カトウくんの場合2
クハアはキュウリを食わない。折角買ってやったのに、見向きもしない。腹が立ったので背中を殴った。青い甲羅はぶよぶよで、気持ち悪かった。
家に帰って気がついた。というよりもっと前から気づいていたが、クハアはボク以外の人間には見えないらしい。
スーパーのレジに並んでいるとき、買い物かごにクハアの粘液が滴っていたのに、厚化粧のババアは素知らぬ体を貫いていた。
そして父もまた素知らぬ様子。つまり無視しているのではなく、視認できていないのだった。
「おい、ショウゴ。また学校から電話があったぞ」
タサキの野郎、余計なことを。
「スズキさんの息子に手を出したらしいな」
糞、そっちか。「こい」と呼ばれて鉄拳制裁を受ける。あまりの衝撃に、口内が切れた。痛えなあ。
クア...
心配そうにクハアが目を丸くして固まっている。酷いだろ、うちの親。心の中で呟いてみせる。ボクに力があれば、父の暴力に屈することなどないのにな。
母が出ていったのもこの父親のせいだ。こんなやつ、いっそのこと
クア...
そうだ。いっそのことクハアよろしくカッパになればいいのに。穴の空いたふすまを思いきり閉めて、階段を駆け上がる。ボクは布団に寝そべって、スズキの顔を思い出し、畳を強く叩いた。
「いってきます」
父親の返事はない。喧嘩の翌日はいつもそうだ。さっさとくたばれ糞が。玄関に唾を吐いて登校する。
校門で頭髪や身だしなみチェックしているタサキがボクを見るなり立ちはだかってきた。
ペダルに全力をこめる。人生最大の出力で突進する。初めは仏頂面を保っていたタサキも、迫りくる鉄塊に表情が曇る。
ワックスだらけの髪を注意するのと引き換えにタサキ、お前は命を落とすぞ。ボクは叫び声をあげながらタサキを襲う。
「ぐわっ」
間一髪、タサキはジャンプして避けた。ハハッ、ざまあない。
「ヤベっ」
首を正面に戻したとき、人影が歩いている。
クア...
ぶつかるって?そんなの分かってる!
ボクは全身を傾けて、地面に倒れた。自転車ごとスライディングするなんて、滅多に経験できない芸当だ。
砂ぼこりの奥から
「大丈夫?」
と声がした。目をしばたたかせると、それはいろはとかいう女子だ。
ボクは無言で立ち上がる。幸いにも怪我はない。父親の怒りの鉄槌に比べたら屁でもない。
「大丈夫?」
ボクはぎょっとした。いろははボクに対してではなく、横に佇むクハアに向かって尋ねている。まさか、そんなはずない。
「カトウ、お前なあ」
やはり勘違いだった。いろはの視線はタサキに注がれていた。
ボクはタサキを無視して教室へと走る。どうせまた生活指導室だ。むしゃくしゃするなあ。
そこでサンドバッグスズキを乱打することで怒りを消化した。昼休みいっぱい、スズキの咳は授業が始まってもおさまらなかった。
帰宅すると鉄槌の威力が増していた。スズキはすぐにチクりやがる。たんこぶだらけの頭はぼやぼやする。もはや痛みなどない。こめかみに流れる血が、ゆっくりドロドロになっていく。
障子の穴の向こうから、クハアの黄色いくちばしが覗く。
「なあ、クハアは化け物だろう。願い事を叶えてくれたりしない?」
黄色いくちばしがカパカパ鳴った。壊れたカスタネットみたいだ。ボクは笑った。唇の端が血生臭い。
「話が通じているのか分からないな。まったく、嫌なヤツらみんながクハアになったらいいのに」
いちいちムカつかなくてすむから。
クア...
低くくぐもった声が部屋に渦巻いた。障子の穴が少しだけ大きくなった気がした。
「マジか」
翌朝居間に下りたら父親がカッパになっていた。ヌメヌメの体表を煌めかせて、ボクの声に反応しない。
素晴らしいことが起きたのかも知れない。ボクは胸を踊らせて学校へ。
スズキもまたカッパになっていた。
「クアクア」と意味不明な鳴き声を漏らす。
「ハハッ、滑稽だなあ。お前らもスズキみたいになりたくなかったら、気を付けるんだな」
アキラとサトシは顔を見合わせて苦笑いしていた。カッパのスズキがアキラに話しかけようとしても、アキラには言葉が通じないので、仕方なくサトシに矛先が向く。
当然カッパの言葉は伝わらないのでサトシもスズキを無視している。
これだよ。これだったんだ。ボクは分かった。叩くとすぐに通報されるが、カッパにしてしまえばお咎めなしだ。
早速クハアを労って、値のはるチョコを買ってやった。恐る恐る舌を伸ばすクハア。赤く細長い舌がチロチロと動く。
「どうだ、ウマイだろ。ボクの好物さ」
クハアの感想を待たずして、ボクは高級チョコレートに舌鼓を打つ。他人の不幸は蜜の味とは言い得て妙だ。ウマイ、ウマ過ぎるぞ!
ひょろひょろのクハアは虚ろな目でチョコを舐めている。ボクは鼻を鳴らしてその様子を見ている。
カッパとなった父親と話すのは差し障るが、金の在処は箪笥と相場で決まっている。腹が減ったら拝借すれば事足りた。楽勝な人生だ。
クハアの力を身に付けたボクは自信がついた。無敵になったようだ。ボクに逆らえばどうなるか、分からないヤツには身をもって経験させないといけない。
アキラに女子のリコーダーをくわえろと命じた。なのにアキラはヒビってやらなかった。だから殴ろうと思った。けれど殴ったら通報されるのでカッパにしてやった。
教室の隅っこでスズキと一緒にクアクア喋るのがおかしくて、ボクは大満足だった。
またあるときは、カッパどもを笑っていたボクに対してサトシが
「もうやめなよ」と反抗してきた。
クズだな。と思ったからカッパにしてやった。そして新たにボクはヤマダやサイトウと遊ぶようになった。