いろはの場合2
ホームルームが終わる。荷物を抱えて野球部はグラウンド。水泳部は校舎の南のプール。バレー部、バスケ部、卓球部は体育館。
吹奏楽部の生徒が音楽室へと入っていくところを素通りしていろはは階段を下りる。
そうそう部活といえばどれにしようか迷っているうちに、募集は打ち切りになっていた。部活の申請用紙を締切当日に三回もなくしたのだから元も子もないのだけれど。流石に四度目の懇願をする気力はいろはにはなかった。ミチヨ先生を落胆の色で塗り重ねてしまうのは忍びなかったのだ。
小学生のときは、生き物係とか、放送委員になりたかったいろはだったが、抽選に負け、阿弥陀くじで外れ、希望が叶った試しはない。
流行り風邪蔓延する年の衛生委員とか、誰にも相手にされない学習係とか、不人気極まりない役を任されることが多いのだ。いつだって間が悪いし、思い通りにならない。
いろはの住む町は、学区が二分される。離ればなれになった友達からの連絡は一週間で極端に減った。そして二週間で途絶えた。同じ学校になったメンバーはそもそも少ない。しかも仲は良くない。寧ろ悪い。
だからいろはは大抵ひとりぽっちで帰宅する。まだ明るい午後に自転車に跨がる。ペダルを漕ぐ前からおかしいなあと思っていたら案の定
「パンク?」
タイヤのゴムは接地面で波打ち、とても走れそうにない。経年劣化によるものか、はたまた人為的なものなのかはさておき、歩いて帰ることを余儀なくされた。バイバイ自転車、しばらくそこで待っててね。
幾つものバス停をいろはは素通りしていく。家に早く帰るなら、バスに乗るのがいい。初めはそうするつもりだった。
空が綺麗だった。ただそれだけでバスを諦めることができた。自転車だと一瞬で飛びすさぶ景色が、歩くと手の届く距離に落ち着く。
田畑の畦道を両手を広げて歩いてみたり、用水路を覗きこんでは光る水面をとりとめもなく見送ったり、いろはを取り囲む時間がいろは自身のものに変わっていくのが分かった。
露草の茂みでバッタが跳ねる。追いかけるとまた跳ねた。いろはは夢中になって駆けた。どこまでも走れそうな気がしていた。
やがて街の色が濃くなって、ビルやアーケードが向こうから現れる。
「いろはちゃん」
人影は疎らで、店のシャッターは閉ざされている。
「いろはちゃん」
いろはは立ち止まった。ビルとビルの間隙。細い路地から風が吹き抜けてきて、いろはの頬を引っ掻く。光の回折が緩やかに減衰し、暗澹たる闇がずっと遠くまで続いていた。
あっちから誰かが呼んでいる。学校でも耳についた不思議な声。路地は蜘蛛の巣のように複雑で、潰れた空き缶や欠けたポリバケツが転がっている。
反響するカラスの笑い声に、いろはは背中を縮こませながらも声の源を探す。
太陽の傾きから、辛うじて方位が認識できた。どうも工事現場が多いらしく、あちこちに虎柄のテープが張り巡らされていた。「前方注意」の表示とともに、腕を斜めに交差させる男性が描かれている。
薄闇に目を凝らすと、大きな穴が空いていた。それも一つではない。曲がり角を折れる度に様々なサイズ、形の穴が夥しい。
地震の影響で沈下したか、それとも地下鉄の補修なのか、それにしても多すぎる。いつの間にかいろはを勇気づけていた青空は暗雲に遮られてしまい、ビルの谷間はますます暗い。
戻ろう。いろはは踵を返す。静かすぎる。壁の汚れがゆらゆらと揺れて、手招きにそっくりだ。
振り返りざまに何かに躓いて、いろはは前のめりに倒れる。
「いてて」
上体を起こして膝をさする。膝頭がじんじんする。肌が赤くなっていく。内側から熱を帯びてくるのだが、いろはは痛みを忘れた。なぜならそこに石があったから。
地面に落ちた丸い石は、玉虫色に煌めいていた。赤が滑らかに緑へと、そして黄色味を帯びて再び赤に戻る。
いろははあまりの美しさに呼吸を止めてしまった。
それもほんのわずかな時間で、すぐにそこらの石と同じになってしまう。
いろはは無意識に手を伸ばしていた。何の変哲もない、しかし確かに妖しく光った石はすぐそこにある。
背筋を冷たい汗が流れた。春の陽気をたちまちに凍らせてシャーベットにした悪寒にいろはは硬直する。
「何よ、あれ」
工事現場の三角コーンが横転し、鉄柵がバタバタと崩れる。巨大な穴から二つの球体が浮かび上がり、いろはの目の高さで空中に留まる。三角コーンは足元まで転がってきた。コーンの先端がいろはの膝に当たっても、痛がるとか、それどころではない。
拾え...
「えっ?」
早く...
低く嗄れた声が頭に直接響いてくる。二つの球体の真ん中に黒い点が芽生える。それは目玉だ。青白く発光する目玉がギロリといろはを睨む。透明なはずの空気が歪んで、空間の裂け目から白く鋭い牙が剥き出しになる。
頭だけでもいろはの身長くらいあるだろうか。目と口だけの異形の化け物。
急げ...
嗄れ声が憤るのと、化け物が向かってくるのはほとんど同時だ。五十メートルはあったはずなのに、猛スピードで牙が襲い来る。
このままだと、死ぬ!
石が玉虫色に蘇る。あとほんの数センチの距離。光るギョロ目と見比べる。残り二十メートル。
何を迷っている...
違う。迷ってなんかいない。怖くて足がすくんでしまったのだ。いろはの指先は細かく震えている。額の汗が地面に落ちて弾ける。
残り五メートル。四、三、二、一。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」
化け物の慟哭が塊となっていろはにぶつかる。凄まじい風圧に、いろはの顔面が上下左右に延びる。途切れかけた意識の中で、手の甲に透ける鮮やかな虹色が眩しいことと、石のざらつく表面の感触だけが、やけにはっきりと記憶に残った。