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9/17

待ち合わせ

 雅人にすがり付いて泣きじゃくってしまった日の、その翌週の金曜日になっていた。

 私は、雅人に会いたかった。 けど、その週は新しく担当を任された仕事が忙しくて、その仕事を放り出すわけにもいかず、雅人に会いたい、その願いは叶えられずにいた。

 とは言っても、毎朝の、名古屋駅までの十五分間は雅人と一緒なんだから、全然会ってないと言ったら嘘になるけど、でも、ゆっくり会いたかった。


 そう。最近、一つ困った事は、私の仕事だった。気持ちというものを取り戻した私は、仕事にもやりがいが出ていて、その為に、以前より多くの仕事を抱えることになってしまっていた。

 私は名古屋駅に隣接するデパートに勤めているのだけど、以前の様に、ただ、裏方のルーチンワークをやっていた頃と違って、仕事が終わる時間の予測が難しくなっていた。 加えて、休日もカレンダーどおりという訳にはいかない状態になりつつあった。

 少し前から、秋のセールの企画の、その一部を任されていて、それが、最近の私の仕事が評価された事だと思うと嬉しいけど、その反面、雅人と会える時間の予測がつかなくなる、と言うのは悲しかった。

 とにかく、この一週間、その準備が忙しかった。 そして、雅人は多分もっと忙しくて、結局帰りは、とぼとぼと一人で帰っていた。 まぁ、つい一ヶ月前まではそれが当たり前だったのに、遅くなった時は雅人と一緒に帰れるかも、なんてご褒美に気が付いてしまうと、一人で電車に乗り、そのまま一人でバスに乗って家まで帰る事が、何だかとても寂しかった。

 それでも、そうばかりも言ってられないし、それに、朝はきっちり、毎日会ってるのだから、会えなくて寂しい、というとちょっと違うでしょ、なんて考えようとした。

 そして今日、九月半ばの金曜日、以前だったらどんなに遅くても、九時過ぎには終わらせて帰っていたけど、今日は、担当している企画の準備としては最後の仕上げになり、きっちり終わらせるまでやろう、そう考えた。 もう、これまでに大体は詰めてあるので、最終的な調整だけのはず、とちょっと甘く見ていた事もあったかもしれない。

 最初は七時過ぎには帰れるつもりだった。それが九時になっても終わらず、結局十時までかかってしまった。 それでも、後悔は無かった。 上司も、途中、調整が少し甘かったかも知れないけど、最後はきちんと詰める事が出来た。そう言ってくれた。

 だから、十時過ぎにデパートから出てきて時、私はちょっと気分が良かった。そして、このちょっと高揚した気分を誰かと、いえ、雅人と共有したかった。


 だから、今日は会えるだろうか? いえ、多少の無理をしても、今日は会いたかった。幸い、明日は休日で、少しくらいは遅くなっても大丈夫のはず。そう考えた。

 そんな色々な事を考えながら、雅人にメールした。

『今、仕事終わったところです。 雅人はどう? 今日は仕事が一区切り出来たから、ちょっと気分がいいの。 会いたいな』

 私の素直な気持ちを書いた。読み返してみて、改めて驚いたのは、自分から『会いたい』そう書いている事、あまりに自然にそう思ったので、読み返すまで、そう書いた事に気が付いてもいなかった事。

 そう。これまで、メールでやりとりするのは、その時のお互いの状況だけで、会いたいという事は書かなかった。 ある意味、それは当たり前で、書くまでもない、という考えもあったとは思う。 けど、今日は違っていた。

 会いたかった。いつにも増して、雅人に会いたかった。


 この状況で会うのは、ある意味では危険だった。

 もちろん、今さら貞操の危機がどうの、という事なんかじゃない。いえ、むしろそれを望んでいるんだから。 そう。そんな事を声に出して言う事は出来ないけど、私は雅人に抱いてもらう事を望んでいた。 けれども、彼は本当に私を望んでいるんだろうか…?

 そして、私は本当に彼を受け入れることが出来るだろうか?

 そんな色々の事が、とうとう分かってしまうかも知れない。何事もなく一歩進み、お互いの関係に、もう一つ追加するだけか。

 彼が、私の体になんか興味はない事が分かってしまうのか…。

 それとも、私も、彼も、そうなる事を望みながら、私が抱える悪夢のせいで、彼を受け入れることが出来ずに、彼を怒らせてしまうのか…。


 先週、あの公園での事から、雅人が私を好きでいてくれる。そしてとても大事に思ってくれている。それは実感できていた。自分の口で言うのは恥ずかしいけど、愛されてる。素直にそう感じていた。

 なのに、どうして? この一週間は、お互いに会う事もままならない状態だから、仕方が無いけど、でも、これまでだってずっと、雅人が私を求めてきた事はなかった。

 一瞬、彼の熱い視線に気が付き、はっと身構える事は何度かあった。 求められているのかも知れない、そんな期待と不安、そして恐れを感じた。 けど、何故か、雅人はそこから先に進まなかった。私の態度がいけないのだろうか? 私の態度が彼を拒んでいるのだろうか?

 そんなつもりはないのだけれど…。

 とにかく不思議だった。

 けど、考えても判らないことだと思った。 そして、いずれは直面するのだから、避けて通れないならば、なるべく早いうちに。そうすれば、その先に何かを得るための展開が作り出せるかも知れない。そうしたい。 とにかく、今の一番の願いは、なにがあろうと雅人との関係は失いたくない。 その為なら、なんだって…。

 そう、雅人は、私がかつて自殺を試みた事に気が付いたはず。けど、その理由については、まだ告白できていない。無理に言わなくていい。そう言ってくれたけど、私の出会った悪夢、そして私の穢れた過去…、私は本当に幸せになってもいいのだろうか…。

 そう、どうしようもない悪夢に襲われたのは確かのはず。 でも、一つだけ、私が自分で決めてやった事がある。たった一つだけど、私の意思でやってしまった事があった。

 それはとても重い罪だった。 けど、それ以外のやり様は私には耐えられなかった。


 そんな事を考えていたけれど、ふと苦笑してしまった。

 単に週末の金曜日に、恋人と会いたい、そう言うだけなのに、何をそんなに深刻ぶっているのだろうのか? それに、彼は信じられる、それは確かなんだから。 ゆっくりすごそう、そう決めたばかりではなかったのか?

 そんな事を考えていたとき、雅人からのメールが届いた。

『こっちも、さっき仕事が終わったところ。一宮へは十一時位です。三省堂の前で待っててくれますか?』

 私が会いたいと書いたせいだろうか? 雅人が、私が三十分も待つことになる待ち合わせの指定をするのは、初めての事だった。 けど、私に迷いがある訳がなかった。

 なので、私の返信は短く、素早かった。 単に『待ってる』 と。


 改札を出て、駅のコンコースを歩き、駅ビルに入っている三省堂の前まで歩いていく。私たちが普段使ってる名鉄の改札からはちょっと離れてる。十時半を回っているので、とっくに閉まってる。どうして、わざわざ閉店した書店の前なんだろう? そんな妙な疑問を感じたけれど、とにかく書店の前で行き、バッグから文庫本を取り出すと、読み始めた。

 けど、頭はこれからの事ばかりを考えて、物語の世界に入り込めなかった。 本を読む事を諦め、時計を確認する。 思っていたより時間が過ぎるのは遅くて、彼が到着するまでにはまだ二十分はありそうだった。

 人を待つって、こんなに退屈だっただろうか? 退屈? いえ、退屈って言うとちょっと違うだろうけど、他に何も考える事が出来ず、思うのは彼の事ばかり、ついさっきまでわき目も振らずに打ちこんでいた仕事の事も、読む事が出来ない物語も関係なく、ただ、待ち遠しかった。


 その時、目の前の改札から一団の人があふれてきた。けど、この改札からは彼は出てこないはず。「ふぅ」思わずため息が出た。 こんな風に人を待つのって、何年振りだろうか?

 淡い記憶の向こうに、幸せだった。いえ、幸せだと勘違いしていた頃の事が甦る。一つ年上の男に恋していた頃。少なくとも私は真剣に恋してた。 多少辛くても、大抵の事なら乗り越えてみせる。そう思っていたし、信じてた。 その気持ちに嘘はなかった。

 けど……。

「はぁ」

 もう、あの男の事を思い出すことなんてないと思っていたのに…。 よりによって、今、雅人との今後を窺おうと考えている、この時に思い出してしまうなんて…。

 私ってなんて馬鹿なんだろう、いえ、馬鹿だったかもしれないけど、だからこそ、もう、そんな事を繰り返さないように、慎重に、でも勇気を持って前に進もう。 私の人生にはきっとそれだけの価値がある。

 だから…。

 まるで雅人を信じられない、そう考えているみたい、そんなのあり得ないのに…。

 そこまで思って、思わず苦笑いしてしまった。 と、その時だった。


「よ。 お待たせ!」

 その声に目を上げると、目の前に雅人がいた。 あれ?と思いながら時計を見た。思ったとおりで、まだ十一時になってなっかった。

「あら。 早いのね?」

「あぁ、JRなら、ちょっと早く着けるから、そっちにしたんだ」

「それで三省堂前なの? 名鉄の改札からはちょっと離れてるから変だとは思ったのよ」

「まぁね、今週になってから、帰りは会えなかったし…。 確かに毎朝会ってるんだけど、でも、とにかく、一分でも早く会いたかったんだ」

 思わず頬を染めそうになったけど、まずはやり返す事にした。

「あーら、そんな余分な出費をしなければ、二人で缶コーヒーくらいは飲めたのにね?」

「ははは。 まぁ、僕たちにはたっぷり時間があるんだから、焦る必要はないんだけどね」

 つい、立ったまま話し始めてしまったけど、どこか座れるところに行こう、という事になり、彼の自転車で、二人乗りで夜の街に走り出した。


 雅人がペダルを踏み、私はその後ろに立っていた。 十一時過ぎとは言え、まだ生ぬるい空気が、私たちを撫でていた。

 歩いていて、そんな、まるで密度をもったかの様な空気にまとわり付かれるのは、それだけでげんなりしてしまう事だけど、自転車で走る程度のスピードになると、そんな空気ですら心地よい風に感じられてしまった。それは、単にスピードの問題なんかではなくて、雅人と一緒にいる、という気持ちの問題だったのかもしれない。 彼の肩に手を置いて、満天の星を見上げながら、頬を撫でる風と、手を置いた彼の肩の温もりの心地よさを満喫した。

 一生懸命に自転車を走らせる、彼の耳に顔を寄せて訊いてみる。

「どこ行くつもり?」

 彼はそのまま走りながら、しばらく考えている様だったけど

「ガストでどう? 確か一本北の国道沿いにあったよね?」

「あ、知ってる。 そこにしましょうよ」

「よっしゃ」

 彼はそう言うと、バス通りから折れて、さらにスピードを上げた。

「すごーい、すんごく涼しい感じー。 このままでもいいなぁ」

 なんて無邪気に言ったら

「あはは。 それは勘弁してー。 こいでる方は結構きついんだぜー」

 そう返されてしまった。 確かに、彼の首筋、というか肩の辺りの温度は、温もり、という感じから熱を持ってる、って感じに変わりつつあった。

「あ、ごめんねー。 じゃー、ソーダフロートおごってあげる」

「えー、おれ、生ビールの方がいいなぁ」

「お酒飲んで自転車乗ると、おまわりさんに捕まるよー」

「後は押してくもーん」

 ただ、大して考える事もなく、言葉だけのピンポンを続けた。 けど、そんなやり取りだって心地よくて、二人とも笑顔が止まらなかった。



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