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【第二章まで完】幸福のモラトリオ  作者: 山田まる
第一章 姫の嫁入り
13/22

決着


「――…と、いうことだったらしいよ」


 どこまでも他人事のようにそう宣った皓月に、リリィはくぅと喉を鳴らした。

 何故なら、リリィの口は隣のガベイラによりそっと塞がれていたもので。

 皓月が通話を終えたのがわかるように端末を下ろしたのに合わせて、リリィの口元を覆っていた大きな手が引いていく。

 皓月はそこで始めて二人のそんな様子に気づいたようだった。


「もしかして、姫もベル伯爵と話したかったかい? すまないね、気が利かなくて」


 気の毒そうに眉根を下げて謝罪されるものの、問題はそこではない。

 確かに、リリィは父親と話したかった。

 否、怒鳴りつけてやりたかった。

 スピーカーで共有されていた二人のやり取りの中で、自分がしたことを棚に上げ、今もまだ貴族然として振舞い、皓月をあくまで格下の人間であるかのように扱う父親の物言いが頭に来ていたのだ。

 恥知らずだの、その他たくさんの罵詈雑言をぶつけてやりたかった。

 ガベイラが口を塞いでくれていなければ、きっとリリィは端末の向こうの父親に向かって怒鳴り散らしてしまっていたことだろう。

 通信が途絶えて、一息つけば今度はひたすらに父親の存在が恥ずかしくなる。

 父親には皓月を殺めてでも成し遂げたい目的があったわけではなかった。

 何か明確な成功への道筋が見えていたわけではなかった。

 ただただ流されただけだ。

 犯罪者に目をつけられ、良いように操られ、諾々と従っただけだ。

 引き返すべきターニングポイントはいくつもあったはずなのに、そのすべてを父親はことごとく見過ごした。

 まるで、敵の姿が見えなければ自分は安全なのだと信じて砂に頭を突っ込む鳥のようだ。

 見えなければそこに危険などないのだと信じたくて、ありとあらゆる警告に目を瞑った。

 そしてそれはリリィも同じだ。

 父親に言われるがまま、家の為という名目で皓月との結婚を決め、その命を狙おうとしてしまった。

 皓月やガベイラと過ごした時間が、リリィに「自分で考えて決める」という生き方を教えてくれたのだ。

 だから、リリィは立ち止まることが出来た。

 あの時間がなければ、リリィはきっと嫌だな、と内心思いながらも父親の駒であり続ける生き方を受け入れてしまっていただろう。

 だから、リリィが今父親に感じている怒りや嫌悪は、かつての自分に対して向けるのにも似た同族嫌悪のようなものであるのかもしれなかった。

 むぅ、とリリィは唇をへの字にする。


「姫はちょっとベル伯爵に怒ってただけだよ。僕も、あの言い様にはちょっとムカっときたな。姫の父親じゃなければ一発ぶん殴りたいところ」


 ぽん、とリリィの頭に大きな掌が乗る。

 ガベイラだ。

 リリィの怒りや、自己嫌悪ごと宥めるようにくしゃりと頭を柔らかに撫でていく。

 掌から伝わる温かな体温にほうとやわらかな呼気がこぼれた。

 少しだけ、気が抜ける。


「姫が許すん」


 スンとした面持ちで言う。

 隣のガベイラは、面白そうにくくく、と喉を鳴らして笑った。

 皓月だけが、同情するかの面持ちで君に殴られたら死んじゃうからやめたげなよ、などと優しげなことを言っている。

 だが、それが上っ面だけの優しさであることはもうリリィにもわかっていた。

 皓月のそれは優しさというよりも無関心だ。

 皓月にとって、ベル伯爵にはリリィの父親というだけの価値しかないのだ。

 自分を殺そうとした男、としてすら認識されていない。

 だから路傍の石をわざわざ蹴ることはない、と一見すると優しげな言葉がつらつらと出てくる。

 現に、すぐに皓月の興味はベル伯爵から逸れたようだった。


「それにしても、ソヴァン兄弟の目的が蓮糸楼の乗っ取りだったとはね。僕を殺したぐらいで乗っ取れる店だと思われているのは少々面白くないな。僕には優秀な部下がついているっていうのに」


 そう言って、ちらりと皓月が面白がるような視線をガベイラへと向ける。


「どう?」

「どうって?」

「僕が死んでいたら、彼らの目論見は成功していたと思う?」

「皓月と僕を殺せてたら――……まあ、三日から最長一週間は時間を稼げたかもね。皓月が病気で倒れて、僕がそこに付きっ切りになっている、とでもいえば見知らぬ彼らが店を取り仕切りだしたとしても従業員たちが不審に思うまで少しは時間を稼げるはずだ」

「うーん……、僕とガーベラくんで店回してる弊害がこんなところに。もうちょっと店のことを高いレベルで取り仕切る人間をふやしてもいいかもしれないな」


 皓月は悩ましげな面持ちで、黒革の手套に包まれた指先で顎先を撫でる。

 警戒心の強い皓月としては、あまり身近に置く人間を増やしたくはないのだろう。

 だがその少数精鋭スタイルを理由に乗っ取りを仕掛けられたとあれば対策を考えなければ、と眉間に浅く皺を寄せている。

 それに対して別にいいんじゃない、と軽くさらりと言ってのけたのはガベイラだった。


「とは言っても実際その穴を今回突かれているわけで」

「そもそも僕がついててそう簡単に死ねるわけないじゃん」

「――……」


 当たり前の事実のように、ガベイラはなんの気負いもなくあっさりと言う。

 そう言ってにこりと向けられた笑みに、安心する、というよりもむしろ怯んだように皓月の視線がうろりと揺れた。

 リリィの脳裏を、昨夜浴室で行われていたある意味容赦のない救命措置がよぎる。

 簡単には死なせない、というのはそういうことだろう。

 何をしてでも生かしてみせるというぶっとい釘である。

 心強いを通り越してむしろ脅迫の類いだった。

 こほん、と皓月が咳ばらいを一つする。

 煙に巻いて逃げます、というある種の降伏宣言だ。

 ガベイラもそれはわかっているのか、それ以上追撃せずにのんびりと珈琲を啜っている。


「ええと、それでだね。彼らの潜伏先のメドがついたわけなんだけれども。どうしたものだろうね?」

「とりあえず、君の茶飲み友達にでも連絡したら? あの人なら上手くやってくれるでしょ」

「内々で片付けるのは?」

「難しいね。うちはどちらかというと専守防衛で、攻撃に出られるほどの戦力は持ち合わせてないから」

「……なるほど。今後の課題として考えておこう」


 ふむ、と皓月が目を伏せる。

 少し考えて、皓月は再び端末を手に取る。

 慣れたようにキーパットを叩く指先に迷いはない。

 今度はコール音が聞こえてこなかったので、スピーカーにはしていないのだろう。


「ああ、もしもし。僕です。皓月です。ちょっとした情報がありましてね。先日のお礼に如何かな、と思いまして。いやだな、利用だなんて。あなたにとってもきっと良いお話ですよ。……そう、ソヴァン兄弟の件です。もう居場所は掴んでらっしゃいます? まだ? ああ良かった、お電話が無駄にならずに済みました。どうやら彼ら、港にある倉庫をドラッグの密造工場にしているらしいんですよ。何人か作業員は雇っているようですが、それほどの大所帯にはなっていないようですね。まあ、その辺りは充分に警戒なさってください。住所の方はこの電話を終えたらすぐにメールでお送りしますね。それで一つ頼みたいことがあるんですがーー…、ふふふ、美味い話には裏がある、タダより高いものはない、などと言いますからね。多少は僕にも見返りがあっても良いでしょう? 実は兄弟の狙いは僕の命だったらしくてですね。ああ、心配してくださるんですか? ありがとうございます。僕はピンピンしてますので大丈夫ですよ。警備も今のところは結構です。それよりも僕がお願いしたいのは情報管理の徹底なんですよ。倉庫に突入して兄弟を押さえた際に、『二人とも捕らえたかどうか』をすぐに僕に連絡していただきたいんです。片方押さえている間にもう片方に襲撃でもされたらコトですからね。あわせて、もしも兄弟が別行動していた場合は兄弟間の連絡はもちろん、別行動中の片割れには倉庫が押さえられたことが知られないようにしてほしいんです。そちらとしても逃がしたくはないでしょう? ええ、もちろん。兄弟が僕の元に現れた際にはご連絡いたしますとも。この条件で如何です? では、取引は成立ですね。ありがとうございます」


 つらつらと会話を終えて、皓月が端末を下ろす。

 そのまま指先が画面を滑って、口頭で約束した通りに情報を送信したようだった。

 端末を腹の上に伏せた状態で置き、皓月がテーブルへと手を伸ばして白湯で唇を湿らせてほうと息を吐いた。


「兄弟が別行動している可能性、か」

「現状その可能性は結構高いと思うんだよね」

「理由は?」

「彼らの目的は姫を使って僕を暗殺し、蓮糸楼を乗っ取ることだったわけなんだけど、それはまあ僕が現状生きていて手元に姫がいる段階で詰んでる」

「そうだね」

「でも彼らにとってはそれは大変困った事態なんだよ」

「そりゃあ困るだろ」


 何せ、殺そうとしたことがバレた、という状況だ。

 大いに困った事態である。

 

「いや、単純に僕を殺そうとしたことがバレた、ってことだけじゃなくてね。彼らは苦労してドラッグの原材料を製薬会社の倉庫から盗み出している。内部の人間を脅したか買収したか、それだって簡単なことではなかったはずだよ。ああいった薬は管理が厳しいからね。さらにそれらをサザルテラに持ち込んでいる。で、ようやくベル伯爵から借りた倉庫でドラッグの精製をし始めたわけなんだろうけどもーー…それだけの設備を警察の目をかいくぐって揃えるのにもやっぱり金がかかる。結構な額を初期投資として使っているんじゃないかな。ドラッグは彼らにとっては金の山だ。だけども、ここで計画がポシャれば彼らは大損だ。せっかく作ったドラッグも流通に乗せられなければ意味がないからね。ちまちま路地で売りさばけるような量ではないし、それだけの量が手元にある状態で警察に捕まれば相当の罪になる」

「……なるほど。逃げたいが逃げれば大損、というわけか」

「逃げるにしても、その量のドラッグを持ち出すのは難しいだろうし……、隠すにしても彼はこの土地に来て日が浅い。良い隠し場所なんてそうそう見つからないだろうしね。ともなれば彼らとしては死に物狂いで計画通りに動きたいところだろう」

「つまり、絶対に君を殺したい」

「そういうことだ。ついでに証人となる邪魔な姫やベル伯爵にも消えてほしいところだろうね。そうなると二手に別れて一人は倉庫で万が一に備えて逃げ出す支度を整えつつ、もう一人が僕らを殺すために動いている、と考えた方が良い」

「襲撃がある、と?」

「可能性は高いと思う。とはいえ、乗り込んでは来ないだろうね」


 ちびり、と皓月が再び白湯に口をつける。


「さすがに自宅には警備があることぐらいはわかっているだろうし、そういった警報器の類いをなんとかする技術および警備の人間が駆けつけるまでに事を済ませるだけの戦力が揃っているなら昨夜のうちに乗り込んできているよ」

「君はその襲撃、どれくらいの人数を見込んでる?」

「ソヴァン兄弟は元々それほど武闘派ではないしーー…、他者を利用しつつも仲間を増やして徒党を組むタイプの犯罪者ではないからね。おそらくは単独、もしくは雇ったとしても兄弟が制圧、管理できる程度、といったところだろうね。彼らのやり方からして、土壇場で信用のおけない人間を雇うとは思えない。他人を信用できないタイプの人間はこういったところで苦労するな……」


 皓月の言葉には、他人事にはしきれない実感がしみじみと籠もっている。

 ある意味、ソヴァン兄弟の他人を信用しないスタイルには共感する部分もあるのだろう。

 蓮糸楼の運営も、下に大勢の人間を抱えてはいても皓月が信用して重用しているのはガベイラぐらいだ。

 だからこそ、乗っ取りを仕掛けられた。

 皓月は、ため息交じりに目を閉じる。


「連絡があるまではしばらく待ち、だからね。僕は少し休むから、君たちも今のうちに休んでおくといいよ」

「了解。僕はちょっと警備関係、部下に連絡しておくよ」

「何かあったら起こしてくれ」

「動きがあったら叩き起こすよ」


 ガベイラの言葉に安心したように頷いて、それから皓月は両手を腹の上に置いた端末に重ねるようにして組むとそのまま静かに動かなくなった。

 静かな横顔だ。

 あまりに静か過ぎて、少しだけ、ちゃんと呼吸しているか心配になる。

 そっと近づいてみる。

 ガベイラに止められるかとも思ったが、制止の声はかからなかった。

 かざしてみた掌を、ふと柔い吐息が擽っていく。


「僕も何度かやってるから、その気持ちはわかる」

「皓月は、いびきでもかいてくれた方が安心できるん……」

「ぐう」


 わざとらしいいびきに、リリィは少しだけ笑った。


■□■


 端末に連絡があったのは、それから2時間と少しが経過してからのことだった。

 ヴ、と着信を知らせる振動が始まると同時にこれまで寝入っていたのが嘘のように滑らかに皓月の手が端末を取り上げ、耳元へと運ぶ。

 眠る、というよりも目を閉じて横になり、少しでも身体を休めるのが目的だったのだろう。


「ご連絡ありがとうございます。ええ、はい。ああ、やはり。承知しました。ありがとうございます。何かありましたらご連絡しますとも。ええ、もちろん」


 そんな短いやりとりを交わして、会話を終えた後に皓月は深々とため息を吐き出す。

 のろりと身体を起こす動きも、なんとなく億劫そうに見える。


「どうだったの?」

「倉庫で兄の方は押さえたらしい」

「兄の方……、ということは弟の方は?」

「まだサザルテラのどこかにいるだろうね」

「厄介な」

「ただ、押収した兄の端末に弟と連絡を取った痕跡は残っていないから、まだ兄の身柄と倉庫が押さえられたことを弟は知らないだろう。倉庫には引き続き人を寄越して見張らせるとのことなので、弟が倉庫に戻れば捕まるんじゃないかな。あちらも弟が倉庫に戻る可能性があるうちは情報は伏せておいてくれるらしいのでーー…弟が異変に気づくまでが勝負、といった感じかな」

「それで、どうするの」

「どうしようかなあ」


 困った、と皓月が呟く。

 ただその響きは、打つ手がない故に困っている、というよりもやらなければいけないことはわかっているものの、やりたくないからこそぼやいている、という風情が濃い。

 しばらく唸ってから、皓月は渋々といった様子で視線を持ち上げた。

 紫闇の双眸が、リリィを見る。


「姫、ちょっと相談しても良いかな」

「いいん」


 即答で答えて、リリィはこっくりと頷く。

 これは、リリィの問題でもある。

 出来ることがあるのなら、何だってしたいと思う気持ちに嘘はない。


「今姫も聞いていた通り、ソヴァン兄弟の兄の方は押さえたんだけれども未だ弟の方が捕まってなくてね。現状彼は未だ兄が捕まったことを知らないでいる。なので、捕まえるなら今がチャンスなんだ。気づけば、きっと逃げてしまうからね。それで、弟を捕まえる上で一番手っ取り早いのが囮を用意することなんだ」


 囮。

 獲物を誘き出す為の、餌。

 弟は未だ自分が狩る側だと思っている。

 そう思わせておき、獲物に飛びついた瞬間を捕らえよう、というのだろう。

 作戦としては酷くシンプルで、わかりやすい。


「僕が囮になれば良いだけなら事は簡単なんだけど、ちょっと問題があって」

「問題しかないと思うん」


 リリィはぎゅっと眉間に皺を寄せる。

 その様子に、皓月はくつりと喉を鳴らして穏やかに笑う。

 けれどすぐに、また困ったように眉尻を下げた。


「彼が囮の僕に食いついてくれればそれが一番なんだけれどもね、僕より美味しそうな餌に目がくらまれてしまうととてつもなく困る」

「……皓月より、美味しそうな、餌?」

「姫のことだね」

「なるほど」


 先ほど、皓月が言っていた。

 ソヴァン兄弟にとって邪魔なのは皓月と、生き証人であるリリィなのだと。


「彼らにとってベル伯爵はすでに手の内にある駒だからね。居場所もわかってるし、始末をつけるのも簡単だから、まずは僕と姫を狙ってくるはずだ。そこで僕と姫が別行動していた場合……、僕の方に喰いついてくれればありがたいのだけども、万が一姫の方を狙われると大変困った事態になる」

「ここには乗り込んでこないんじゃないん?」

「僕らがいればね。僕らがいなくなった後、姫一人なら警備が駆けつける前に殺して逃げられる、と彼が踏んだ場合が困る」


 餌が一カ所にまとまっていれば捕食者の動きはある程度予測がつく。

 だが、餌が二手に別れてしまえば、どちらに喰いつくかは捕食者次第だ。


「囮となる僕と一緒に動けば、ともに襲撃を受ける確率はかなり高い。別行動をした場合、半々の確率で僕らのいないところで襲撃を受ける危険性がある。第三の案としては……、そうだね。弟の身柄の確保を今回は諦める、というのもある。けれど、そっちはあまりお勧めしない」

「なんでなん?」

「長期戦になるからね。兄の方は捕まっているから、これから裁判が始まるだろう。そうなれば君やベル伯爵は証人として裁判所に呼ばれることになる。兄にとって不利な証言をする君らは、裁判が終わるまで命を狙われる可能性がとても高い」


 当事者である兄の方は動けなくとも、外には自由に動ける弟がいる。

 裁判というものは、決着がつくまで時間のかかるものだ。

 それほどに長い間、命を狙われているかもしれない、と思いながら怯えて暮らす生活というのはあまり想像して楽しいものではなかった。

 きっと、普通の生活は望めない。


「これは、姫の一生がかかっていることだからね。姫が、決めて構わない。姫は、どうしたい?」


 皓月はこんな時でも、選択肢をリリィに委ねた。

 リリィに、決めさせる。

 皓月自身や、ガベイラにとっても他人事では済まないことだろうに、あくまでリリィの決断に沿うのだと言ってみせる。

 リリィがどちらを選んでも、皓月は責めないだろう。

 それどころか、リリィの選んだ道の最大限の安全を得るために協力だって惜しまないのだろうと思った。

 だから、リリィにも迷いはなかった。

 どの道を選んでも、皓月もガベイラも手を尽くしてくれる。

 それならば、一番勝率が高い方を選ぶまでだ。


「皓月と、一緒に行くん」

「いいの? たぶん、一番危ないよ」


 囮となる餌が一緒に行動しているのだ。

 襲われる確率は一番高い。

 間違いなく、襲われるだろう。

 だが、皓月とガベイラが一緒にいる。

 他の誰かと一緒にいるときに襲われるよりも、そちらの方がよほど安心できると思った。


「いいん。皓月とガベイラと一緒がいいん」

「……そう」


 その決意を確かめるように一度皓月はリリィの双眸を覗きこんだ。

 怯まずまっすぐに見返す硝子色の双眸の強さに、皓月は口元に柔い苦笑を浮かべてくしゃりとリリィの髪を撫でた。


「それじゃあ出かける支度をしようか。姫も着替えておいで。外に出かけるからね。ガーベラくん、車を外に回してくれる?」

「外に?」


 ガベイラが露骨に嫌そうに顔をしかめる。


「狙撃を心配する気持ちはわかるけどね。僕と姫が揃って家から出るところを見せておかないと囮としての意味がないだろう? 多少あからさまなぐらいがちょうどいいよ。第一、うちの玄関が狙えるポイントはちゃんとカウンター用意してあるんだろう?」

「そりゃあしてるけどさ」

「君を、信頼してる」


 殺し文句だった。

 嫌どす、と顔にでかでかと書いてあるような渋面で、それでもガベイラは深々と息を吐きながら首を縦に振った。

 というよりも、項垂れた、という方が正確かもしれない。


「…………周囲のここを狙撃出来そうなポイントにはセンサーとカメラを仕掛けてあるから、人が侵入したらすぐわかるようになってるんだ。その場合は狙撃の可能性が高いということで時間を稼ぎつつ、人をやって身柄を押さえることになる。そう簡単には解除できないし、解除したらしたでこちらに連絡が来るようになってるから大丈夫だとは思うけど……、万が一はあるからね。もしものことがあったらすぐにしゃがんで車の影に入るように。車および玄関のドアは防弾仕様だから、一番近いところに避難して」

「わかったよ」

「姫もわかった?」

「わかったん」

「…………」


 本当にわかってるかな、の顔をされている。

 それも仕方がない。

 頭では状況を理解しているつもりでも、実感がついていかないのだ。

 命を狙われている。

 襲われるかもしれない。

 否、今からわざと襲われにいくのだ。

 足下がふわふわとしている。

 こういうのも、夢見心地、と言って良いのだろうか。

 いまいち現実感が欠けたまま、皓月に着替えておいで、と促されたままにリリィは自室に戻って出かけるための支度を調えていく。

 髪を丁寧に梳かし、お気に入りのワンピースに着替える。

 もしかしたら最期かもしれないのだ。

 とびきりに可愛くしておきたい。

 寝不足故に黒ずんでしまった目元にファンデーションを乗せ、青ざめた血色の悪い頬に、薄くチークを乗せる。

 鏡の中のリリィが平常を取り戻すにつれ、不思議とリリィ自身も落ち着いていくような心地がした。

 姿見で今日も隙なく可愛いことを確認してから、自室を後にする。

 階段の下では、先に支度を調えた皓月が待っている。

 なんとなく、皓月が実家にリリィを迎えに来た日のことを思い出した。

 そう昔ということもないはずなのに、随分と前のことのように思える。

 あの日も、皓月は階段の下でリリィを待っていた。

 そして、手を差し出したのだ。

 あの日リリィは、皓月のことを見知らぬ異国の神様のようだと思った。

 それほどにうつくしい男だった。

 今のリリィは、そんな彼が生身の人間であることをよく知っている。

 触れれば暖かく、殺されれば死ぬ。

 当たり前の、人間だ。

 差し出された皓月の手に、リリィは自分の掌を重ねる。

 黒革越しの柔らかな体温がするりとリリィの掌に馴染む。

 玄関の外には横付けされた車が待っている。

 皓月は後部座席のドアを開けると、恭しくリリィを誘った。

 リリィが車に乗り込んでいる間に、皓月は玄関のロックを確認しているようだった。

 いつもなら後部座席のドアを開けるのも、戸締まりをするのもガベイラの仕事だ。

 そのガベイラが運転席から下りてこないのは、万が一のときにすぐにでも車を発進出来るように、だろう。

 お互いに口に出して何も言わずとも、そうした緊急事態における手順を把握している様子からもこういった事態に日頃から備えていることが窺い知れる。

 戸締まりを終えた皓月が後部座席に乗り込んでくる。

 いつものように反対側の窓に寄ろうとして、そっと引き留められた。


「防弾ではあるけれども、あまり窓には寄りすぎないようにね。あと……」


 ごそごそ、と皓月が運転席の下から箱を引き出す。


「これ、防弾チョッキ。重いし、サイズも合ってないし、可愛くもないのが申し訳ないのだけど。はい、万歳」


 言われるがままに腕をあげたところで、すっぽりと頭からかぶせるようにして着せつけられる。

 サイズは全然合ってはいないものの、ベルトをしめて固定することで多少はマシになった。

 もちろん、可愛くはない。

 乱れたリリィの髪を撫で着ける皓月に、「皓月とガベイラの分は」と問う。

 皓月も、ガベイラも、いつもと変わらないように見える。


「僕らは下から着てるから大丈夫」

「姫もそっちがいいん」


 アウターに響かないインナーというのは大事だ。

 わざとらしく不満げに言ったリリィに、ガベイラがミラー越しに笑う。

 これが済んだら、姫用の可愛い防弾チョッキを仕立てようね、なんてオーダーメイドのワンピースを仕立てでもするようなノリで皓月が言うものだから、リリィもちょっと笑ってしまった。

 非日常の中の日常だ。

 これが、終わったら。

 当たり前のように約束される未来に、ほっとする。


「それじゃあ、行くよ」


 二人がシートベルトを締めたのを確認してから、ガベイラが滑るように車を発進させる。

 そして車が門から半分ほど出たところで。


「来るッ!」


 ガベイラが鋭い警告を告げる。

 リリィの身体が軽く前につんのめる。

 何があったのかと窓の外を覗こうとした身体を、横から強く抱きこまれた。

 皓月の肩口に顔を埋めるような形になって、何も見えない。

 何も見えないまま、金属がへしゃげる轟音とともに、車が酷い音を立てて横に滑る衝撃にがくがくと身体が揺れた。

 皓月に抱き込まれていなければ、リリィの身体はピンボールのように車の中で跳ねてあちこちにぶつかっていたことだろう。

 耳が、キィンと痛む。

 状況がわからないままに目を開ける。

 まず目に入ったのは、めこめこに凹んだ運転席側の扉だった。

 フロントにも、窓にも白くびっしりと細かい罅が入っていて、外の様子はわからない。


「がべいら」


 細く、呟く。

 運転席が、潰れている。

 あんなところにいたら、人はタダでは済まない。

 ザッと全身から血の気が引く。


「ガベイラ」


 祈るように名前を呼んだところで、「ッ、つう……、皓月、姫、無事!?」とその本人の声が助手席から響いた。

 

「ガーベラくん、姫をお願い」


 耳元で皓月の声が響く。


「はあ!?」


 と素っ頓狂なガベイラの声がしたと思った次の瞬間には、するりと皓月は鮮やかな長衣の裾を翻して車の外に飛び出していくところだった。

 だらりと、鋭い刃物で切られたのだとわかるシートベルトの残骸だけが垂れ下がっている。

 ぱちり、とリリィは瞬く。

 まだ、何が起こったのかがわからない。

 ただ、また皓月が一人で何かやらかそうとしているのだということだけはわかった。


「ガベイラ!」

「姫はそのままそこでしゃがんでじっとしてて、僕か皓月が迎えにくるまでは動かないで。ただ、どこかで火が出たらすぐに車から離れて」

「わかったん!」


 ああもう、と苛立たしげにぼやきながら、ガベイラが助手席側から運転席側のへしゃげたドアを蹴り開ける。

 ガン、と凄い音がした。

 車がちょっと揺れた。

 がらんがらんがらん、と吹っ飛んだ車のドアが地面で跳ね返って音を立てている。

 皓月が言う、君に殴られたら死ぬと思う、という言葉の意味をこんなところで実感してしまったリリィだった。

 ガベイラが飛び出していった後の、ぽっかりと空いた運転席側の空間から煙とオイルの匂いが車内のリリィの鼻先にも漂ってくる。

 詳細はわからずとも、事故があったのだということだけはわかった。

 何かあった時にはすぐに外に出られるようにと、リリィは震える指先でシートベルトを外す。

 何度ももたついて、カチャカチャと金具が鳴る音が嫌に耳についた。

 もしかしたら事故の衝撃で少し金具が歪んでしまっているのかもしれなかった。

 それでも何とか外して、それから座席の隙間に身を隠すようにしゃがみこむ。

 外からは、男の怒号が幾度か響いた。

 鈍い衝撃音も、幾つか。

 それから、シンと静かになった。

 ぱり、と何か硝子の破片を踏むような足音が近づいてくる。

 ぎゅ、とリリィは身を縮める。

 がた、と後部座席のドアに何者かの手がかかる。

 もしもそこに立つのが皓月でもガベイラでもなかった場合、リリィは逃げなくてはならない。

 もしくは、戦わなければならない。

 リリィは懐に隠し持っていたナイフを鞘から引き抜き、柄をぎゅっと握りしめる。

 皓月が用意してくれたナイフだ。

 もしかしたら必要になるかもしれない、と身支度を整えた際にこっそり懐に忍ばせてあったのだ。

 華奢で、リリィの手によく馴染むけれど、それでも刃先は鋭く、人を殺すことが出来る武器としてのナイフだ。

 ふ、ふ、と呼吸が早くなる。

 ぎ、と軋んでドアが開いて。

 明るい青空を背景に逆光を背負った影が口を開いた。


「もう、大丈夫だよ」


 皓月だ。

 そう言った皓月の声に、リリィの全身からどっと力が抜けた。


「大丈夫? 怪我はない? 起きれるかな」


 そう言いながら、皓月が屈みこむようにしてリリィを覗き込む。

 そして、リリィが強く握りしめていたナイフに気づくと、ちょっと目元を柔らかに和ませた。


「もう、大丈夫だよ。怖いことはないからね。手、離せる?」


 こくりと頷いてナイフをしまおうとするのに、がちがちに強張った手指はリリィの思うように動いてくれない。

 皓月の黒革に覆われた両の手が、そっとリリィのナイフを握りしめる手に重ねられる。

 じんわりとした体温がリリィの冷えた手指を温め、それから一本ずつそっと指をナイフの柄から外していってくれた。

 落ちかけたナイフを手に取り、皓月が落ちていた鞘に戻してから再びリリィに渡してくれる。

 今度は、なんとかナイフを懐にしまうことが出来た。

 そのまま皓月はリリィの手を引いて車から下ろしてくれる。

 そこでようやく、リリィは何が起きたのかを把握した。

 リリィたちの乗った車が門を出ようとしたところで、横合いから大型車に突っ込まれたのだ。

 運転席を潰すような形で衝突されて、車は斜めに滑り、門柱にぶつかって止まっている。

 普通であれば、運転席のガベイラが助かるはずのない事故だ。

 だが、ガベイラは助かった。

 まるで、事故があることをあらかじめ知っていたかのように。


「皓月、どうやって襲われるかわかってたん?」

「まあ、だいたい予想はついてたよ。人目につく街中では襲撃が難しいからね。襲うなら住宅街だ。そんな中でも、まだ車がスピードを出せない、逃げられる心配のないシチュエーションを考えたらおおよそ絞れる。そこまでわかっていれば、多少は備えられるからね。本当は僕が運転したかったんだけど、さすがにガーベラくんにやらせてもらえなくって」

「それはそうなん」


 ちらり、とリリィはガベイラの方へと視線をやる。

 大型のワゴン車の傍らに、運転席から引きずり出されたのだと思われる男がうつ伏せに転がされている。

 両手は背で手首を重ねるように、足首同士も交差する形で固定されており、完全に無力化されているのが遠目にもわかった。 

 リリィの視線に気づいたのか、男の傍らに立っているガベイラがちょいと軽く手を振ってくれる。


「こっちはもう大丈夫だから、二人は家に戻ってて。警察来るまで僕はこいつ見張ってるから」

「ガーベラくんも無理はしないように。君も怪我してるんだからね」

「いやそれ僕のセリフだからね。護衛対象が真っ先に飛び出していくの、あまりに心臓に悪いから本当やめて」


 ガベイラの切実な訴えに、皓月はくつりと喉を鳴らして笑う。

 それからとん、とリリィの背を促すように軽く押して、ついさっき出たばかりの屋敷へとのんびりと歩き出した。


「ガベイラ、怪我してるん?」

「事故の衝撃で頭を打ったんだろうね。こめかみの辺りを少し切っているみたいだったな。ぶつかる寸前で助手席に退避することになってたもので、ガーベラくんはシートベルトできなくてね。事故の衝撃を一番まともに受けてるんだよ。脳震盪でも起こしてたら大変だから早いところ安静にしてほしいけれども――…まァ、言って聞く相手じゃないから。まったく困ったものだよねえ」


 しみじみと皓月がぼやくが、おそらくまったく同じことをガベイラも思っていることだろう。

 屋敷に戻った皓月は、今朝から定位置めいている長椅子に再びごろりと横になる。

 目を閉じかけたところでちらりとリリィに視線をやって、ふ、と揶揄うような笑みを浮かべて口を開いた。


「お茶を淹れてくれるかい?」


 リリィが、皓月のお茶に毒を仕込んだのはつい昨日のことだ。


「………………悪趣味なん」


 そう言いながらも、リリィは皓月のために美味しい白湯を作ってやることにした。

 別に、仕返しではない。



PT、ブクマ、感想ありがとうございます。

励みになっております。

最終話、果たして書きあがるのか。

応援よろしくお願い致します……!

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