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エリちゃんの場合1

 後ろ手に扉を閉める。廊下は三度確認した。階段も二回見た。踊り場まで人影はない。

 ヤマダくんの息が荒い。

 熱っぽくとろんとする瞳。くまさんのような大きな体。手を握られただけで胸がきゅんとする。


「エリ」


 こんなことしていいのかな、なんてしゅんじゅんする仕種も可愛い。伏し目がちに私を見るまつ毛がくるんと丸い。

 ヤマダくんの息が近い。

 私の頬に触れるほど近いよ。お腹の底から熱くなってくる。熱源は底なし沼なのだ。


 ガラリ、扉が開いた。私は慌ててヤマダくんの体から離れる。

 あれは隣のクラスのいろはさん。図書室に来るのはいつものことかしら?


 本棚の後ろに隠れると、ますますイケないことをしているような気がする。平日昼下がりの学校でキスをしたいのは、私がヤマダくんを好きだということ。


 ひとつ離れた本棚の陰で背中を丸めるヤマダくんに手が届かないのは放課後まで名残惜しい。

 でも同時に、ちょっとほっとした私がいる。


 ヤマダくんの家は私の家とは駅を挟んで反対側にある。小学生のときに放送委員で一緒になってから、意気投合した。

 遺伝子の鎖がかっちり組み合うように、私たちは何でも通じ合えた。


 好きなドラマの話から、曲、色、ファッションに至るまで驚くほど傾向が似ていた。


 もしかしたら、互いに寄り添う形で趣味嗜好が移ろうなんてこともあるかも知れない。

 でもそんなことはどうでもよくて、ヤマダくんの側にいると安心して、ヤマダくんが私に安心してくれたらいい。


 こんな話を友達にすると「今だけだよ」と言われる。そしたらそうだよなあと思う。

 でも帰り道、わざわざ往復一時間かけて私の家の方まで送り届けてくれるヤマダくんから


「結婚しよう」と宣言されると、友達の言葉がはらはらと崩れていくのが分かる。


 ヤマダくんは口だけの人ってこともある。でもね、道端の手折られた土筆やタンポポに膝を屈めて悲しむ姿、背中を丸めているヤマダくんは口だけなのかな。

 そんなわけで私はヤマダくんが好きだ。


 今日もヤマダくんを感じる。畳の叩かれる音が気持ちよい。私はネット越しにヤマダくんのかけ声をきく。たまにボールを取りそびれた振りをして、白い胴着でカッコいいヤマダくんをチラリと目におさめる。


 バレー部は比較的終わるのが早い。だからのんびり着替えをする。更衣室は練習から解き放たれた女子部員のはしゃぎ声で満たされる。


「ヤマダくんってイケメンよねえ」


 誰かが言った。私は素知らぬ体を装う。シャツに袖を通す手が微かに震える。


「わあ、エリって意外と大きい」


 背後からショーコちゃんに羽交い締めにされて、私はドキリとさせられる。ボタンをかけていないシャツから胸がこぼれる。


「やめてよ、くすぐったいから」


「えー。いいじゃない、ほら」


 私は冷や汗をかいている。お守りを忘れてしまったから余計に焦る。

 穴という穴からイヤな汗が出てくる。止まれ、お願い、止まってよ。


「やめてって」


 ショーコちゃんは私がかまってほしいと勘違いをして、自分の胸をも接してきた。汗が、ヤバい。


「ほれほれー」とショーコちゃんの手が脇の下へと伸びる。汗が、怖い。


「やめてよ!」


 私はやってしまってから後悔した。床にひっくり返ったショーコちゃんが膝を抱えて蹲っている。遠巻きにしていた仲間たちが駆け寄る。私はいたたまれなくて、部屋を出た。


 帰り道は自然と口数が減った。そんな私を心配したのかヤマダくんが


「エリ元気ない」と眉尻を下げる。


「元気だよ」と答えるも、なかなか信じてもらえない。


 川沿いの土手を自転車を押して歩く。二人の影が赤く染まる地面を裂いていく。私の自転車がある分だけヤマダくんとの距離が広がる。


 私は憂鬱だ。

 ショーコちゃんを拒絶したことも、ヤマダくんを困り顔にすることも。


 帰宅してすぐにシャワーを浴びる。バレーボールをしたあとは何よりも先だ。幾つもの穴が空いたシャワーヘッドから、透明なお湯が吹き出して、私を清めていく。


 本当ならもっとヤマダくんとベタベタしてみたい。キスをしてみたい。でも失敗してしまう。全部私のせいなのだ。


 浴室で髪を乾かしていると、お母さんが入ってきた。


「脇が痛いわ」


 ドキリとして、私は拭ったばかりの額に汗をかく。咄嗟に顎を引いて匂いを嗅ぐ。


「あんた、脇の下なんか見てどうしたのさ」


 洗面台にタオルをしまってからお母さんは怪訝な顔をする。指摘されてようやく私は脇から鼻を離す。


「ううん。何でもないよ」


「あ、そう。それより今日はお父さん早く帰ってくるらしいから、夕飯は揃ってからにしようね」


 分かった、と答える。ドライヤーを片付けているとしばらくして台所からお母さんの声がする。


「ツマミがないわ」


 ということでコンビニに遣わされる。イカの燻製。お父さんの好物。バスで直帰するから、私が買わないと。


 空は雲が渦巻いて、雨が降りそう。シャワーはまた浴びればいい。近所の公園の電灯が明滅を繰り返す。

 昔から変わらない。夕方になると点いたり消えたりするお化けライト。かれこれ十年は経過しているはずなのに。


 市役所の人は何をしているのだろう。ちゃんと取り替えているのかな。

 それとも取り替えてもすぐに壊れてしまうのかな。

 それなら電灯そのものを支柱から根こそぎ交換してしまえばいいのだ。


 でも人間はそれができない。私は砂場に残された玩具のスコップを足元に、時計塔の午後八時を見ている。あの日は午後五時の夕方だった。


 時が過ぎるのは、早い。

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