プロローグー1
1913年の年末、土方勇志大佐は呉駅のホームで人を待っていた。
海軍兵学校の教頭として着任してからまだ1年程だ。
海軍兵学校の卒業式を間近に控え、来賓を呉駅で出迎えることになった。
何しろ、その来賓には海兵隊入隊以来、様々な形で自分はお世話になっている。
自分が出迎えるのが当然だった。
どこから降りてこられるのか、1等車の前で待っていたが、そこからは降りてこられない。
来賓の地位からすると1等車から降りてこられるはずだが、と疑問を覚えていると、三等車から来賓が1人で下りてこられるのが土方大佐の目に止まった。
軍服姿ではなく、私服の和服姿だった。
その姿だけを見ると、田舎の好々爺に見えないこともない。
だが、気配がそれを打ち消している。
その気配を感じ取れる人間は、皆、その来賓を自然と敬い、さっと道を開けていた。
来賓が近づくと、土方大佐は思わず敬礼をした。
海兵隊大佐が無言で敬礼する、その姿を見た人はますます、その来賓を自然と敬った。
「そう堅苦しくなるな。全く」
来賓が口を開いた。
「いえ、元帥海軍大将にして華族を出迎える者として当然です」
土方大佐は答えた。
来賓は、林忠崇元帥海軍大将だった。
しかも、伯爵位を持つ華族でもある。
「何故、1人で三等車に?」
土方大佐は思わず尋ねた。
「一等車や二等車は堅苦しくていかん。三等車がわしにはいい」
林元帥は笑って答えた。
土方大佐も思わずつられて笑った。
「しかし、スリとか物取りに狙われたら、どうするのです」
「わしを襲える奴がそうそういるか?」
土方大佐の問いに林元帥は反問した。
「いませんな。襲う奴は見る目が無い」
60歳は過ぎたが、林元帥は今でも体を鍛えており、剣客としても名を轟かせている。
確かに返り討ちにしてしまうだろう。
「そういえば副官は?」
「黙って置いてきた。一等車に乗れ、とうるさくてかなわん」
林元帥は当然のように言った。
やれやれ元帥のわがままか、土方大佐は副官に同情した。
後で、海兵本部に私から詫びの連絡をしておこう。
とりあえず、海軍兵学校に林元帥を案内せねば、土方大佐は林元帥を先導して海軍兵学校に向かった。
「イタズラを仕掛けてきたのがおるな」
海軍兵学校の来賓用の宿舎に到着して2人きりになると、林元帥は土方大佐に開口一番に言った。
「イタズラ?」
土方大佐は気づいていなかった。
「先程、物陰からイタズラでわしに仕掛けようとしたのがおる。わしが察したので逃げおった」
林元帥は言った。
誰だ?土方大佐は思案した。
草鹿龍之介は、内心で震え上がった。
山岡鉄舟の孫弟子で、一刀正伝無刀流を受け継ぐ者として、林元帥に隙はないのか、と窺ったのだが、逆に一瞬で気圧されてしまった。
「さすが、林元帥だな。勝てそうにないか」
周囲の面々に聞かれるたびに肯くしかない。
「林元帥の今の剣法は我流とのことだが、現役海兵隊最強の剣客は間違いなさそうだな」
海兵隊入隊が決まっている同期の大田実が草鹿に声をかけた。
草鹿はため息を吐きながら言った。
「ああ、戊辰戦争から日露戦争まで伊達に前線で剣を振るってきたわけではない。とても今は勝てん」
「今は、ということは、いずれは勝つつもりか」
同期の田中頼三が言った。
草鹿は肯いた。
「まあ、精々精進に励め。いつかは勝てるだろう。その前に林元帥が亡くならねばよいが」
同期の木村昌福が、いつの間にか傍に来ていて、草鹿に声をかけた。
「確かにな。林元帥も60歳過ぎておられるからな」
草鹿は生前に林元帥に剣で勝とうと誓った。
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