カトウくんの場合1
夕方。グラウンドには幾つもの影がある。バットに当たった白球が地面を跳ねるとき、影も一緒についてくる。
丸い、影。サッカーボールはもっと大きい。だから影も大きい。
サトシの蹴ったサッカーボール。ゴールポストを逸れていく。キーパーのアキラが首を真上に曲げて見送る。
「どこ蹴ってんのさ」
「わりい」
サトシがすたこら。次いでボクも向かう。その後ろをアキラがついてくる。
「マジかよ」
サトシとボクは同時に叫んだ。
「マジか」
追いついたアキラも同じ台詞を述べた。
粉々になった体育倉庫のガラス。運の悪いことに、とある生徒によってあるべき金網が外されて、ガラスは真っ裸だったのだ。とある生徒は誰だろうと知ったことではない。
問題なのはガラスが割れているという事実。
更に遅れてスズキがやって来た。案の定「マジかい」と言ったきり黙った。
輪になった四人の脳裏を時計回りに生活指導のタサキの鬼の形相が過る。不味いな、とアキラ。長身のくせに臆病なのだ。
「逃げるぞ」
ボクは三人に目配せする。スズキは即座に頷いた。
それぞれ四方に散っていくなかで、ボクはふいに振り返る。
丸くくり貫かれたガラス窓は、空気が真っ黒に塗り潰されたような穴が開いていた。不思議なことに穴の真ん中で一瞬、黄色い光がちらりと翻ったような気がして立ち止まる。
目を凝らしても、屋内の暗がりに変化はない。
翌日。
「カトウ」と鬼のタサキに声をかけられた。緑の葉の茂る一本桜を横目に、廊下をぐるり美術室の隣にある生活指導室に足を運ぶ。
廊下で二人組の女子とすれ違う。左は美人のクマサワ。右の地味なのは、あれ、何だったかな。そうそう、確かいろはとか言ったな。最近あいつら良くつるんでるなあ。
クマサワなんて率先してイジメてたくせに、変なの。
生活指導室は白い胸像やら、イーゼルやらが無造作に散らばっている。アクリル絵の具に汚れた床はモザイク模様を呈していた。
窓を閉めきった部屋は暗いし暑い。少しも留まっていたくはなかった。
「何で呼ばれたか、分かるよな?」
畜生。誰だ、チクりやがったのは。
ボクのこめかみが熱くなる。指をポキポキ鳴らしたくなって、実際に鳴らした。
「おい、カトウ。手わすらするな!」
鬼のタサキがギロリと睨む。うるせえなあ、とボクは思う。
やいタサキよ、貴様があと二十年若くて、同じ時代に産まれてみろ、即座にボコボコにしてやるからよ。
うつむきながらボクは舌を出す。
「倉庫のガラスを割った罰として、反省文書いてこいよ。原稿用紙は何枚でも使っていいからな」
タサキは机に束になっている原稿用紙をポンと叩いた。
言われるまでもなく、ボクは全てを受け取った。
教室に戻るとき、トイレのゴミ箱に丸めて捨ててやった。本当はライターで火をつけてタサキの背中に投げたかったが、生憎ライターは没収されたばかりで、ポケットに手を突っ込んでからようやくそれに気がついた。
釈然としないので、放課後の屋上に集める。もちろんサトシ、アキラ、スズキの三人をだ。
「知っていると思うが、誰かチクったヤツがいる」
サトシがごくりと唾を飲む。緊張すると喉を鳴らす癖があるのだ。
「今、白状するなら、許さないでもない」
嘘だ。チクり魔が名乗り出たら血祭りにあげてやる。しかし三人は黙している。
「というのもな、問題はなぜボクだけ呼ばれたかということなんだ。アホでも察しがつくだろうが、もしも第三者が現場を目の当たりにしていたなら、四人全員を密告するよな、なあ」
スズキが頷くと、残りの二人も頷く。
「てことは、お前らの誰かが保身のためにボクを矢面に立たせたわけだ」
今度は誰も反応しない。カラスが給水タンクから見下ろしている。ボクは足元の石を素早く拾うと全力で投擲した。カラスは難なく避けた。避けた場所に当たって鈍い金属音が響いた。苦い音だ。
「どいつもこいつもシラを切るつもりか」
ボクが一歩前に出ると
「ま、待ってよ。落ち着いて聞いてほしい」
スズキだ。目を左右に往復させながら明らかに狼狽している。ほう、お前だったのか。
「どうしてチクった」
「どうしてって...」
握った拳を固めていたが、殴っておしまいはツマラナイ。何かもっと残酷な仕打ちはないものだろうか。
頬を赤くしてうつ伏せているスズキに、アキラが寄り添う。
途方に暮れてるサトシの肩にぶつかりながら、ボクは階段を降りるために非常口へと向かう。
三階から二階への踊り場で、不覚にも何かに躓いた。ボクを転倒させた物体をぶち壊そうと振り返ると、虹色に輝く石だった。
「石ぃ?」
キレイだと思っていたら、石はひとりでに動いて階段を落ちていく。なんてこった。頭に血が通い過ぎて、とうとうボクはおかしくなったのか。またもやスズキを殴りたい衝動にかられる。
コロコロ転がる石にされど注意を引かれたボクは、一階へと猛スピードで走っていた。
石は下駄箱を通過し、昇降口の敷居を跳ねた。まるで生きているかのようだ。ボクは夢中になって追う。息があがっていたけれど、全く疲れを感じない。
壁に当たって石は止まった。虹色の発光もおさまった。ボクは屈んで掴もうとする。
クア...
奇妙な鳴き声に、ボクは刹那的に顔を上げる。
「誰だ、出てこい」
そこは体育館の真裏。ちょうど昨日と同じ場所、体育倉庫の正面だということに、ボクは一体どうしてか気がつかないでいた。
ガムテープで応急措置されたガラス窓から
クアア...
不気味な木霊が響いてくる。黒い円の輪郭、すなわちガラスの縁に、緑のヌメヌメした手がかかる。黄色いくちばし。カエルのような顔つき。まさか
「カッパ?」
驚くことに目が合った。マジかよ。ボクは石を拾って投擲の構えをする。すると石は七色の輝きを取り戻し、ボクは目が眩んだ。
にゅるり。窓から落っこちたカッパみたいな化け物は、ボクを見据えて一言
クハア...
と名乗ったのだった。