トラックに跳ねられて、僕と彼女が出会った件について
今からこの作品を読んでくれる方へ
――見つけてくれて「ありがとう」を
――痛かった
僕はトラックに跳ねられる。
トラックは僕を跳ね飛ばす。
小さかった僕の身体は、白くて大きなトラックにぶつかり、跳ね、跳ぶ。
跳んで、アスファルトの上に転がった僕の身体は今まで感じたことのないような痛みを訴える。
身体の中をぐちゃぐちゃに、脳の中をめちゃくちゃにされているような、焼かれ、引っ掻き回されるような。
そんな、痛み。
感じている、痛み。
――助けられなかった
僕の目の前には、広がる紅い海に浮かぶ子犬が一匹。
紅い海は、子犬の綺麗な茶色の毛並みを穢す。
子犬は浮かぶ、プカプカと。
子犬は動かない、ピクリとも。
僕が助けたかった命の灯火は、僕の目の前で、儚く消えた。
「ごめ………ん、ごめんね……」
助けられなくて、ごめん。
間に合わなくて、ごめん。
君を救えなくて、ごめん。
僕は何度も繰り返し、唱える。
それは消えた灯火を、信じたくなかったから。
僕の行動が無駄だって、信じたくなかったから。
だから僕は何度も、何度も、許しを請う罪人のように只々「ごめん」を唱え続けるのだ。
伸ばす手は、子犬に届かない。
だから痛み、軋もうと、僕の身体は前へ這う。
再び伸ばす手は、子犬に届く。
ぬちゃりと絡みつく子犬の血が、力を振り絞って抱き寄せたこのぐたりとして動かない子犬の身体が。
僕に否が応でも子犬の死を、伝える。
「えぐっ、えぐっ…………」
痛くて、悲しくて、悔しくて。
色々な感情がごちゃごちゃに混ざって、僕と言う器から零れて落ちる。
お父さんがよく、言っていた。
『男であるならば、私の息子であるならば、簡単に涙を見せるな』って。
だけど僕は泣き虫だ。
最近は、ある程度の我慢はできるようになってはいたけれど。
それでも耐える事は叶わず、僕は涙を止められない。
「泣いているのか?」
声がした。
綺麗な、透き通るような声だ。
僕の傍に、誰かが寄る。
ギィ、ギィと、金属を酷使する嫌な音を引き連れて。
僕の目の前に、黒い車輪を引き連れて。
「君はどうして、泣いているんだ?」
見上げた僕は、彼女を見た。
片目は血が滲んで、よく見えないけれど。
もう片方の目で、彼女を見たんだ。
僕と同い年くらいの、長い黒髪の女の子を。
ふと見た彼女はとても形容のしようのないほど綺麗で。
天使が僕を迎えに来たのかと、思わずにはいられない。
だけど車椅子の上から、見下ろす彼女は淡々と。
何の思いも抱いていないかのような、見たこともない程の無色の瞳で。
透明な色をしていた彼女の瞳は、見上げる僕を綺麗に映す。
血色に染まった、汚い僕を綺麗に映す。
だから僕は綺麗だと思うと同時に、僕は彼女に冷たい印象を持ったんだ。
「痛いから、だよ……」
「何処が、痛い?」
「全部、全部………全部だよ」
身体の全部が痛い。
少しでも身じろぎしたなら、すぐにも身体中に痛みが走る。
こんな痛みは耐えられない。
心の全部が痛い。
だけど、僕が抱える子犬はもうそんな事さえ考えられなくて。
死んじゃったから、子犬はもう何もできなくて。
そう思うと、僕の心は張り裂けそうになって。
こんな痛みには耐えられない。
どうして?
神様、どうしてですか?
どうして死は助けようとした僕ではなく、罪の無いであろうこの子に与えられたのですか。
こんなの、あんまりだ。
「痛い――それは苦しい?」
苦しい。
苦しいよ。
当然じゃないか。
だけど、僕は――
「――苦しいよりも……悲しい」
「悲しい?どうして?」
「だって……この子、を…………守れなかった、から……」
「守れなかった?」
彼女の表情は変わらない。
変わらず僕を、只々見下ろす。
只々何も言わずに僕を見下ろす彼女だけど、彼女のその小さくも白く、綺麗な手は少しだけ、震えている事に僕は気づいた。
震える手で、握るのはリード。
少し色褪せた、巻き取り式のリード。
そのリードの端は、千切れている。
「どうして、子犬を守ろうと思ったんだ?」
「……助け、たかったから」
理由なんてない。
理由なんて必要ない。
危ない目にあっている人や、生き物を助けようと考えるのは当然じゃないかな、と。
僕は本気で、そう思っていたから。
だから僕は子犬を助けようとしたんだ。
……僕に力がなかったから、僕の行為は全部無駄だったけれどね。
ポツッ、ポツッと雨音が、聞こえてくる。
もう僕には空を見上げるどころか、身体を動かす力は残っていないけれど、少なくとも僕の目の前に見えているアスファルトは、雨音はするのにちっとも濡れる事はなかった。
「どうしてかな?」と、不思議に思う。
「雨が………降ってる……ね」
「なに?」
「雨……あめ………ああ、うん……きっと空が、泣いて…………くれているん、だ…………この子が、死んだ…………ことを、悲しんでいるんだ……」
「悲しい、かなしい?これが、悲しいということなのか?」
「う……ん……………う、ん?」
彼女――君は。
もしかして、『悲しい』を知らないの?
それは………とても、とても悲しいことだと、僕は思う。
「子犬が愛しかったから、私は悲しいのか?」
もはや問いに答える体力は無く、瞼は只々重い。
………寒い。
このまま僕は、死んでしまうのかな?
「ハ………、グッ……」
それでも僕は必死になって。
口をゆっくりパクパク、お魚の様に。
答えようと、呼吸しようと、頑張るけれど全部無駄。
……駄目。
駄目だ。
無色で透明な彼女。
答えを探して迷子になっているのかもしれない彼女に今ここで。
答えをあげなきゃ、ずっと迷子だ。
この子を守れなかった僕はせめて、彼女にちゃんと答えをあげないと。
「………ぅ……、ゲホッ、ゲホッ」
口の中に広がる鉄の味。
溢れる、赤い液体。
僕はその味を嫌って、呼吸を妨げる様に喉に痞える液体を嫌って吐き出そうとするけれど、上手く行かなくて、苦しくて、もどかしい。
遠のくのは、意識。
迫るのは、寒さ。
このままでは伝えられなくなってしまうのは、答え。
今ここで彼女に答えないと僕はきっと後悔する。
そう思っていた。
だけど。
――ガシャン、と
僕の傍で、何かが倒れる音がする。
何の音?
そう疑問に思った僕の身体を、ふわりと、誰かが僕の手を握る。
「大丈夫だ」
僕の傍に寄って、耳元で、優しく、子守唄を聞かせる様に。
囁く、彼女の声が耳を擽る。
握る、彼女の手が気持ちいい。
不思議と、高鳴る僕の胸がうるさい。
「私は、待つよ……君を。だから今は――」
彼女の子犬を助けられなかった僕が、彼女に優しくなんてされる資格はない。
だけど、彼女のその言葉は、とてもありがたいと思ったんだ。
目覚めたら、僕は彼女に謝ろう。
子犬を守れなかった事を。
そして彼女の問いに答えよう。
彼女が泣いている訳を。
それを果たすまで、僕は、死ぬわけにはいかない。
だから、待ってて。
目が覚めたら、君に答えを――
「目が覚めたら、私と――」
彼女の言葉を聴きながら、そうして僕の意識は闇へと堕ちて――
「――ぁ」
目を覚ます、僕は気づく。
夢を見ていた事に。
昔の。
遥かに遠い、昔の夢の。
彼女に。
『月ノ宮優愛』に初めて出会った時の夢を。
僕はあの時、小学生の頃にトラックに跳ねられた。
それは彼女の飼っていた犬が車道に飛び出すところを、僕が偶々見て助けようとして飛び出してしまったたからだ。
よくもまあ……なんとも命知らずな行為ができたものだと、振り返ってみてつくづく思う。
「なんで子犬なんかの為に!!」なんて言われて、散々母には怒られた。
僕が子犬を助ける為に車道に飛び出したことで、結果的に人を轢いてしまったトラックの運転手の人に迷惑を掛けてしまった。
学校の友達にも心配を掛けてしまった。
だけど。
――私と、友達になってほしいんだ
だけど、僕はあの日にとった行動を、後悔する事はない。
子犬を助ける事は出来なかったけれど。
僕は、ユアと知り合うことが出来たのだから。
ユアは僕と同い年でありながら、既に科学界において類稀なる才能を発揮していた、所謂天才と呼ばれるに相応しい人だった。
だけどそんな彼女は、天才であるが故に孤独で。
孤独であるが故にあまりにも、人としての何かが欠けていた。
その事は、きっと聡い彼女のこと。
彼女自身もとうに分かっていたことだったのだろう。
だけど、僕と言う存在が近くに来た事で。
そんなモノは、すぐに満たして埋めてしまうんだ。
ただ、彼女の近くに居てくれる人がいなかっただけで。
彼女にとってそんな些末な事は、きっかけさえあれば片手間も惜しむことなく解決できたのだ。
何故なら、彼女は天才なのだから。
彼女にとって、僕と言う存在がどれ程役に立てたのかは分からない。
だけど彼女との出会いは僕にとってかけがえの無いモノであったのは、確かなのだ。
彼女を知って、今まで知らなかった世界の仕組みを僕は知った。
彼女に連れられ、今まで知らなかった世界の広さを僕は知った。
僕は彼女を通して夢を持った。
僕は彼女を通じて理想を得た。
彼女との出会いは、僕と言う人間にとって。
大切で。
尊敬すべき。
先人で。
友人だったんだ。
それこそ僕にとって、彼女と出会い、共に過ごした時間は、夢の様なとても素敵なモノだったのだ。
「――、っああ………」
だけど、だからこそ。
僕は、目を覚ます。
もう夢を見る時間はおしまいだから。
頭痛気味な頭を抱え、気怠いと訴える自分の身体の訴えを無視し、僕はゆっくりと布団から起きる。
着ていたシャツが、シーツが、じわりと汗ばんで気持ち悪い。
思っていたよりも長く眠ってしまっていたみたいだ。
老朽化したマンション故に古い窓から、差し込む日の光は茜色。
太陽は既にビルの谷間に殆ど呑まれ、ほどなくしたら人工の光が世界を支配する時間がやってくるだろう。
『――本日、麻薬所持の容疑で逮捕されたミュージシャンの谷巻氏が――』
テレビをつけっぱなしにして、眠ってしまっていたらしい。
日の落ちかけた暗がりの部屋の中で一人騒ぐテレビは、酷く僕を馬鹿にしているように見えた。
テレビは淡々と僕に言うのだ。
世間は僕に関係なく、移ろう事を。
それでも僕は、進む時を、聴きたくなくて。
騒ぐ今を、見たくなくて。
僕は塞ぐ、耳と目を。
リモコンは……見当たらない。
「……なんで」
まだ、夢から覚めたくないから。
僕はまだ、僕のままでいたかったから。
己の殻に、閉じこもろうと必死になってしまう。
このままじゃ、駄目な事も分かっていても。
あと少し、もう少しだけ、と。
あの輝いていた時間の中に、浸かろうと、逃げようとする。
『――訃報です。量子物理学の第一人者にして、ゲームクリエイターとしても活躍していた月ノ宮ユア氏が先週未明、都内の自宅で亡くなっている所を発見されました。若干二十歳……若き天才のあまりに早すぎる死に、その死を惜しむ声が――』
だけど時間は前にだけしか進むことは無いのだから。
僕が立ち止まることを許さない。
しかし、それでも今だけは。
あと少しだけ、この瞬間だけは。
「どうして、死んじゃったの……ユア」
彼女を想う、立ち止まる為の時間を下さい。
『――晃。大丈夫か?』
「え?」
ユアの死から一週間、漸く立ち直れそうになっていた日曜日。
珍しく実家から、父から電話が掛かってきた。
電話越しに久々に聴いた父親の声は、酷く優しげで、不安げで。
何時も、何事においても僕に厳しかった……と言うより、家族に関心があまりなかった父さんが、一体どういう風の吹き回しなのだろうかと、首を傾げて聞き返す。
「何の、話?」
『とぼけなくても、ちゃんと聴いているぞ。お前、大学を一週間も無断欠席しているそうだな』
「うっ……」
父の指摘が図星で、僕は言葉に詰まる。
自身の通う大学は他の大学と異なって、生徒の面倒見が良い事で評判が高い。
大学側が掲げる「生徒と共に歩む大学」の教育方針の許、その一環として生徒数人ごとに成績相談や進路相談等を担当してくれるチューターを設けているのだが、たぶんそちらから俺の無断欠席の件が父に伝わったのだろう。
僕は担当のチューターとの仲はそこそこ良かった、授業も真面目に受けていたから出席率も問題ない。
ただ、チューターは担当の生徒たちの出席率も管理していた筈なので、何の連絡もなく一週間も無断欠席した僕の事を心配して実家の方に連絡を入れたのだろう。
心配してくれることはありがたいこと、だけれど。
しかし今回ばかりは放って置いてほしかった。
我ながら贅沢な事を言うものだと、自分の身勝手さにほとほと呆れる。
それでも自身の担当である中途半端な薄毛バーコード頭の准教授を思い出して、「いっそ禿げてしまえ!!」と思ってもない呪詛を、吐いてしまわずにはいられない。
もしかしたら実家に呼び戻される事を覚悟しておいた方がよさそうだ。
「その……ご、ごめんなさい父さん。僕は――」
『――月ノ宮、か?』
「……ッ」
必死に言葉を紡ごうと、誤魔化そうとする僕に被せる様に、遮る様に、父さんは指摘する。
また、図星だ。
僕は父さんの指摘に答える事が出来ず。
携帯を持つ手は、少し震える。
今の今まで家族を顧みる事がなかった父さんに、正しくも僕の心の内を指摘された事がこれほどまで苛立ちを覚えるものだとは思わなかった。
本当に……今更だ。
『彼女の事は本当に残念だった。仕事ばかりにかまけて、母さんにお前を押し付けて、まともにお前を見ようとも、構ってやろうともしなかった私には、今更お前に何かを言う資格は無いのだろう。しかし大切だった人を失ったお前の気持ちは少なくとも、私にだって分かるつもりだ……私は、それに気づくのが遅すぎたが』
父さんにとって大切な人とは、母さんの事を言っているのだろう。
僕が遠方の大学に行くことになって、一人で暮らすことになった父さん。
父さんとは久しく会っていなかった内に、父さんの心境に少なからず変化があった事は何となく分かる。
が、いくらなんでも今までぞんざいに扱ってきた母さんの事を、今頃になって『大切な人』だと言ったことに、僕は驚いている。
『今更何を言っているんだ』、と。
『辛いなら、こんな私でもいいなら相談に乗る。いつでも家に帰って来なさい』
「……父さん」
『何だ?』
しかし腹立たしい事ではあるが、父さんが反省し、変わろうと思っているのであるならば。
彼が僕にとっての父さんである事には変わりないのだから。
だから僕は母を思い、父さんを受け入れようかと、そう思ったんだ。
できれば、母さんが生きていた頃に変わって欲しかったけれど。
それでも僕は「本当に、変わったね」と、言おうとする。
だけど。
そう言おうとした、その時に。
『Hey,Yashuhito. Who is talking?』
電話越しに、女の人の声がした。
ネイティブな発音……
察するに、相手が日本人では無い事は分かるが。
しかしかなり近くから、はっきりと。
父さんと話すその人は、親しげに。
答える父さんの口調もまた、驚くほど優しく。
父さんと相手、互いの好意を感じられた。
……嗚呼、そう言う事なのか。
『ん“ん”。アキラ』
「……何?」
『近いうちに、お前に紹介したい人がいる』
父さんは、確かに変わろうとしている。
母さんを置いてきぼりにして。
母さんを踏み台にして。
しかし母さんとは別の人を選び、共に過ごす事に思う所が無いといえば嘘になるけれど。
ぞんざいに扱われようと、それでも母さんが愛していた父さんが幸せになれるのなら、やはり僕は父さんを祝福するべきなのだろうか?
……母さんであれば、それでもいいと言うのだろう。
ならば、僕は――
「いいよ、紹介しなくても。父さんが選んだ人なら少なくとも問題はないと思うし。それに成人を迎えた息子が父さんたちの間にいても、互いに気まずくなるだけだよ?」
『そうか……』
「そうだよ、父さん。だから僕の事は気にせず――」
『……アキラ?』
その人と、どうか幸せになってください。
……なんて。
その言葉を、僕が最後まで言い切ることはなかった。
どうしても、僕の頭の端で死んだ母さんの事が気になって。
僕の言葉は、喉に痞えてしまうのだ。
「ううん、何でもない。近いうちに顔を出すよ」
『そうか、分かった。待っているぞ』
「はい、それでは父さん。また」
『ああ、またな。アキラ』
通話が切れ、部屋はしばし無音に返る。
電源を切ったスマートフォンを耳元から放すと、ふと僕の顔が、何も映さない画面越しに見えた。
最近、母さんに良く似てきた僕の顔。
今にも泣きそうに、顔を歪めている。
それはまるで、僕が母さんを悲しませてしまったかのように思え。
……ただ、不愉快だ。
「漸く、立ち直れそうだったのに……」
僕は弱い人間だ。
だから一人、己に言い訳を吐く。
僕は器の小さい人間だ。
だから父さんの幸せを、素直に。
母さんの様に、素直に。
僕は祝福できないんだ。
「……ッ」
振り上げるのは、スマートフォン。
僕のやり場のないこの気持ちは一体どこに向ければいいのか!?
そんな叫び。
僕の、心の中からの叫びを。
物に当たるなんて良くないけれど。
だけどそうでもしないと、僕の心は耐えられない。
だから僕は、壁に向かってスマートフォンを投げようとして――
――ピロリ~ン
気の抜けるようなメールの着信音が不意に、鳴る。
その着信音は、理不尽な僕という主に対する物言えぬスマートフォンの精一杯の抗議の声の様に、僕には聴こえた。
念願だったオリジナル小説を、漸く決心して投稿する事にしました。
こんにちは、bootyです。
拙い私の文章力ではありますが、それでも少しでも皆様に「面白かった」と言ってもらえる様なモノを書こうと思いますので、暇つぶし程度に楽しんでいただけると幸いです。