような。

 世界にたった三人だけで取り残されてしまった、ような。

 そんな暖かな薄暗がりの中で、秘密を打ち明けるようにガベイラがうそりと笑う。


「で、今君のことも結構好きだよ」


 鮮やかな碧の双眸が、リリィを見ている。

 怯えを見透かすような双眸だ。

 もしもここでリリィが少しでも怖がるそぶりを見せたなら、ガベイラはいつものように「冗談だよ」と笑って、これまでの会話をすべてなかったことにするのだろうと思った。

 そうやって、生きてきた男だ。

 人当たりの良さで、己の抱える歪を人に悟られずに生きてきている。

 だから、じ、とリリィはまっすぐにガベイラを見つめ返した。


「そうやってね、こっちの思惑を即座に読み取って、対応できる賢いところも好き」


 リリィがガベイラの意図をしっかり読み解いていることすら把握しているのだぞ、とガベイラはにこやかにわざと声に出して言う。

 皓月の傍で、明るく朗らかに振り回されているだけの男であるように振舞いながら、それだけではないのだといういうことをリリィは改めて思い知る。

 一筋縄ではいかない。

 だから、どうせ読まれているのだろうと思いつつ、リリィはまっすぐに真心だけを告げる。


「姫も、ガベイラのこと、結構好きなん」


 ふは、と柔い呼気が笑った。

 伸びてきた大きな掌が、くしゃくしゃとリリィの髪を撫でていく。


「ガーベラ」

「なん?」

「ガーベラでいいよ」

「ガーベラ」

「うん」


 ガベイラがベッドに手をついて、リリィの方へと身を乗り出す。


「……おやすみ」


 額に触れていったのは、柔らかな口づけだ。

 慈愛に満ちた、優しい触れるだけの口づけ。


「………………」

「嫌だった?」

「嫌じゃ、ないん」


 嫌では、ない。

 嫌ではないが、果たしてこれは皓月の奥さんを目指す立場としては如何なものなのか。

 悩ましくてむ、と眉間に皺を寄せていれば、膝の上から眠たげな声がぼやいた。


「………………浮気だ、ずるい………………」

「皓月、寝たふりは趣味が悪いよ」

「半分くらい寝てたよ本当に。ガーベラくんが姫を困らせてなきゃそのまま寝てたよ」


 声はどこまでも眠たげだ。

 浮気だ、なんて言いつつもその声音にはとろとろとした眠気と、わざとらしく拗ねるような響き、すなわち揶揄う思惑しか籠もっていない。

 ごろりと寝返りで皓月の頭がリリィの膝から落ちた。

 シーツの上にとすんと落ちて、そこで初めて皓月は枕をガベイラに向かってぶん投げたことを思い出したらしく、忌々しそうに眉寝を寄せた。


「ガーベラくん、まくら返して」

「自分で投げといて」


 それでも笑い声を殺すのに使っていた枕を返してやるガベイラだ。

 ふかふかの枕に頭を乗せて、ふすー……と皓月は満足げに息を吐く。

 それからゆるりと手を持ち上げて、リリィの頬に手を添えた。


「ぼくも、する」


 腕の重さで引き寄せるようにされて、逆らわずにかがんだリリィの額に、ちゅ、と唇が優しく触れていく。


「僕もしたげようか」

「いらない……」


 皓月の呻く声に、ガベイラがまた楽しげに笑う。


「……おやすみ、姫。また明日ね」

「おやすみ、なん」

「おやすみ、ガーベラくん」

「はい、おやすみ」


 静かに睫が伏せられて、すや、とまた穏やかな寝息が聞こえ始める。

 いろんなものに化かされたような心地で、リリィはぼんやりと瞬いた。

 この関係に何と名前をつけたら良いのかがリリィにはわからない。

 きっと、皓月やガベイラだってわからないだろう。

 けれど、明日からもこの優しい日々は続くのだと思えば、名前がわからないことぐらいは些細な問題だと思えた。


「おやすみなん」


 呟いて、リリィももぞりとお布団に潜り込む。

 暖かな腕にぬっくりと抱き寄せられて、ふくりと唇が笑った。


 これは14歳の世間知らずの少女と、人間不信の野生動物男と、突き抜けた博愛主義男が名前のつかない関係を満喫するモラトリアムの物語だ。


すなわち、―――幸福のモラトリオ。


終わったー!!!!!!!!!

ここまでお読みいただきありがとうございました!

ひと先ず第一部はこれで終わりです。

書きたい小ネタやらなにやらいろいろあるので、これからもぼちぼち続けていけたらよいな、と思います。


ここから先は書き溜めがない為、不定期更新になるかと思います。


PT、ブクマ、感想等励みになりますので、なにとぞよろしくお願いします!

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― 新着の感想 ―
[一言] なんか、漠然と良かったです ここって言えないくらい、全部好きです 暖かくなります ありがとうございました
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