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中学校の先生になるということ  作者: おののはなこ
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新人中学校教員が遭遇する奇妙で不合理な日常。学校教育と教員人生の裏側を描く。中学校教師を目指している人、子供を中学校に通わせている人、中学生だった人、全ての人に知ってほしい物語。

一歩前へ。


 あと一歩前へ踏み出せば、楽になれる。

 4階建ての校舎の階段を昇り、屋上の扉を開けたのは覚えている。それからどれくらいの時間が経ったのだろう。私はゆっくりと屋上の縁まで辿り着き、直立不動になっていた。今眼下には、暗闇に覆われた桜並木とグラウンドが、優しい風とともに自分を待ちわび、包み込もうとしている。いつの間にか靴を脱いで並べているのに、ハッと気づいた。それらしい手順を踏めるほど冷静だったことに、笑みすらこぼれた。

 一歩前へ。あと一歩踏み出せば、全てが終わる。もう何も始めなくていい。そう思うと安堵の気持ちに包まれ、風が心地よく頬を撫ぜていった。



ーーーーーー


4月。

 いよいよ今日から僕の教員生活が始まる。東京都のA区にある公立の中学校だ。東京の私立大学を卒業して3年。やっとの思いで教員採用試験に期限付き(いわゆる補欠)合格し、3月の下旬にやっと採用が決まった。子供の頃からの夢だった教員になれることに胸は高鳴っている。昨夜もほとんど一睡もできなかった。

 「サトシ。本当に大丈夫?」

 「何が?」

 「その学校よ。あなたは九州の生まれだから知らないでしょうけど、東京じゃあまり評判の良くない地域よ。荒れてるんじゃない?」

 大学2年の頃から付き合っている結衣は商社に就職が決まって、一足先に仕事が本格的に始まっている。こうして僕の部屋に来て泊まることも少なくなっていた。

 「中学生だろ。たかが知れてるよ。俺だって不良の扱い方くらい分かっているよ。それよりいきなり担任だぜ。ラッキーだよ。生徒の名前みんな覚えちゃったよ。」

 通常東京都の中学校教員は副担任から始まる。1、2年は担任を持たず、いろいろな業務を覚えていく必要があるのと、教科指導の教材研究の時間を捻出するためだと思われる。本来は副担任業務こそ、全てを熟知した経験豊富な教員が行うべきなのだが、教員の人数が絶対的に足りない中、介護や子育てなど時間に制約がある人などが副担任になるケースが多いようだ。

 「入学式で子供の名前間違えないでよ。私中学校の入学式で結衣なのに『ゆか』って呼ばれたのよ。パパがカンカンに怒ってた思い出しかないわ。サトシ、おっちょこちょいなところあるから。」

 「失礼な先生だなぁ。そんなイージーミスしないよ。子供達にとっては一生に一回の式だからな。やっべぇ。緊張してきた。」

 

 晴天の下桜並木を通って、まだブカブカの制服に身を包んだ中学一年生が登校して来る。昔ながらの学生服とセーラー服。伝統がある学校はいまだにこのスタイルが多い。担任は教室で生徒を迎える。「おはようございます。」「おはよう。」挨拶が繰り返されるたび、緊張が少しずつほぐれていった。

 8時50分に36人全員が揃った。最初の学活、「星野(さとし)」と自分の名前を黒板に大きく書いた。教員を志す者なら、誰でも一度はやってみたいことだろう。簡単な自己紹介をして、早速入学式の練習をする。「呼名」といって、生徒の名前を呼んで返事をして立つ、クラスの最後まで進んで全員で座る、という流れを説明しなければならない。結衣が昨日言っていたのはこのことだ。実際に練習として一人ずつやってみる。名前を呼びながら、「この子たちが僕の教員人生の初まりだ。この子たちを一人も不幸にしない。一人も見捨てない。」そんなことを思いながらひとりひとりの顔を眺めていった。



 入学式はあっという間だった。滞りなく進み、1時間ほどで終わった。その後保護者も入れて写真を撮り、短い学活をして下校だ。生徒もみんな良い子そうだ。挨拶も元気が良い。

 「いいぞ。悪くないスタートだ。」

 正直そう思った。下校後の会議室での昼食会でも今年度唯一の新人教員をいうことで、前でスピーチをさせられた。教職への熱い気持ちに先輩教員のみなさんも暖かく迎えてくれた。

 そんな昼食会が終わった頃、事務職員さんから「星野先生、1番にお電話です。保護者から。」と声をかけられた。なんだろう、と思った。わざわざ今年一年よろしくという挨拶かな、と思った。

 「お前瑠奈(るな)の担任か。大竹瑠奈の父親だ。」

 担任の星野ですと言いながら、大竹の顔を思い出していた。少し栗色の入った髪が肩までくらいの、活発そうな女子だった。目は切れ長で、確か勉強は得意ではないが弁がたち、小学校ではリーダー格だったと申し送りがあった。

 「殺すぞこのやろう!」

 いきなり大声を出され、何が何だか分からなかった。40代くらいの中年男性特有の野太い声だった。

 「瑠奈が違う靴を履いて帰ってきたんだけどヨォ。テメェの指示だな?」

 はっ、と思った。一瞬で全てが頭の中を駆け巡った。大竹瑠奈は下校の時、昇降口(生徒玄関)で私に声をかけてきた女生徒だ。


 「星野先生、なんかアタシの靴が違う気がするんですけど・・・。」

 うちの学校は登下校には黒いローファーを履く校則になっている。一見するとほとんどどれも同じデザインなので、見分けはつかない。

 「違う?どういうことだ?」

 「小さいんです。私の足のサイズ22.5cmなのにこれ22cmなんです。」

 「でもお前の下駄箱だろ?自分のはどこに入れたんだ?名前は書いてある?」

 「まだ書いてないんです。確かにここに入れたはずなんだけど・・・。」

 思わず名前くらい書いとけよ、と吐き捨ててしまいそうだったが、大竹瑠奈の悲しそうで不安げな表情を見て飲み込んだ。靴のメーカーを聞いて下駄箱の周りをしばらく探していると、そのやりとりを隣で見ていた女子が声をかけてきた。

 「大竹さん、私の靴、実は私にはちょっと大きいんだけど。」

 西田茉有里、小柄で少しふっくらしていて大人しそうな印象を受けるが、実はこの子もリーダー格で、影で集団を動かすと小学校から言われていた。大竹とは違う小学校だ。この地域は学校選択制をとっていて自分で学校を選べるが、ほとんどは学区内の2、3校の小学校から進学している。

 「よかったらこれを履かない?」

 入学式ということでどちらのローファーも真新しい。おそらく話すのも初めてだが、西田が気を遣って佐竹に申し出たのだ。大竹瑠奈の表情は微妙ながら嬉しそうになったように見えた。初めての中学校で緊張の続く中、優しくされたことに気を良くしたのだろう。

 「そうだな、どうだ大竹。サイズもお互い丁度いいし。お前が良ければお家の人に聞いてみるけど。」

 保護者は写真撮影の後、外で生徒の下校を待っている。都合が良い。手っ取り早く解決できそうだった。大竹は嬉しさ半分、自分の靴が無くなった不満半分、といったところだろうか。少しはにかみながら無言で頷いた。大竹の母親は入学式には出席していたが、用事があるらしく先に帰っていた。西田の母親に事情を説明すると、すぐに納得してくれて大竹と3人で一緒に帰っていった。大竹と西田は早速できた友達に嬉しそうな様子になっていた。


 遅かった・・・と頭の中で後悔の念が襲ってきた。後で大竹の家に電話しようと思ってそのままにしてあった。食事のあと一息ついてからと思っていた。

 「俺が買ってやった靴が違うものになってんだよ。おかしいんじゃねぇか、おいっ。」

 20人程度しかいない小さな職員室だが、この電話からの怒号が部屋全体に響くには十分な広さだった。

 「どこの誰だか分からねぇやつの靴を履かされてよぉ。それで一件落着かい?頭おかしいんじゃねぇか。うちの若いの連れていって今から沈めてやろうか?」

 沈める?若いの?体じゅうの血液が頬から頭辺りに集まってきているようだった。いつの間にか他の先生たちも戻ってきて、心配そうにこちらを見ている。

 30分。自分には2時間にも3時間にも感じた30分後、電話をやっと切ることができた。謝罪し、靴を探すことを約束して、とりあえず収まった。学年主任と管理職に報告し、今後の方針を話し合った。皆私に同情してくれた。

 「大竹さんってP付いてたっけ・・・?」

 学年主任の佐々木先生は女性ながらベテランの体育教員だ。教務関係にも緻密さがあり、情報管理もしっかりしている。パソコンを開いて大竹の情報を確認し始めた。Pはクラス編成を考えるときのマークだ。一人一人の情報をカードにして机に並べてクラス編成を話し合う。色々なマークがあり、また各々はラージとスモールの2種類に分けられ、ラージの方がその特性が強い。例えばLはリーダーシップで(L)はラージエル、(l)スモールエル、と読む。(L)ラージエルの方がリーダシップが強い。Mというマークで、問題児のMという奇妙なものもある。Pはここではペアレント。口うるさい親はラージピーになる。そうだ、大竹はPはついていなかった。いや、それどころか、シングルマザーだったはずだ。

 「あの男は誰だったんだ・・・?」

 訳がわからない。昨晩のあのワクワクした気持ちは微塵もなくなっていた。この1日が今後の私の教員生活を暗示していたかのように、大きな疲労感に包まれて家路に着いた午後10時には、空は大雨に変わっていた。



 



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