エリちゃんの場合2
エリは当時三歳。あやとりが好きな平々凡々な女の子だった。長い髪を綺麗に二つに分けてくれるお母さんの優しい笑顔を鏡越しに見るのが好きだった。
でも三歳のときのことなんて、あとになって聞いた話に捏造された可能性も否定できない。だとすれば四歳でも五歳でも構わない。
電灯がチカチカするのが怖いから、友達のカヨちゃんと砂場で遊んでいることに夢中になっていても、午後五時前には帰ることにしていた。
今日と同じ、薫風の香る公園に、見慣れない人影があった。全身茶色いスーツを着た、帽子を目深に被ったオジサン。
初めにカヨちゃんが手を振った。そして私も手を振った。なぜならオジサンが手を振っていたから。
それから三人で砂の城を作った。オジサンの手のひらは大きいので、カヨちゃんの持ってきたバケツを使わなくてもよかった。
月明かりが濃くなって、いつの間にか七時になっていた。オジサンは「まだ五時だよ」と言った。
私はカヨちゃんの袖を引くも、虹色のビー玉を差し出されたのであっさり止めた。
お城にトンネルを作ることになり、カヨちゃんの反対から私とオジサンが掘り進める手筈を整えた。
暗い砂の壁を、細く脆い砂の壁を、少しずつ慎重に削っていく。もはや帰りを心配しているお母さんとお父さんのことなど頭から抜け落ちて、ひたすら穴を掘る快感に身を委ねていた。
やがて穴は深くなる。
私は右手にビー玉を、左手を穴に押し込む。カヨちゃんは左手にスコップ、右手を穴に押し込む。
爪と爪。指先が絡まると、二人同時に「やったあ」と叫んだ。
いいニオイ...
ハッとして顔を左に向けた私の無防備な脇の下にピタリと鼻がついていた。
私はレジで五百円を渡し、百円玉一枚と、一円玉二枚を受け取る。燻製イカのニオイが袋を開けずとも分かった。
このニオイは私の頭を悩ませる。馬鹿にしているかのような薄くて穴の空いた外見になお苛立つ。
あのときの虹色のビー玉も、トンネルが開通したあとの記憶も燻製イカの穴の向こうに溶けてしまったらしい。
居間でくつろぐお父さんはすでにできあがっていた。頬を赤に染めて、私に抱きつこうとする。
「こら、エリはもう中学生なのよ。拒まれてるじゃない」
お母さんがたしなめる。
「そっかあ」お父さんは寂しそうにうつむく。
お母さんは勘違いをしている。中学生だから、は関係ない。
「それにしても最近脇が痛いわ」
運動不足?とお父さんが笑う。お母さんがしきりに脇をさする。やっぱりドキリとさせられる。サイキンワキガイタイ。
翌朝もドキリとする。
「昨晩の雨で洗濯物生乾きねえ」
ナマガワキネエ。私は無理矢理頭が痛くなる。
だからお守りをたくさんふりかける。全身くまなく噴霧する。無香料のものを常に三本ストックする癖がつくと、頭痛が和らぐ。
それでもやっぱりヤマダくんの隣にいると、額、うなじ、脇など、至るところから汗が顔を出す。
好きだからこそ、頭が、そして胸が痛い!
「ごめんエリ。キスはまだ早いよね。高校生になるまで待とうか」
「えっ...」思わず固まってしまう。
「ボクは好きな人とキスしてみたいけど、お互いに気持ちが揃わないとさ。上手くいかないと思う。だから無理しなくて大丈夫」とヤマダくんがはにかむ。
違う。違うのに。
「それじゃあまるで私がヤマダくんのこと好きじゃないみたいに聞こえる」つい棘のある言い種になる。
「そんなこと思ってないけど。なんか、ごめんエリ...」
「うん...」
六月になってからは練習試合の調整で忙しい。という理由でヤマダくんも私も距離ができた。片方ならまだしも二人で反対向きに離れると、その速さはとても大きい。
部活も最近やりづらい。ショーコちゃんの一件で、拍車がかかった。
「ねえ、何で円陣に入らないのエリ?」
部長のカンナ先輩が私を睨む。これで五度目だ。練習から円陣を組まなくてもいいじゃないか。頭が痛い。
「一人だけ着替える時間をずらすのもねえ」
ショーコちゃんとユリアちゃんが加わる。部員の円陣は私のところだけ隙間が空いている。体育館の黒のラインテープが足元を横断している。
「なんかさあ、クサクナイ?」
初めての円陣から解放されたとき、両脇にいたショーコちゃんとユリアが言っていた。きっと私じゃないはず。お守りもたくさんかけたのだから。
だからこそ心配になる。
お守りは一本、また一本と湯水のように消えていく。不安を押し込めるために、ミント、フローラル、セッケンと、種類も強さも増していった。
空になった缶の束を見てようやく安心できる。
私自身が花になったような気分になる。
頭の痛みが薄れて、視界がぼんやりとしてくる。いつの間にか私の皮膚には花が咲き乱れていて、雌しべのあるあたりには可愛らしい女の子の上半身が覗いている。
この子たちといれば大丈夫。
円陣だってへっちゃら。ヤマダくんとキスもできる。
私は生まれ変わったのだ。
私のからだに生えた花びらの妖精が応援してくれる。人に近づいてもへっちゃらと、体のそこここから励ましてくれる。
白い花びらの可憐なスカート、雌しべの妖精が私の全てになる。




