エリちゃんの場合 完
白い花のスカートをはいた妖精たちがいると、私は私でいられた。
毎朝一本使いきる。昼休みにはスティックタイプ。放課後はシートを十枚。
お母さんが見送りのときに目を細める。目尻に光るものがある。きっと白い花のスカートをはいた妖精たちのあまりの美しさに感動しているのだ。
教室での私も自信に満ちている。自分でも分かるくらいの素敵な香りがする。ミントとフローラルとセッケン、それにバニラも加えてみた。明日はチョコを足してみようか。
部活もいつもより張り切ることができる。サーブやトスは私にとって地獄の業火で焼かれるよりも辛かったのに、白い花のスカートをはいた妖精たちに応援されると何でもできる。
汗は体の内側から出てこない。私は生まれ変わったのだから。
円陣も進んで組んだ。カンナ先輩が歯をくいしばり涙を浮かべている。ショーコちゃんも、ユリアちゃんも同様にみんな喜んでいる。私の参加は涙なしには語れない。
私はワクワクしてヤマダくんを待つ。柔道部は畳の清掃をしている。生まれ変わった私を抱き締めてほしい。
満開のこの子たちを見てほしい。
あっ、来た...
満面の笑みを湛えるショーコちゃんの隣にいるのは誰だろう。ヤマダくんにそっくりだ。くまさんのような大きな体は似ているにもほどがある。妖精の視線が鋭くなる。
私はショーコちゃんとヤマダくんもどきが気になった。
だから二人の後ろをついていくことにした。
ショーコちゃんが冗談を言う度に、ヤマダくんもどきが大きな口を開けて豪快に笑う。とても楽しそう。
妖精たちの花びらのスカートが黒く滲む。雌しべの妖精の目尻が水平になる。
二人は駅前のコーヒーチェーン店に並んで入った。ヤマダくんはショーコちゃんにカフェラテを奢る。
妖精たちの花びらのスカートがボソボソと腐る。腐ったところに穴が空く。ひゅうひゅうと虚しい風が通り抜けていく。
川原の土手からナズナの茂みを掻き分けて、河川敷に腰かけるヤマダくんとショーコ。
妖精たちの腐った花びらはたちどころに千切れてしまったし、雌しべのから酷いニオイがする。目尻は釣り上がり、瞳は充血していた。
私は唇を噛む。ドクドクと脈打つ心臓を握りしめる。
「それ?」
「うん」
ヤマダくんがリュックから得意気に取り出したのは、細いチェーンのネックレス。
私がデートのウィンドウショッピングのときに一瞬だけ足を止めたもの。それにショーコの手が伸びる。
全身の汗腺が沸騰するのが分かる。ミントの爽やかなニオイ。フローラルの甘いニオイ。セッケンの清潔なニオイ。
それらを押し退けて、あの日、公園でオジサンが囁いた
いいニオイ...
脇の下から皮膚を突き破って溢れてくる障気。私は脇に爪を立てて力の限りえぐろうとする。頭の痛みを凌駕して、寧ろ心地よくなってくる。
つり目の妖精が、真っ黒な指で地面をさす。
尖った石。打製石器の先端が、時空を越えて私の足元に転がっている。両手で持って、ショーコ、そしてヤマダくんもどきの頭に振り下ろしたら、私のニオイをもろとも消してくれるはず。
私はゆっくりと、静かに忍び寄る。二人の背後は楽しい空気に包まれている。足音なんて、聞こえるわけがない。代わりに二人の声は憎らしいほど明瞭になる。
「エリってサイキンクサクナイ?」
細菌。臭い。
「うーん。まあね」ヤマダくんもどきが曖昧に頷く。
私の心は決まった。みんなで同じニオイになろう。腐ってしまえば優劣などない。全部平らになるのだ。
石の先端が夕陽に染まる。真っ赤に鋭い光が乱反射する。
「待ってよ」と、誰かが私を制止する。
ショーコ、ではない。ヤマダくんもどき、でもない。一体、誰?
振り返ると浅黒い肌をした女の子、いろはさんだ。
なぜここにいるのか、そんなことはどうでもいい。水をさされた私はさらに石の切っ先を振りかぶる。
「信じて」いろはさんの声が心にしみてうるさい。
耳を貸すなと黒い妖精が喚き散らす。頭が、痛い。私はその場に膝をつく。胸が苦しい。
まあね、と言葉を濁していたヤマダくんが
「ちょっと香料つけすぎかもね」と言う。
「それも酷いけど、ヤマダくん知らないの?エリ、ワキガだよ」
妖精が目を剥いて涙を流す。舌も飛び出して、生きながらにして死んでいるようだ。白と黒の斑になった妖精は、美しさの欠片もない。もう、終わりだ。
「だから、何?」
「え、だからワキガだよって」
「知ってるよ。それが、何」
ショーコちゃんは途方に暮れている。
「だ、だって運動したら臭うし、近づかれるとツンとするじゃない」
「ツンとするだけだろ。ボクだって柔道したら頭が臭いし、足も臭いよ。ショーコちゃんの話って、それだけ?」
「はあ?エリの様子を逐一報告させたくせに、なんだよ、もう。相談になんて乗るんじゃなかった!」
妖精の苦悶の表情が少しずつ安らかになっていく。風が吹いてヤマダくんが私のニオイに気がついた。ショーコちゃんは驚いている。
「ショウネンバはおしまい。もう大丈夫そうだね」と微笑むいろはさんに青い瞳の猫が抱かれている。
猫が「ヘルは旨いぞな」と舌なめずりをしながら恍惚の眼差しを浮かべていた。
ばつの悪そうなショーコもいろはさんの去っていった土手の向こうに消えた。
私の体を埋め尽くしていた花の妖精はいつの間にやら残らず刈り取られていた。まるで牙に裂かれたかのように。
おもむろに「聞いてたんだ」とヤマダくん。
「知ってたんだ、脇のニオイ」私は問いかける。
ヤマダくんが頷く。ゆっくりと話し始める。
「ボクは待ってるよ。エリがエリの体と折り合いをつける日を。高校生じゃなくてもいいんだ、大人になって、おじいさんおばあさんになってもいい。いつまでも待ってる。一番辛いのは、エリだ」
ネックレスをかけてくれる指は無骨だが手つきが優しい。
私はこれまでヤマダくんが好きだと思っていたけれど、それは勘違いだったみたいだ。
涙が止まらない。体が蕩けそうに熱い。
そんなのはどうでもよくて、体が勝手に反応して、唇が触れて、温かくて、幸せになる。
ヤマダくんが嬉しそうに目を細める。
でもまだ好きとは呼べないと思う。
「やっぱり臭いわ、エリ。制汗剤かけすぎ」とさりげなく笑ってくれるヤマダくん。背中を叩いて笑い合う。
二人ともよぼよぼになって、もう死んじゃう一歩手前になったとき、その瞬間人生で一番の笑顔になったなら、最初で最後の本物の好きに出会えるような、私は今、そんな気がしている。
ヤマダくんが何か固いものを踏んだ。泥濘のビー玉は粉々に砕けて、もう元に戻せそうにない。ビー玉を踏んだことなど忘れて、私たちは草むらを駆ける。
いつか二人が草いきれに変わっても、ずっと隣にいられますよう。




