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いろはの場合 完

 白い剥き出しの牙を舌なめずりする化け物は


「ぷゅ。怖がらせるつもりはないんだぞ」


 そう言って大きな顔を萎ませていく。いろはの膝くらいの身の丈に落ち着いた化け物は、愛くるしい円らな瞳で見上げる。


「向こうから来るとなあ、サイズの調整がムツカシイぞな」


 またもや「ぷゅ」と鳴いた。変な声。いろはは笑ってしまう。


 ここは?といろはが訊くと


「ショウネンバ」と化け物が言う。


 改めて化け物をためつすがめつ眺める。

 灰色と白の斑模様。どこかで。思い出せない。

 三角の細長い耳がひくひく。青い瞳を細める化け物。というより猫。


「ムツカシイことは考えないといいよな。今はもっと大事なことがあるんだぞな」


 そうだ。あほりちゃんが追い払ったこの化け物は敵なのか、味方なのか。そしてショウネンバって?

 いろはの頭に情報が混線してめまいがする。


「敵か、味方か、中立か。あるいはそのどれでもないか、いろはちゃんが決めることぞ。あほりちゃんが悪の権化ってことでもないし、その逆も然り。ただ、いろはに呼ばれたからクイア様が来たんだぞなぞな」


 「ぷゅ」と笑うと白い牙がちらり。


「あたしが呼んだの?いやいや、呼んだのはあなたでしょう、その、ええと」


「クイア様と呼んでもいいね。まあ、重要なことはそれとは違う。いろはちゃんがこっちに傾いたから、クイア様が出てきたというだけの話。それよりさ、クマサワさん、落ちそうな」


 桜の絨毯が世界の端からバラバラと崩れ去っていく。冷たい雨を制服のブレザーが含んでいた記憶を再生する。


 仰向けに頭から穴へと誘引されていくクマサワさんの髪が反動で持ち上がる。いろはの側へ精一杯しがみつこうとしているみたい。


 さっきまで石になっていたいろはの足。熱を帯びて血が通う。


 咄嗟に突きだした右手に、カッターナイフはなくなっている。反射的にクマサワさんの手首を掴んだいろはは、有らん限りの力で引っ張る。


「ヤバい!」


 人の体とは、存外に重いものだ。それも相手が気絶しているならばなおさらだろう。一度は静止したいろはの体ごと、穴から溢れ出す闇が絡み付いてくる。


 ああ、死んじゃうぞ、これ。


 いろはが諦めかけたとき、曇天が割れて光がさした。風雨が衰えて、一気に晴れ間がそこここに広がる。


「猫の手も借りたいのな」


 クイア様の声がして、いろはの体が軽くなる。フーセンみたいに軽くなる。浮遊するいろはとクマサワさんは、まもなく浅い水溜まりに降ろされた。


 すっかり晴れたビルの谷間に、虹がかかっていた。もしもカッターを放り投げようと少しでも考えなかったら、きっと美しい虹を見ることは永遠にできなかっただろうといろはは悟った。


 翌日から、二つの大きな変化が訪れることとなる。


 先ずは学校でのこと。

 いろはに友達ができたことだ。

 お母さんには真実を打ち明けた。自転車の修理には正当な理由が必要だと判断した。そして今後は修理することはなくなるだろうと伝えた。


「あら」


 教室がざわついて、そこにはピンクのリボンをつけたクマサワさんがいた。ドシドシした足取りでいろはの机の隣に座る。席を奪われたケンタロウくんが戸惑う。しかし知らんぷりしている。


「ダサいね」


 クマサワさんが黙っているのでダサいと指摘してみた。


「だろ?」


 やっと重い口を開いたクマサワさんが笑う。

 そして自分の席に戻っていく。これこそ今後は自転車の修理の必要性を感じなくなった理由だ。

 後日両親と謝罪に来たクマサワさんを目の前にして、お母さんも納得してくれた。めでたしなのである。


 二つ目の変化。それはいろはに友達ができたことだ。

 一つ目と重複しているではないか。まあ、そうでもない。


「いろはちゃん面白いぞな。向こうに帰りたくなくなったな」


 青い円らな瞳を爛々とさせてクイア様がベッドにうずくまる。クイア様が寝返りをうつと、桜の甘い香りがした。幹の狭いウロよりは居心地がいいとのこと。ちゃっかりしている。

 それにいろは自身も「向こう」なるものに興味がひかれた。ウィンウィンなのである。


「やっぱりいろはちゃんは面白いぞな。かくまうなんて面白いなは」


 クイア様の視線がいろはを通過して天井へ移る。野球ボール並みにすっかり小さくなったあほりちゃんが漂っていた。


「だってクイア様が」


 食べようとしたのだ。


 雨上がりの帰り道。袋小路にすがりつくあほりちゃんの姿を前にして、白く尖った牙で、ぱくりっ。というか八割がた咀嚼していた。

 慌てて止めに入って残ったのが天井のあほりちゃん。


「きっと何かの縁よ。一緒にいてもいいかなって」


「ぷゅ」と呟いてクイア様は舌を出す。あほりちゃんが涙ぐむ。そもそも目がないので、涙の根拠はないのだが。いろはには分かった。


「腹が減ったぞな」


 商店街のパン屋の匂いにときめくように、クイア様は丸っこい鼻をスンスン。学校の方角へと意識を傾けている様子だ。


 にゅる。と音がした。それはいろはの気のせい、幻聴かも知れない。


 勘違い...じゃない...


 あほりちゃんの嗄れ声が天井から降ってきた。

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