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いろはの場合4

 桜が散る間際の、独特な甘い芳香が漂う月末。予想だにしない事態に遭遇することとなる。


「ねえ、一緒に帰ろうよ」


 教室を出たとき、艶やかなロングヘアーの少女がいろはを呼び止めた。これまで話したことのない、まあほとんどのクラスメートがそうなのだが、とりわけ美人のクマサワさんとは永久に接点などないはずだった。


 クマサワさんはクラスのヒエラルキーの頂点に君臨する、と思われる才媛で、駅前の高層マンションに住んでいる。新鮮なフルーツにシリアルを混ぜてアーモンドミルクに浸した特製の朝食を欠かさない。

 得意なスポーツはソフトボール、サッカー、テニス。とまあ全部なのだが、どうしていろはが仔細に知り得ているかと疑問を抱く読者もいるはずで


「あたしたち、親友だもんね」


 の発言にクマサワさんといろはの関係が結論づけられる。


 田圃に生息するバッタや蝶々、とかげに蜘蛛の類いがいろはの日々を形成していたのに、クマサワさんとの出会いが革命をもたらしたのは想像に難くない。


 ゲームセンターでプリクラを撮り、カラオケで美声に聞き惚れ、退屈な放課後が一変した。

 フォロワーがゼロのいろはに通知が来たときの高揚は忘れられない。


 流行りのカフェやスイーツのお店に付いていっては、恋の話で盛り上がったこともある。クマサワさんの恋愛遍歴はどれも面白く、例えば医者の息子である隣町の高校生の友人のお兄さんとの半日がかりの逃避行は何度訊いても飽きない。


 いろはは抹茶味のアイスクリームを舐めながらクマサワさんの目鼻立ちの整っていることを再認識している。


「あー美味しかったね。ここのアイスクリームは気になってたんだ」


「うん本当に美味しい。クマサワさんのセンスは抜群だね」


 自撮りやSNSの投稿にいろはは舌を巻く。大人びたクマサワさんは尊敬に値する。スマホをタップする佇まいもカッコいい。斜めに組む脚も長くて白い。羨ましいなあ。


 いろはの肌は浅黒い。地黒なのだ。親譲りの肌の色を、恥ずかしいとは思わないものの、お洒落とは縁遠い自覚はある。


「そんなことないよ、いろはもこうすれば垢抜けるよ」


 そう言ってリボンをくれた。やや時代錯誤の、ピンクのリボンはあんまり心惹かれなかったけれど、クマサワさんからの初めてのプレゼントにいろはは嬉しくなって早速つける。


「ほら、可愛いよ」


 真顔で写真をおさめるクマサワさんに親友と称されるのは、なんだか夢のようだった。クマサワさんにほめられるとまんざらでもなくなる。


 学校でも、常に行動を共にした。休み時間は「次は何して遊ぼうか」なんて話して過ごした。クラスメートたちは目を細めてニヤニヤしている。

 それもそのはず、つい最近まではクラスにいながら蚊帳の外たったいろはが、才色兼備のムードメーカーといるのだから。

 でも笑われても平気だ。クマサワさんといれば。


 教科書が消えたり、シューズが隠されることもなくなった。これもクマサワさんのお陰だ。


「いろは、あたしちょっとトイレ行ってくるわ。教室で待ってて」


「うん。分かった」


 外はどしゃぶりだった。普段はグラウンドでドッジボールやサッカーに興ずる生徒らも、体育館や教室に集まっていた。


 どこからかスマホが通知を奏でる。床に落ちていたそれを拾う。

 クマサワさんが置き忘れたのだ。ポケットから落ちたのだろう。届けるためにトイレへと向かう。


 ふふ...


 久しぶりにあほりちゃんが姿を現した。しばらく会っていなかったので、少し驚いた。思わず「いたの」なんて言ってしまった。


 トイレには誰もいなかった。四つある個室は鍵がかかっておらず、窓を打つ雨粒の音だけが狭い室内に反響していた。


 吹き込んだ雨垂れでタイルの床に水溜まりができている。窓を閉めるためにいろはが歩みを進めると


 見つけたあ...


 あほりちゃんがアメーバみたいに蠢く。言葉の意味がいろはには分からなかった。ただ、窓からの景色。霧雨に煙る駐輪場に、ヒョウ柄の傘がひとつ屈んでいるのは分かった。

 いろはの心臓が早鐘を打つ。右手のスマホが震える。汗ばむ背中が冷たくなるのに、長い時間は必要なかった。


 ヒョウ柄の傘の下はよく見えない。傘は足早に校門へ向かっていく。傘のいた場所にはいろはの自転車が停めてある。きっとパンクしているだろう、いろはは予感した。


 帰り道。パンクに加えてサドルがズタズタにされた自転車を引いて歩く。車輪がカタカタと鳴る。


「酷いねえ。誰がこんなことを」


 クマサワさんが唇を尖らせて同情してくれる。そんな優しさがしみてくる。心のキズにしみてくる。


「本当にね、これで三回目だよ。これじゃあお母さんに申し訳がたたないよ。何て言い訳すればいいやら」


「そうだよねえ。正直にカッターでやられたなんて言えないもんね」


 優しさがいろはの心の表面に空いた穴に吸いこまれていく。あほりちゃんのように黒いネバネバの液体が、穴にしみて脈動する。


「うん」


 ふふ...


 あほりちゃん。黙っててよ。


 こいつだよ...


 これまで背後に寄り添ってきたあほりちゃんが、ぴょんぴょんと辺りを跳ね回る。うるさいから、やめてほしい。いろははぎゅっと目をつむる。


「どうしたの?」


 心配そうにクマサワさんが首を傾げる。すると傘から雫が落ちる。雫はヒョウ柄に染まっていたが、コンクリートに溶けた。


 クマサワさんのスマホにひっきりなしに通知されたメッセージ。「まだ教室にいるよ」「あ、今動いた」「トイレに向かってる」「クマちゃん、早くしな」「バレちゃうよ」。いろはの行動を何者かが実況していたらしい。


 全ては掌で転がされていたのだ。


 知らぬが仏。我慢できずにスマホをスワイプしてしまったいろは。クマサワさんのチャット履歴には、リボンをつけたいろはの写真とともに「ブス」「くそダサい」「カス」の文字の羅列が眩しかった。


 しかしこれらはいろはの勘違いかも知れない。優しいクマサワさんに限って、周りに合わせているだけということも考えられる。

 それにヒョウ柄の傘を犯人が拝借しただけの可能性もゼロではない。


「こっちが近道なの」


 いろはは道すがら、ビルとビルの隙間へとクマサワさんを案内する。クマサワさんは躊躇なく付いてくる。いろはを信じているのだ。


「ごめん、さっきスマホ覗いちゃった」


 工事現場の看板や迂回路を示す矢印が増えてくる。

 細い路地を進んでいるときに、いろははぽつりとこぼす。


「はあ?」


 クマサワさんはいろはの前に回りこんで、鬼の形相を呈していた。見たことのない顔だった。動悸がして胸が苦しくなる。


「お前ふざんけんなよ」


 物凄い剣幕で睨みをきかせてくる。スマホの盗み見は大罪だ。でも、裁かれることは承知の上なのだ。

 雨足が強まる。いろはの傘が下からあおられる。


「ごめんなさい。悪いことだって、分かってたんだけど。でも、確かめたいことがあって」


 ビルの壁に遮られた袋小路。突き当たりに張り巡らされた黄色と黒の斑模様のテープ。季節を前借りしたかのような驟雨に、テープは引き剥がされて宙に舞い踊っている。


「なんだよ。確かめたいことって」


「疑ってるわけじゃないよ。でも、信じたいから訊くね。自転車の悪戯はクマサワさんの仕業なの?」


 横殴りの雨がいろはの眉間を叩く。

 あほりちゃんがクマサワさんの隣でにんまり笑う。


「そんなわけないじゃん。あほらし。あたしは何も知らないよ」


「そっか。嘘はつかないでね。親友だもんね」


 煩わしそうに目を伏せるクマサワさん。


「だから知らないって」


 許さない...


 あほりちゃんがむくむくと膨れ上がり、ビルの狭間を覆い尽くす。辺りは夜の暗さを連れてくる。


「何でカッターだって知ってるの」


「えっ」


 クマサワさんの顔がみるみる青ざめる。


「サドル。カッターでやられたかどうかなんて分からないでしょう」


 二人の間に沈黙が横たわる。それからクマサワさんが肩を揺らして不適な笑みを湛え始めた。


「そうだよ?」


 あっけらかんと答えるクマサワさんが目を光らせている。


「いろは、バカだね。あたしがわざわざ仲良くすると思う?おかしいじゃん。急に親友だなんて、そこで不審がらないと」


 クククと口元に手を添えるクマサワさんの背後で青いビニールシートが捲れる。ぽっかりと大穴が口を開けていた。


「誰ともつるまないでさあ。一人の世界つくっちゃって。ムカつくんだわ、いろはみたいなの。あたしらのことを見下してる。仲良しグループを嘲笑ってたんだろ」


 酷い言いがかりだ。別に他の子たちなんて、なんとも思っていないのにな。


「その態度がムカつくんだって!」


 小学生の頃は肌が黒いという理由でクラスでつまはじきにされた。どうせ排除されるならと、進学を機に周囲と距離を取ろうと、迷惑をかけぬようにした配慮が裏目に出た。


 もう限界だ。


 消せ...


 消してしまえよ...


 いろはの心の穴からにゅるにゅると黒い塊が生じる。血管を伝い、毛穴からふつふつと止めどなく沸いてくる。


 ビルの雨樋や、排水溝の穴という穴から黒い影が集結して、あほりちゃんとくっついてどんどん大きくなっていく。


 クマサワさんの背後の穴が呼んでいる。


 死なばもろとも...


「あ、あんたソレ」


 いろはの右手にはカッターナイフ。クマサワさんが震えるのも無理はない。今更カバンをまさぐっても遅いのだ。下校間際に拝借したのだから。それに生命の危機に瀕したら誰もが腰を抜かす。

 そう、ちょうど尻餅をついていろはを見上げているクマサワさんみたいにね。


 カッターの刀身を出すと、キリキリと軋む。雨に濡れて虹色に光る。


「来ないで、やだ、あっち行け」


 地面の石や三角コーンを投げつけてくるも、いろはには当たらない。あらゆる反抗心がアサッテの方向に飛んでいく。

 いろはは詰め寄る。クマサワさんは腰抜けの姿勢で後ずさる。


「あっ」


 白い手が、背後の穴の淵に触れたとき、クマサワさんの表情からあらゆる色が失せた。透明になった顔面に、かつての美貌は残されていない。


 銀の刃の先端が、赤い血の温もりを欲している。


 なぜ震える...


 あほりちゃんがいろはの肩に触れる。ぐにゃりとのしかかる。


 消せばいい...早く...


 いろはの呼吸が荒くなる。あほりちゃんの言う通りなのに。あと一歩踏み出せばいいのに。どうして動かないの。この足は石みたいに動かない!


「いろはちゃん」


 桜の花びらがいろはを中心に渦巻く。


「いろはちゃん」


 クマサワさんもあほりちゃんもいない。桃色のトンネルのなかに、いろはは閉じこめられた。不思議と閉塞感はない。寧ろ心地好い。


 視界は桜の絨毯と青空に満たされる。

 空気が歪んで青いきら星が二つ漂う。それはいつかの頭の化け物。あのときいろはのなかに入ってきたもの。


「やあ、いろはちゃん」

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