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いろはの場合3

 どれくらいの時間が経ったのか。薄く開いたまぶたから、柔らかな夕陽に照らされるビルの壁。うつ伏せになっていたいろははゆっくりと身を起こす。


 辺りには虎柄のテープも、三角コーンもなくなっていた。複雑な迷路のような路地裏を散策していたはずなのに、大通りから入ってすぐの突き当たりにいろはは立っている。


 部活終わりの生徒の笑い声が響いてきて、いろはは大通りへと戻る。まさか地べたに着いて寝てしまうなんて、一体自分はどうしてしまったのだろうか。ぼんやりと夕焼けをバックにいろはは物思いに耽る。


 家に着いてからも釈然としなくて、学校の宿題にも手がつかない。ベッドに横になりながら、数多の穴、それに顔の化け物について考えてみたものの、全てはいろはの妄想であって、単なる夢たったという結論に至る。

 そう納得すれば、何だか気が楽になってきて、体を覆っていた緊張が溶けていく。


 起きろ...


 また眠ってしまった。今日は本当に眠い日だ。


 起きてごらん...


 手元の時計は午後六時。お父さん?ではない。お父さんはまだ仕事をしているころ。じゃあ、これは。この声の主は何者かしら。


 仰向けのいろはを見下ろす黒い影。手は二本、足も二つに枝分かれしている。顔のところには、朱色の薄い唇がついているのみで、目、鼻、耳、他のあらゆる造作が失われていた。


 やあ...ご機嫌はいかが...


 いろはは問題ないというように頷く。すると影は薄い唇を開いて微笑する。厳かでもあり、そして不気味でもあった。

 影はいろはの右手を見つめている。目はないけれど、いろはには視線が分かった。そして玉虫色の石が握られていることを知った。


「本当にあったんだ」


 あったさ...


 影はいろはの台詞をなぞる。正面に立つと上背はいろはと変わらない。


「あの化け物を追い払ってくれたの?」


 影は教えてくれた。化け物がいろはを襲おうとしたこと。化け物が穴から出てきたこと。穴は人の棲む世界とは表裏一体であること。等々をつらつらと述べた。


「あなたも穴から来たのね」


 いろはが訊いても、影は曖昧に揺れている。だから質問を代える。あなたの名前を教えてほしいな。すると影は短いが、はっきりとした口調で


 あほり...


 と答えた。なんてふわふわした名前だろうか「あほり」だって。いろはは思わず吹き出した。赤い唇がへの字に曲がる。


「ごめんごめん。笑ったら失礼ね。よろしく、あほりちゃん」


 その日から、いろはとあほりちゃんの共同生活が始まった。


 まず気がついたことは、あほりちゃんはいろは以外の人間の目には映らない、ということだ。お母さんの自転車を借りて、翌朝の通学をしているとき。

 周りにはたくさんの学生や通勤のサラリーマンに囲まれているのにも関わらず、誰も自転車のいろはに高速で付いてくるあほりちゃんについて怪訝な素振りをしない。


 教室でも同じことだった。隣の席のケンタロウくんも、そのまた隣のアヤカちゃんもいつもと違わぬ態度で、特に驚いた様子はない。

 ミチヨ先生であっても例外なく、廊下ですれ違っても


「お早う、いろはさん」


 平々凡々な挨拶をしてきた。


 給食のカレーライスも予想通りの味がしたし、音楽の授業でリコーダーの音階がやたらめったらずれている、なんてこともなかった。


 いろはは自分の背後にピタリとくっつくあほりちゃんの存在に、脳の障害によって感覚器官が機能不全に陥ったものとばかり考えていたのだが、日常生活において問題となるケースは見つからない。


 しかし、あくまでただ一つの変化を除いては、に限る。


 次の授業は数学。机から教科書を出そうとするいろはに


 ないよ...


 とあほりちゃん。宣言通り、教科書はなかった。いろはは思う。きっと忘れてきちゃったんだ。


 違うよ...あいつだよ...


 黒く霞む指先は、最前列のカトウくんを示している。


「何で知ってるの」いろはは心で呟く。あほりちゃんは唇を真一文字に結んで黙している。


 詰問しても仕方がない。ひらひらと風になびくあほりちゃんには暖簾に腕押しだろう。いろはは広場の一本桜を眺める。今日も穏やかな陽射しに恵まれて、桃色の花びらと褐色の梢の輪郭が美しい。


 桜は本当に美しい。いつかは散ってしまうのに、どうしてあんなに懸命に花を咲かせるのだろう。いろはは不思議でならない。

 散るから美しい、とも言い換えられるかも知れない。己が宿命を受け止めて、いずれ枯れるならいっそのこと盛大に世界を彩ってやろう。そんな意気込みすら伺える。


 欠伸をしていた猫はどこだろう?いろはは窓辺に顎を突きだそうとする。


「いろはさん?」


「はいっ」


 声が裏返ってしまった。いつの間にか回答が自分の番になっていたらしい。


 ミチヨ先生の白けた眼差しにいろはは硬直してしまう。黒板に踊る数式の空欄に当てはまるものが、果たして数字なのか、それとも記号なのかすら覚束ない。

 或いは数字と記号の両方ということだってあり得る。


 教科書に助け船を出してもらおうと机に手を置くも、


「そっか。教科書はないんだった」


 クラスメートがくすくす笑っている。ケンタロウくん、アヤカちゃん、そしてカトウくんも笑っている。口角を上げて、肩をすくめてにんまり。


 赤面するいろはからミチヨ先生は矛先を変える。新たに指名された生徒はすらすら答える。さも簡単であるかのように瞬時に正解を述べる。


 いろははあほりちゃんを見る。あほりちゃんは無表情を保っていた。目や鼻がないのだから、表情に乏しいだけか。せめて正解を教えてくれたらいいのに。いろははため息を吐く。


 それはムリだ...


 頼りないあほりちゃんに、いろはは頬杖をついて、二回目のため息を漏らす。


 その後も筆箱が消えたり、上履きが教室のメダカの水槽の裏に隠されていたりすると決まって


 あいつだよ...


 あほりちゃんはクラスメートの名前を連ねてはいろはを困らせるようになった。

 一つの重大な変化とは、とどのつまりあほりちゃんの告げ口ということになる。

 ではなぜ困るのか。それはいろは自身の確証が持てなかったからだ。証拠がないのに他人を疑っては失礼になる。当たり前だが、罪のない者を疑ってはいけないのだ。


 そこでいろはは、ある計画を立案することにする。

 というのも修理を終えた自転車が、即日パンクした夜のこと。お母さんの言葉がきっかけとなる。


「いろは、次はないわよ」


「はあい」


 最初のパンクは、釘を踏んづけたことにした。そして今回はブロックに乗り上げたことにする。


「段差にぶつかってさ」


「そんなに頻繁に壊さないでよね。修理にはお金がかかるのよ。段差って。はあ。それにしても、どんなに粗い運転をしたらブレーキまで千切れるの」


 まさしくそうなのだ。ドリフトをしても、パンクはともかくブレーキはいかがなものか。今回はブレーキのワイヤーまで鋭利な刃物で切断されていた。

 徒歩で帰宅を強いられるのは構わないが、破損の理由を考えるのが難しい。

 流石に三回も悪戯されたら、次の言い訳が苦しくなる。三度目は阻止しなくてはなるまい。けっこうマジだ。


「だから観察しようと思うの。こっそりね」


 いろはの宣誓に、あほりちゃんはひたすら揺らぐだけで拍子抜けしてしまう。それよりも気がかりなのは、あほりちゃんが少しずつ大きくなっていることだ。


 同じ身長だったのに、今や縦横二倍に膨らんでいる。ちょっぴり怖い。相変わらず誰にも見つかっていない。

 変なの。とっても目立つのにな。

 このままだといろはをすっぽり包んでしまうかも。そんな予感が胸をかすめた。


 作戦決行の日。天気は雨だ。

 朝は自転車の無傷であるので、そしていろはは部活をしないので、すなわち休み時間に悪童が出現すると推測してみる。


 いろはは授業と授業の間の休み時間に駐輪場へと駆けた。露骨ないろはの変化を訝ったのか、その週は自転車に忍び寄る魔の手の気配はなかった。


 だから女子トイレから駐輪場が丸見えだと思い至ったとき、いろははガッツポーズした。これで犯人が暴けると。しかし翌週も音沙汰なかった。

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