ショーコちゃんの場合2
白いシーツにうつ伏せて、微睡んでいると
「もう一回しない?」と男が耳元で囁いてきた。鳥肌がたった両手を体の下に突っ込んでショーコは上目遣いをする。
「口でなら」
不服そうな男も、時計の針が進むと満足げな表情になる。
母とは連絡が取れない。父は海外で働いていることになっているが、十年会っていないから真相は分からない。
父は親権を放棄するらしい。母は言わずもがなだろう。
どちらにもショーコを委ねられないとするなら、後見人は誰?祖父母の連絡先など知らない。生きているかすら保証がない。
今ごろミチヨ先生のチョークが黒板を滑って、くだらない授業が始まっている。
「レーナちゃん」
剥き出しのお札を渡された。数えると三万円。来週はもっと稼がなくちゃ。
せめて高校生だったらマシなバイトができるのかな。いやでも結局変わらないよな。両親がいないのはイタイなあ。
家まで送ると言われたけれど、遠いからの台詞で片付けた。男はそれほど真面目に申し出た訳でもなさそうで、あっさり駅のロータリーにショーコを降ろして去った。
稼いだばかりのお金でハンバーガーを買う。パティが二枚の高いやつ。頑張ったご褒美だ。
帰りの電車は混んでいた。帰宅ラッシュにぶつかったのだ。ホテルにいた間に雨が降っていたようで、傘を携えた乗客のいきれで蒸れていた。
金魚のように天井を仰いで息を整える。ショーコはハンバーガー臭くなった髪の匂いを打ち消すほどの車内の空気に顔をしかめる。
胸元がべたつく。ショーコの滑りを帯びた胸元をサラリーマンが睨めつけてくる。どいつもこいつも気色悪い。
サラリーマンの左手の薬指にはダイヤモンドが光っている。妻子がありながら中学生に欲情するのかよ、オッサン。
中指を立てるとサラリーマンは即座に目を伏せた。
各駅で人が減っては増える。乗客の多い路線だから仕方のないことだ。
車輪がレール上を加速して、しばらく揺られているとショーコは違和感を覚えた。振り向くと別なサラリーマンがいた。よれよれのジャケットはネズミ色だ。その側にも、またその側にもサラリーマン。サラリーマンだらけだ。
ショーコはサラリーマンに囲まれていた。
スカートを押し付けてショーコの輪郭をなぞる指先。もしかしたら指輪がはまっているかも知れない。そう思うと頭がカッと熱くなる。どいつもこいつも。
「ぎゃ」
乗客の視線がショーコの背後に集まる。両手をおさえた男は禿げている額に玉の汗を浮かべ唇を噛んでいた。
ショーコはそそくさと電車から降りる。禿げたサラリーマンは閉まった扉の向こうに消えた。
アパートに戻ってシャワーを浴びてソファに横たわる。痴漢の罰を受けるのは当然なのに、ショーコは指を逆さにねじ曲げたときの感覚が気持ち悪い。
禿げた男の無骨な指の反れて断裂するときの響きが、ショーコの指を介して伝わった。
穴だらけの壁を眺める。もう父からの通知も来ない。こんなときは誰に相談しよう。もちろん誰もいない。
なんとかなるわよ、ねえ...
なんとかなるさ、ハハッ...
ベージュの壁紙が真っ二つに剥がれた。
中から身を乗り出したのは渦巻きの角を生やした男だった。スーツを着ている。ネクタイもシャツも、全身が白い。手も首も眉毛も白い。
「誰なの」
インキュバス...
声はショーコのお腹の下から聞こえた。誰もいない。ただスカートを履いた脚が二本あるっきりだ。
「インキュバス?」
そっちはサキュバス...
今度は壁紙を裂いて現れた白い男が尖った額の角をさすりながら答えた。インキュバスはショーコに歩み寄り、肩に手を置いた。抵抗しようにも体が動かない。だけど優しい手つきに直にどうでもよくなってきた。
気持ちいいでしょう...知ってるんだから...
サキュバスが呟く。姿は見えない。捲れたショーコのスカートの内側に白い脚が二本あるっきりだ。
お金のためだって...嘘よね...知ってるんだから...
サキュバスがまくしたてる。ショーコは歯軋りをする。
本当は...
「うるさい!」サキュバスを遮って、ショーコは椅子を蹴飛ばした。
フローリングに傷がついて、とても消えそうにない。
あらあら...
インキュバスが笑った。そこでスマホが鳴った。
まぶたを開いたショーコは、自分が寝ていたことに気がついた。窓の外はすっかり暗くなっていて、時計は深夜二時を示している。
父からの通知、ではなかった。
学校。タサキからだった。
家を訪問してもいいか。
しても構わないが来ても無視するだけだ。どうせ今から寝て、昼になっても起きないだろうし、夕方も眠いだろうから、会う時間がない。そもそも誰にも会いたくない。
インキュバスは消えていて、サキュバスのねっとりした声も聞こえない。全ては夢の中の出来事なのだ。全てそうあってほしい。ショーコはソファで寝返りを打って、また微睡んだ。




