カトウくんの場合 完
ヤマダは大柄な柔道部員、サイトウは帰宅部だが個人でボクシングを学んでいる。
以前まではボクよりも強そうなヤツらを扱うのは気が引けたのだが、今やクハアがいる。
クア...
こいつがカッパにしてくれさえすれば、怖いことはない。
それにヤマダには体臭が酷いという弱点が、サイトウには女装趣味があるという恥ずかしい部分があった。
だからヤマダが万引きをチクりそうになったとき
「いいのか、お前の体臭のことばらすぞ」
普段は消臭スプレーで誤魔化しているものの、隣のクラスのガールフレンドにだけは知らされたくないはずだ。
「ヤマダは信用ならん、カッパにしろ」
クア...
クハアはボクを裏切らない。ヤマダはカッパになった。
サイトウもまたボクの命令を無視した。だからカッパにした。もうボクは他人をカッパにすることに、躊躇いはなくなっていた。
全てが順調で、ボクの理想郷が育まれていく。常にイラついていた過去が嘘のようだ。ボクはいつも愉快だ。いつまでも幸せが続くと、クハアのチョコを舐める姿を見て、信じて疑わなかった。
薫風吹き荒れる日だった。
朝から巻き上がる砂塵に目を細めながら登校した。いつも通りにホームルームが始まる。しかし異変が生じていた。
「クアクア。クアーア」
ボクは耳を疑った。昨夜の寝不足がたちまちに解消された。驚いて教室を見回すと、カッパしかいない。カッパだらけになっているのだ。
「クアック。クアア、クアクーア」
異国に放り出されたようにボクは思考を失った。或いは奪われた。ボクにだけ通じない言語で話す。
それだけではない。サッカーでもカッパからパスが回ってこないし、一緒に帰る友達も洩れなくカッパになっていた。
「おい、クハア。カッパにしろとは言ったが、全部とまでは言ってないだろ!」
チョコレートをペロペロ啜るクハアは気だるそうにボクをねめつける。頭が沸騰しそうになったボクは通学路の公園で砂場を蹴った。
砂の穿たれた場所にはぽっかり穴ができた。クハアは冷ややかな目線をボクに送る。
「てめえ!」
クハアに殴りかかろうとして、誤って自販機を叩いた。拳が砕けんばかりに痛んだ。畜生、畜生、畜生、畜生。
うまくいっていたのに、何なんだよ!
それから誰とも会話できない日々が続いた。
ボクは次第に怒りの色が褪せてきて、憔悴の色が濃くなっていくのを感じた。
「どうしたらいいんだ」
ボールを蹴り合う仲間も、宿題を貸してくれる仲間もいなくなった。ビビりだが頼りになるキーパーのアキラ。勉強のできないボクにカンニングさせてくれるスズキ。不良に絡まれて共に闘ってくれたサトシ。
ボクの心から黒い塊が粘っこくまとわりついている。
一本桜の新緑を見るともなく見ていると、鬼のタサキが廊下の向こうから歩いてきた。挨拶しようとしても、こちらを向かずに去っていく。
タサキもまたボクがカッパにしてしまったのだ。
ボクは屋上へと向かう。足はふらつき、頭がぼんやりする。非常口を押すと、カラスの鳴き声がした。
貯水槽に並ぶカラスは緑色で、カッパになっていた。
「クアー」と間抜けな声を放つ。ボクはカラスにまで揶揄されるのか。
屋上の金網にはペンチで切断した穴がある。いつかヤマダに開けさせたものだ。ボクはそこを潜る。グラウンドを駆けるカッパたちの黄色い声が間断ない。
「終わりだ」
ボクは空気に一歩踏み出そうとする。
「大丈夫?」
耳を疑った。悲しさや嬉しさが錯綜して複雑なキモチになる。ボクは涙していた。ボクの襟を掴む手は力強い。
「君にはボクが見えるのか」
「あまり前でしょう」といろはが微笑む。
緑のカラスが「カアー」と笑うのを、青い瞳の猫が追い払う。
「ショウネンバぞな」
猫が喋った。ウサギみたいな細長い耳を左右に振っている。
クア...
チョコをかじるクハアに元気はない。ボクと同じだ。実は他人をカッパにすることにクハアは疲れていたのかも知れない。
「まだやり直せるよ」
いろはが真顔で呟いた。
やり直せるのか。カッパだらけのこの世界を。
「もちろんぞな」
「ほら、クイア様も太鼓判」
そうか、じゃあクイア様にかけてみようかな。
「クハアを宜しくお願いします」
「御意ぞなあ」
クイア様の頭が何十倍にふくらんで、クハアを頭から丸飲みにする。飲まれる寸前クハアは笑った。
クハア...
粘りけを帯びた残響が、ボクの胸に空いた穴を埋めた。
ある放課後。ボクは駅の近くのカラオケルームにいた。
「おいこら、早く曲いれろや糞が」
「分かったよ」
美人のくせにクマサワは口調が汚ない。
「おっ、流行りの曲じゃん」といろは。ダサい桃色のリボンはクマサワとお揃い。
「あんたもするか?」
「いいよ。遠慮しておく」
クマサワが残念そうにリボンをカバンにおさめる。アホかと思ったが、ちょっぴり嬉しかった。なんだか、仲間、って感じ。
扉を叩く音がする。店員のお姉さんが頼んだコーラを持ってきた。ボクは受け取って机に置く。
「カトウさあ、気が利くね」
クマサワがボクを肘でつつく。
「そんな気配りができるなら、大丈夫だね」
笑顔のいろはが廊下に出て誰かを呼んでいる。怪訝に思ったボクは扉から顔を出す。そして言葉を失った。
そこにはスズキ、サトシ、アキラの姿があった。
「あとでヤマダが、遅れてサイトウも合流するってよ」
ボクの頬を温かな液体が伝った。
ボクは勘違いをしていた。みんなをカッパにしたのではなく、ボク自身がカッパに近づいていたのだと。
でももう大丈夫。同じ過ちは繰り返さない。この涙の温かさを忘れたりするものか。