第1章ー2
少し幕間めいた話になります。
林忠崇元帥は、瞑目しながら走馬灯のように思いを巡らせた。
フランツ・フェルディナント、オーストリア=ハンガリー帝国(以下、墺帝国)皇太子、この人は本当に運命に翻弄され続けた人だった。
願わくば、共に薨去された皇太子妃と共に天国に召されんことを。
異教徒の自分ではあるが、哀悼の念を捧げることは許されるだろう。
それにしても貴賤結婚したためとはいえ、余りにも墺帝国は皇太子に対して冷たすぎる。
これでは、皇太子をヤクザの鉄砲玉として使ったようなものではないか。
皇族に対してこのような仕打ちをする国は将来報いを受けてしかるべきだ。
フランツ・フェルディナント、本来、この人は皇太子になる人ではなかった。
時の墺帝国皇帝フランツ・ヨーゼフにはルドルフという立派な皇太子がいた。
だが、1889年にルドルフ皇太子が怪死(表向きは愛人と共に自殺)したことが運命を変えた。
ルドルフ皇太子の次の皇太子として血縁的に最も皇太子に近い皇族がフランツ・ヨーゼフ帝の甥にあたるフランツ・フェルディナントだったのである。
そのためにフランツ・フェルディナントは墺帝国皇太子になった。
そして、1900年にチェコ人の伯爵家の令嬢であるゾフィーと恋に落ち、結婚を決断する。
このあたり、林元帥には理解不能だが、伯爵家の娘では帝国皇后にはふさわしくないということで、この2人の結婚は貴賤結婚と言うことになり、表向きはゾフィーは皇太子妃ではなく、皇族でもない。
そして、2人の間の子も皇族ではない(つまり皇位継承権がない。)ということになった。
そして、吉松軍令部第4部長に言わせれば偶然の一致と言うことになるが、この2人の結婚式は6月28日に執り行われた。
結婚後、ゾフィーは女公爵に叙せられたが、ゾフィーとその子女は皇族扱いを拒否され、皇族の席に座ることは一切許されなかった。
また、ゾフィーは公の場(例え劇場等であっても)では妻として夫の横に座ることは許されなかった。
林元帥は、余りにむごい仕打ちではないかとそれを聞いた時に義憤に駆られた。
そして、結婚から10年以上が経つ1914年になってもゾフィーに対する墺帝室のこの仕打ちは続けられていた。
そこで、フランツ・フェルディナント皇太子は墺帝国陸軍閲兵長官の肩書を有しており、この肩書ならば公式にゾフィーを妻として処遇できることから、14回目の結婚記念日をゾフィーと共にサラエボで陸軍を閲兵して過ごすことにした。
だが、これはセルビア人の感情を完全に逆なでするものだった。
6月28日は、セルビア人の崇敬する聖ヴィトゥスの祝日であり、中世セルビア王国の滅亡が決定づけられたコソボの戦いが行われた記念日でもあったのである。
その日を選んで、本来セルビアの領土であるにも関わらず、不当に墺帝国が領土としているサラエボで墺帝国皇太子が陸軍を閲兵する。
セルビア王国内の過激派は、墺帝国の挑発にも程があるとして義憤に駆られて、フランツ・フェルディナント皇太子の暗殺を半公然と計画した。
そんなことをすれば、当然、墺帝国の官憲にもその情報が伝わる。
だが、貴賤結婚をしたフランツ・フェルディナント皇太子は帝国内ではほとんど人気が無かった。
墺帝国官憲は、その情報を半分無視して、通常の警備で事足りるとして、フランツ・フェルディナント皇太子夫妻をサラエボに行かせたのである。
そして、サラエボ事件は起こったのだった。
吉松軍令部第4部長は、サラエボ事件の背景を調査して、こうした情報を1月ほどで把握処理していた。
林元帥は、このことを吉松軍令部第4部長に聞いて、ますます義憤に駆られていたのである。
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