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慰安所の夜

作者: 秋沙美 洋

 一九四五年。戦時下、沖縄の離島石垣島には、民家を改修した慰安所が設けられていた。その夜訪れたのは、スンヒがよく相手をする将校だった。

「彼を男にしてやってくれ」

 将校はそれだけ言って、サッと身を引き姿を消した。その後入れ替わりにやって来た客人を見て、「えっ」とスンヒは面食らった。

 そこに立っていたのは、どう見ても十代の、あどけない顔つきをした少年だった。

 スンヒは戸惑った。普段慰安所を利用するのは二十歳以上の者が主だ。こんな少年の相手は初めてである。

 とはいえ、いかなる男が来ても、慰安婦のスンヒは拒んではならない決まりだ。ここを訪れたからには、例え彼が少年であっても相手をしてやろう、と覚悟を決める。

 しかし、彼女の思いに反して少年はそこに立ちつくしたままだった。

「どうしたの?」

 スンヒは問い掛けた。訛りのある日本語だ。

 ここを訪れる男たちは、皆が皆、スンヒの身体を獣のように求める。入って早々自らの服を脱ぎ、スンヒの着衣を乱暴に剥ぐ。それが慰安所の日常的な光景であり、何度も繰り返されてきた事だった。

 少年は動かず、何も言わなかった。

「座ろうか」

 その言葉に少年は小さく頷き、スンヒと人一人分ほどの間を開けたところに腰を下ろした。

 畳のい草がほつれた部分を、少年は指でいじっている。彼の手遊びは数秒続いた。狭い四畳の空間を、ただ静寂が支配した。

「なんていう名前?」

 静寂を破ったスンヒが尋ねると、少年は無愛想に「ミツル」と名乗った。

「そう。私の名前はスンヒ。日本名は昌子。好きな方で呼んでいいよ」

 スンヒはミツルの方を見続けているが、彼は目を合わそうとしなかった。彼は畳のほつれに目を向けたまま、こう言った。

「スンヒさんって呼ぶよ。そっちが本当の名前なんだろ」

 それは何気なく放った言葉であるに違いない。しかしその一言に、晶子という名前で呼ばれ続けたスンヒの心は、わずかに救われた。

「優しいのね」

 スンヒは微笑した。ミツルは再び無言だ。

「朝鮮から来たの。日本語上手でしょ。私が生まれた時には、もう既に日本が朝鮮を治めていてね。学校には日本人の先生がいて、先生の前で正しい日本語が使えないと、棒で尻を叩かれるんだ。ひどいでしょ」

 スンヒはミツルの言葉を待たずして続けた。

「朝鮮の、慶尚北道キョンサンプクトっていうところで育ったの。山に囲まれて、緑がすごくキレイで、けど夏がすごく暑いんだ。でもやっぱり良いところだよ。石垣島にいる時も、たまに故郷を思い出すの」

 その時ミツルは初めて顔を上げ、スンヒと視線を合わせた。よく見ると頬にはソバカスが浮かんでいて、それが彼をより幼く見せた。

 四畳間に再び、沈黙が訪れた。しかしスンヒはこの静けさが全く苦ではなかった。裸で兵士たちの相手をしてきた彼女にとって、ミツルと二人でいる時間は、心が落ち着いて不思議な安らぎを覚えた。

「故郷に」

 低い声音が、沈黙を破っていく。

「俺の故郷に、姉ちゃんがいるんだ」

 そう、とスンヒが言う前にミツルは続けた。

「俺の五つ上でさ。今でも思い出すんだ。小さい頃、姉ちゃんが俺をおんぶして子守唄を歌ってくれたこと。俺、姉ちゃんの子守唄聴くとすぐ寝ちゃうんだ。キレイな声でさ、姉ちゃんは美人で、優しくて、俺の自慢の姉ちゃんなんだ」

 そしてミツルは「スンヒさん、姉ちゃんによく似てる」と言った。

「そうなんだ」

 スンヒは立ち上がり、ミツルのすぐ横に座った。そして彼の坊主頭を優しく撫でた。

 ミツルの肩がヒクッと震えた。彼のソバカスの頬を、一筋の涙が伝った。彼は声を出さずに泣き出した。

「お姉ちゃんに会いたい?」

 ミツルは鼻をすすり、首を縦に振った。彼の震える肩を、スンヒは優しく抱きしめた。

「私じゃお姉ちゃんの代わりにならないことは分かってる。でもこれくらいしか私には出来ない。ごめんね」

 ミツルの震えが大きくなり、殺していた声がわずかに漏れだす。声は徐々に大きくなり、やがて彼は幼子のようにして泣き叫んだ。

「姉ちゃん、会いたいよ。姉ちゃん。故郷に帰りたい。姉ちゃんの子守唄でゆっくり眠りたい。一緒にご飯も食べたい。俺、戦争なんて嫌だよ。姉ちゃん、会いたいよ」

 ミツルはスンヒの身体を抱きしめた。余りに強い力なので、スンヒは痛みを覚えた。しかし彼女には、その痛みさえどこか心地良く感じた。

 ミツルはそれから長い時間、スンヒの身体を抱きしめた。スンヒもまた、目を閉じ、ミツルの温もりを噛みしめた。

 少年の震えはいつまでも止むことがなかった。


「どうであったか」

 ミツルが去って行ってしばらくの後、将校がスンヒの前に現れた。

「あの、どうして彼のような少年が?」

 将校は少し躊躇う様子で頬をかいた。彼は眉一つ動かさず、淡々とした口調で言った。

「あいつは明日、特攻機に乗るんだ」

 特攻。

 スンヒの耳にも、その作戦は届いていた。連合軍に追い込まれた日本軍の、最後の苦肉の策だった。

「彼、死ぬんですか?」

「ああ、死ぬだろうな」

 そう言って、将校はスンヒの前から去った。

 ミツルが、死ぬ。感情のこもらない将校の言葉を、スンヒは胸の中で反復させた。

 故郷の姉を思って涙を流す少年が、明日、必死の旅へ赴く。それほど残酷なことが、他に存在するだろうか。

 止めさせたい。しかしただの慰安婦に過ぎないスンヒに、その権限はない。

 目を閉じると、瞼の裏にはミツルの顔が浮かんだ。そこでスンヒは、ソバカスの少年の笑顔を一度も見ていないことを思い、後悔した。

 ――姉ちゃん、死にたくないよ……。

 決して押し殺せえぬ涙交じりの声が、遠くの方からスンヒの耳に届いた。

 島の夜は落ちていた。波の音が運ばれる、美しい星が瞬く夜だ。必死に生を哀願する少年の叫びは、静かな波の音に驚くほどたやすく、かき消されてしまった。

少し重たいお話しでした。そろそろ明るい話しでバランスを取ろうと思います。

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