僕とメイドさんが知り合いだった件について
週が明けて、月曜日。
何とか立ち直り、一週間ぶりに大学へと登校した僕だったが、やはり自分が少なからず落ち込んでいるという事を完全には隠せていなかったようで、特に数年来の付き合いのある先輩や友人の何人かには心配されてしまう。
そんな大学での、身勝手に落ち込んでいた僕なんかを気づかってくれる皆の気持ちに居た堪れなくなって僕は、その日最後の講義が終えると逃げる様に早足で教室から飛び出した。
小高い丘の上に建てられた大学を下る坂道を、走る。
中学、高校の体育の授業なんかでよくあった持久走の時の様なペース配分なんて、まったくちっとも考えない、感情に任せためちゃくちゃな走り。
僕の呼吸はすぐに荒くなる。
そんな風に呼吸を荒くし、大きな足音を立てながら坂道を下って来るものだから、同じく下校途中だったのであろう学生たちは皆ギョッとして僕を見るのは当然の結果だった。
丘の麓にたどり着くと、そこまで来て僕は漸く足を止めた。
自分の心臓がまるで耳の傍まで近づけられたかのように、大きな拍動を繰り返し。
肺は空気を求め、地上にいるのにまるで水の中で溺れているように苦しかった。
「はぁ……はぁ……」
震える膝を抑える様に中腰で、その場でゆっくり息を整える。
その間に僕の横を幾人かの人々が通り過ぎていくのを何となく感じながら呼吸を元に戻していると、ふと僕の前に誰かが立っている気配を感じた。
ゆっくりと、僕は顔を上げる。
はじめは、ゆったりとした青みがかった黒のロングスカートに白のエプロンを見る。
エプロンには全くの飾り気は無いが、端についているフリルが可愛らしい。
更に胸まで顔を上げると、胸元の真っ赤なリボンが目についた。
その人が着ている服がメイド服である事に僕は気づく。
最後に、明るい栗毛色の髪の上に載せられた白いカチューシャを見て、僕はやっと彼女の名前を呼ぶ。
「ソーニャ、さん?」
「見慣れた服だからと言って、それだけで私を判断するのはいかがなものかとは思いますが……お久しぶりで御座います、星野様」
西洋人形の様に綺麗なソーニャさんが、スカートの端をちょこんと抓んで一礼。
外人としても、着ている衣服にしても、ただでさえ目立つその姿。
ただの真似事とは異なった、とても僕と一つ違いの人とは思えないほどの優雅な動作に。
昔から表情に乏しい人ではあるが、それでもとても整った容姿と相まって、周りの注目が一層集まる事に若干の恥ずかしさを覚えるだけで済んだのは、僕と彼女が幼年の頃より亡くなったユアの専属メイドで、ユアと友人関係になった頃よりの顔見知りだったからだろう。
「ソーニャさんがここにいるという事は……」
「はい、本日は前日にご連絡をいたしました通りのご用件で御座います」
「『近日中に』とは言われていたけれど、まさか電話を頂いた昨日今日に訪ねてくるなんて思いませんでした」
先方にしては珍しく、今回の訪問は少なからず礼を欠けている事に、何か先方に不都合があったのではと疑ってしまう。
ならば機を改めて後日にした方が良いのではとソーニャさんに尋ねるが、今日を逃せば先方と次に会える機会は暫くないが、しかし先方は僕に早くに会って話したいことがあるそうだ。
「大変申し訳ございません、星野様。これから星野様にはご足労をおかけいたしますが、これからお時間の方はよろしいでしょうか?本日の星野様のスケジュールはある程度の把握はしておりますが、学生の身ならお友達などとのご予定なども御座いましょう?」
「ううん。この後の予定は全然大丈夫……って、何でソーニャさんが僕のスケジュール知っているんですか!?」
「……少々此方にてお待ちください。すぐ此方にお車を回します」
うわぁ……無視ですか、そうですか。
心の中で呟く言葉は、しかし何故かソーニャさんに届いていたみたいで。
ソーニャさんは、口元を緩めて一言。
「知りたいですか?」
「ごめんなさい遠慮しますすみませんでした」
好奇心よりも何故か恐怖心が勝った僕は何度も何度も首を横に振って、全力で遠慮させていただいた。
それ見ていつも通りの無表情に戻ったソーニャさんが、何故か少しだけ残念そうに見えたのは、僕の気のせいだと信じたい。
ソーニャさんが電話で何処かに連絡を入れてすぐ、僕たちの前に一台の車が止まる。
ト○タセンチュリーだ。
僕の様な一般人の送迎に態々高級車を回してくれた先方に恐縮しながら、ソーニャさんに誘われ後部座席に乗り込むが……やはり落ち着かない。
高級車特有と言ってもいい上品な内装に、ゆったりと余裕のある空間、柔らかいシート。
その上清掃も丁寧に行っている事は、一目で分かる。
車内はゴミの一つも無く、車窓はまるで穢れを知らない淑女の様だ。
そして何より、車内で全く揺れを感じない。
こんな車に乗せられては、正直言って落ち着かない。
とにかく汚さないように、粗相をしないようにと考えてしまう僕は、どうしても身が縮こまってしまう。
「あまりお気になさらず、星野様のご自宅の様にくつろいでいただいても宜しいのですよ?」
「そ、そんな事言われたって……」
助手席の方からソーニャさんが僕を気遣って声を掛けてくれるが、やっぱり慣れないものは慣れないのだ。
だからと言っていつまでも、折角先方が僕を思って回してくれた車の隅っこで、お客様として招かれている僕が萎縮しているのは流石に相手に失礼だ。
一先ず僕は、ソーニャさんに話を振って少しでも気分を紛らわせようと試みる。
「ソーニャさん」
「はい、何でしょうか?」
「ソーニャさんは、今は何をしているんですか?」
「……」
……やってしまった。
そう気づいた時には、最早遅く。
僕の正面、助手席に座っている為に顔が窺えないソーニャさんの沈黙が、痛い。
ソーニャさんはユア付きのメイドとして、一人の人間として、ユアの傍にいられることを誇りに思っていた事を、姉妹同然に思っていた事を以前僕に話してくれた彼女に、どうして僕はそんな事を聴いてしまったのか?
ユアが死んでしまって、彼女が辛い思いをしている事は言うまでも無い事なのに……
ふと、バックミラーに映った白髪交じりの中年の運転手さんが、冷や汗流しながら僕に「なんてことを聴いてやがんだこんちくしょー!!」と、視線で訴えていたのが見えた。
僕はすぐに、頭を下げる。
頭を下げてソーニャさんにどう詫びようかと、悩む。
「……私は」
そんな不躾な僕の質問でも、ソーニャさんは律儀にも答えてくれようと、口を開くけれど言いよどむ。
言いよどむ彼女は、僕が言える立場では無いのだが、まるで自身に後ろめたさがあるみたいに。
どうしてか、僕の目には彼女の口ぶりがそんな風に聴こえてしまう。
「私は今、先代のメイド長と奥方様の推薦を受け、僭越ながらも月ノ宮本家のメイド長の立場を賜っております」
「ぇえ!?」
ソーニャさんの口ぶりとは異なって、返って来たのは大出世の知らせ。
彼女がメイドとして優秀な人である事は知っていたけれど、まさか月ノ宮家のメイド長を勤める事になっていたとは、と、素直に僕は驚く。
由緒正しき旧華族の家柄であり、今や日本経済の一角を担っていると言われている月ノ宮家。
そんなお家の本家勤めのメイドともなると、当然の様に高い能力が必要になってくるのは想像に易い。
事実、月ノ宮家のメイドを勤めていたという経歴を得られるだけで、雇用先は引く手あまただという話は、ネットの界隈では有名だ。
それに以前、ソーニャさんに月ノ宮本家のメイドの採用条件を教えてもらったことがあったが、とても人間に求める様なモノでは無かったのをよくよく覚えている。
そんな高いレベルが求められる中でも更に能力と重責が求められ、また月ノ宮家内で少なからず発言力を得られるメイド長と言う立場は、きっとなろうと思ってなれるものでは無い筈だ。
だけど彼女は若干21にして、その頂に。
またより分かりやすく言い換えるならば、日本に存在するメイドの頂点に彼女は立ったと言っても過言では無いのだろう。
彼女の事が認められた。
これ程までに嬉しい事はない。
ここに誰かがいなければ、僕はきっと手放しで喜んでいただろう。
しかし僕は「おめでとう」を送ろうとするけれど。
彼女は僕の祝福を遮るかのように。
ため息を吐いて、続けるのだ。
「ですが……正直に言いますと辞めるつもり、ですけれどね」
「「ぇえええええ!!?」」
爆弾発言。
流石のソーニャさんの宣言に、僕も、また傍で聞いていただけだった運転手も驚きを隠せない。
同時に、何故彼女が栄えあるその職を辞そうとしているのか?
それが分からなくて。
純粋に故を知りたくて。
僕はぶつけるのだ。
「どうして」を。
そんな僕の疑問に彼女は一呼吸おいて、独り言のように答えてくれた。
「私はずっと、この身が動かなくなるその時まで、ユア様のお傍で一生仕えているものだと、それが当然の事なのだと思っていました。初めの頃こそ私自身が幼少の頃よりユア様に心身共に誠心誠意仕える様にと教育されてきた事もありますが、ユア様や星野様にふれ合って、自分で物事を考えるようになった今も、自分の心で、心の底より、確かにそう思って、望んでいたのです」
僕だって。
僕だって、まさかユアが突然死んでしまうなんて思っていなかった。
ずっと、彼女は離れていても僕のかけがえの無い友達であり続けてくれるものだと思っていた。
ずっと、彼女は僕の遥か天空で輝く太陽の様に、僕の目標であり続けてくれるものだと思っていたんだ。
ショックだった。
彼女が死んだという知らせを聴いて、僕は身がバラバラにされるたのかと思う程のショックを受けたんだ。
それ程までに彼女の存在は、僕にとってとても大きいものであった事は確かで。
ならば常に傍で仕える者として、姉妹同然として共に暮らしてきた者として。
ソーニャさんの、ユアさんを喪った精神的苦痛は僕の比では無い事は想像するまでも無い。
「ですが、きっと私の様な下女には過ぎた願いだったのでしょう……ユア様が亡くなられて、勝手な願いを持っていたせいで、今更誰かに仕えようという思いが湧かず、今まで誠心誠意尽くしてきた、誇りを持っていた仕事さえも、ただの流れ作業になってしまっている私が、どうして誰かの為のメイドを名乗れましょうか?どうして中途半端な思いで仕えようとしている私が、栄えある月ノ宮本家のメイド長を勤めるに相応しいでしょうか?」
「……」
「お優しい星野様、きっと貴方は私のメイド長就任を祝福してくださろうとお考えだったのでしょう」
僕の考えは、ソーニャさんにバレバレだ。
だけど父さんに僕の考えを指摘されたときは腹立たしく思った事でも、ソーニャさんにされる分には、それほどの不快には感じなかった。
けれどソーニャさんの思いを図ろうと窺うけれど。
助手席に座る彼女の表情を知らず。
後姿だけで彼女の思いを知ることは、僕には叶わない。
「貴方の期待を裏切る私を、お許しください」
ソーニャさんは、此方を見ない。
普段のソーニャさんだったのなら、人に目を合わせず、また頭も下げる事も無く謝る事はあり得ない事だ。
「私は、弱い女なのです」
「そんな事!?」
そんな事はない。
彼女が決して弱い人間では無い事は、僕自身がよく知っている。
僕の見てきた彼女は、誰が何と言おうと強い人間なのだ。
万人が彼女を否定するのなら、自身を持って僕は叫ぼう。
「彼女は強い人間だ」と。
それが彼女自身であってもだ。
「やっぱり、アキラさんはお優しい。ユア様もまた、貴方に会えて本当に良かったと、常日頃に仰っておりました」
「……そんな話、ユアから全く聴いた事ないよ?」
「あの方は素直に感情を伝えたりすることは、あまりお得意ではありませんでしたから」
ああ、確かに。
ユアはあまり感情を素直に面に出すことを嫌っていた節があった。
彼女が中々素直に言えない時には、ソーニャさんがからかって……
脚の不自由で、また研究熱心だったせいであまり外に出なかった故に、とても白かった肌をまるで真っ赤に熟れたトマトの様に真っ赤にして怒る。
それが僕と彼女達の日常風景だったなと、思い出す。
『思い出す』
そのフレーズを聴いて『それはまるで、ユアが最早過去の人みたいじゃないか!?』と、心の内の僕が怒鳴る。
しかしそうだろう、僕?
ユアが過去の人だと思うこと。
その認識自体に、はたして間違っている点など何処にあろうか?
「そんな……そんな貴方なら……だから私は………」
「ソーニャさん?」
「あき……星野様、お願いが御座います」
ソーニャさんは途中から僕を名前で呼んでいた事に今更気が付いたのか、慌てて言い直して、真剣に、僕に『お願い』を言うのだ。
「お優しい星野様……貴方は身勝手にも月ノ宮家を去ろうとするこの様な私でも、情を与えてくださるというのでしたら――どうかその時には、私をアキラさんの侍女としてお雇いいただけますでしょうか?」
「……え?」
弱弱しく。
普段の彼女からは考えられないほど、弱弱しく。
ソーニャさんは、僕を誘う。
僕が?
ソーニャさんを雇う?
今まで考えてもみなかった事に、僕の思考はグルグルと廻る。
廻って、廻って。
廻って、廻って。
考え、考え抜いた末に。
最後の最後に、僕が行きついたのは、ユアの事。
彼女は、今のソーニャさんを見て、はたして何というだろうか?
確かに、ソーニャさんが僕に仕えたいと言ってくれたことは嬉しいけれど。
僕を通して彼女がユアを見ようとしているのならば、止めさせなくちゃ。
彼女はきっと、ユアが死んでしまって、気持ちが不安定になっているだけで。
人生の行き先を、そんな一時の感情に任せたまま決めてしまうのは間違っている。
僕が思ったように、ユアは最早過去の人間になったのだ。
僕も、彼女も、何時までも過去に囚われてはいけない。
だから僕は、ソーニャさんの弱弱しい声、寄りかかるような声を、耳の内から振り払う。
首を大きく振って、振り払う。
ユアの死に彼女も、そして僕も、正面から立ち向かわないといけない。
残された僕たちが傷の舐め合いをする事なんて、ユアは絶対に望んでなんていない筈だから。
だから僕は――
「――ごめんなさい」
「……」
謝る。
それこそ足元しか見えないほどに、腰を折って。
それが、僕がソーニャさんにできる、精一杯の返答だった。
――沈黙が過ぎ。
――答えもない。
僕は、ソーニャさんを傷つけたのだろうか?
頭を下げたまま、僕は最悪の展開を考えるけれど。
「……ふふ」
鈴を転がすような上品な笑い声が、車内に響く。
ソーニャさんは、僕の予想に反するように。
ただ、笑っていた。
「鈴木さん。私、振られてしまいました」
「……リーヴェンメイド長、些かお戯れが過ぎるのでは?」
「確かに、少しやり過ぎましたね。ですが星野様、貴方が悪いのですよ?貴方があまりにも真剣に考えるものですから、ついついからかってしまいたくなったのです」
「は?…………え?」
全ては冗談、演技。
その事実に気づいた僕は、ドッと何か重い荷物を下ろしたかのような感覚を覚えた。
よかった。
彼女は、少なくとも僕よりかは大丈夫そうだとホッと胸を撫で下ろす。
撫で下ろし、ふとバックミラーに自然と僕の視線が向かう。
偶々、本当に偶々目に入ったバックミラーに自然と僕の視線が行ったまま。
ソーニャさんに鈴木さんと呼ばれた運転手さんと、目が合う。
視線を合わせることは、何となく失礼かと思って目を逸らそうとするけれど。
「……」
「……?」
鈴木さんは必死になって、僕に何かを訴えているように見える。
正確には、彼は僕にソーニャさんを見るよう訴えている様に見える。
「からかって、申し訳ありません。星野様」
初めて、振り返ったソーニャさんの顔をまともに見る。
目尻を下ろし、微笑み、振り返るソーニャさんは、相も変わらずとても綺麗だと思う。
――薄らと、彼女が窶れている事に気づかなければ。
彼女は、上手くそれをメイクで隠していた。
余程注意して、それもかなり接近して彼女を見ない限り、たとえ親しい者でさえ簡単に気づく事が困難なほど。
ソーニャさんは、本当に強い人だ。
僕が思ったその言葉を、心の内で改めて、忘れないように強く、強く噛みしめた。
人に勝手な人物像を押し付けた、己の浅ましさもまた、忘れないように。