デート
九月最初の休日。
私たちは地元でデートしていた。同じ中学出身で、二人ともその当時と変わらない家に住んでいる。つまり、私たちの家はとても近い。
何をしたかと言えば、まずは、私たちの中学校のすぐそばに出来た電器屋さん。そう、ボーリング場に換わって出来た電器屋さん。そこで待ち合わせをした。歩いていってもいいけど、他にも公園に行こう、そう言っていた私たちはお互いに自転車で出かけた。
電器屋さんでは、最近流行の携帯電話で遊んだりした。 一緒に家電を見に行く、いずれはそんな事もしたいな、なんて思った。 だから、そんな空想に続いて、雅人と二人の家、そんな妄想に頬を染め、その生活に想いを巡らせようとした。 けど、その瞬間に過去の悪夢を思い出し、一瞬で妄想からさめてしまった。
私は、本当にその生活を実現できるのだろうか? 切実に望んでいる、それは確か。けど、私の心の中にある傷が、悪夢の欠片が拒絶反応を起こさないだろうか…。 それは、私の中でずっとくすぶっている不安だった。
けど、とりあえず、雅人といる間は、そんな不安はすぐに追いやる事が出来た。
となりで雅人が嬉しそうに笑っているのを見て、私も何とか笑顔を作ることが出来た。
まぁ、笑顔を作るのは得意だから…。
だから彼には気が付かれなかったはず…。 私が心に抱えた問題には気が付かれてはいないはず…。けど、いずれは伝えないといけないのではないか? それとも、一人で何とか克服しないといけないだろうか? 雅人が傍にいてくれれば、そうすれば、何とか出来るかもしれない。出来れば誰にも話したくない。知られたくなんか無い、私だって思い出したくない。
雅人と一緒に、一生懸命に未来を見つめていれば、その内に思い出さなくなるかも知れない、そうしたい。それをとても真剣に願っていた。
私たちは自転車に乗ると、次はちょっと離れた公園まで行った。途中にある、小学校の前を通る時、その小学校が雅人の通った小学校だと、雅人が懐かしそうに教えてくれた。
小学校として何か特別なものがある訳ではないけれど、雅人の母校。ここに、私の知らない雅人の時間があったんだな、そう思うと何だか感慨深かった。 その頃の雅人の事を知りたい、そんな事をふと思った。どんな小学生だったのだろうか? 中学の頃と変わらない悪戯好きの子供だったんだろうか? 知りたいな、そう思った。
雅人は私の小学生の頃を知りたがるだろうか?
その内、アルバムの見せっこでもしようか?
そう考えた次の瞬間に、また考えてしまった。 私は、短大時代の事を話すことが出来るだろうか? 思い出したくない悪夢を隠して、短大時代の事を楽しい思い出として話すことが出来るだろうか? 少なくとも後半は楽しい事なんて何もなかった。 そんな時間の事を話すことになったら、それはひどく苦痛に違いない。そう思った。
いけない…。
また、過去に囚われている。デートの最中なんだから、もっと楽しまなきゃ。
何だか、さすがに雅人が怪訝そうな表情になってる気がする。もっと笑わなきゃ、あ、でも、意味も無く笑ってたら変かな? あれ? どんな時に笑えばいんだろう? あぁ、いけない、いけない、ちょっとリズムが狂ってる。 調子を取り戻さなきゃ…。
とりあえず笑顔を作ろう。二人でいるんだから、笑っているのは変じゃないはず。
その後は、余計な事を考えないように、真っ直ぐに雅人を見て、彼との会話を、その会話の内容だけに集中して、そこから想像を膨らませる事はしないように気をつけた。
うん、この感じ。これなら、私は自然に笑っていられる。会話の内容だって、自然に嬉しいし、何も不自然はない。あぁ、こんな時間の流れは落ち着く。雅人が好き。それはもう、どうしようもないくらいに私の本当だ。
休日の公園には様々な人が居た。子供連れの夫婦や、私たちのようなカップル、それに近所の子供たち。 色々な人が、思い思いの時間を過ごしていた。
そんな中、私たちはベンチに座った。
周囲にはたくさんの人たちがいたので、あからさまにいちゃつく事は出来なかったけど、それでも、私たちは手を繋いでいた。
ふと、雅人が怪訝そうな表情をする事に気が付いた。 どうしたんだろう? 今は、十分に気をつけてるから、私は沈み込んでなどはいないのに…。
何を見てるんだろう? 彼の視線をたどり、私の手首を見ている事に気がついた。
その瞬間、私は震えた。 きっと、傷に気がついたんだ…。
訊かれてしまう。 この傷が何なのか、訊かれてしまう…。 体が強張るのを感じた。
彼も、私の様子が変わった事に気がついた様だった。 お互いに言うべき言葉を思いつけずに、二人の間に気まずい沈黙が生まれてしまった。
けど、そんな沈黙を破ったのは彼だった。
「なぁ…、 遥って動物を飼った事ある?」
それは、如何にも脈絡の無い話題だった。やっぱり気が付いてる…。
「え? えぇ…」
「へぇ、で、何を飼ったの? 犬? それとも猫?」
何だかぎごちない会話になってしまった。 隠せないなら、真っ直ぐに告白しよう。彼になら言える。今はまだ怖いけど、でも、いずれ乗り越える事だから…。 ちょっと、心の準備が終わってないけど…、 けど、雅人なら大丈夫。
そう思いながら、強引に話題を転換した。
「雅人。 私のこの傷は…」
精一杯の決意で言葉を続けようとした。 けど、最後まで言う事は出来なかった。
「遥」
私を真っ直ぐに見つめた雅人が、酷く緊張した声で、私の言葉さえぎった。 けど、続く言葉は拍子抜けするような内容だった。
「僕のこと、好き?」
「え? もちろん、好きよ」
それは、迷い無く答えることが出来た。
「へへ。 言わせちゃった」
何だか、無理におどけてる。それがみえみえだった。
「ね、雅人。 あのね…、私ね…、 私のこの傷ね…」
言わなきゃ、今、言わなきゃ…。
そう考え、さらに強張りながら、必死に言葉を搾り出そうとした。 けど、やはり最後までは言えなかった。 私は言葉に詰まってしまった。
そんな私に、雅人は救いの言葉をかけてくれた。
「遥?」
「今、君が僕のことを好きだ、そう言ってくれる気持ちだけで十分だよ」
「だって、今の遥の気持ちの中に、これまでの事はぜーんぶ入ってるんでしょ? そのぜーんぶをあわせた君の気持ちが、僕を好き。そう思ってくれるなら、僕はそれで十分だよ」
「いや、最高だよ。 本当に良かった」
「だから、これまでの細かい事は無理に知る必要はないよ…」
「とにかく」
「遥が、僕を好きになってくれて、僕は本当に良かった」
その言葉は、私の心の真ん中まで、真っ直ぐに、そしてとても自然に入り込んできた。今の私でいいんだ。
これまでの事は全部、今の私の一部なんだから、だから、それ以上は必要ない。
求められてるのは、今の私なんだ。
それは私にとって、本当に救いの言葉だった。
気が付いた時、私はぼろぼろ涙をこぼしていた。周囲に色んな人がいる。休日の公園なんだ、そんな事はどうでも良かった。 これまでの全てが報われた様な気がした。
ただ、嬉しかった。 そしてただ、ただ、雅人が愛しかった。
私は周囲も構わずに、雅人にすがりついた。止め処もなく溢れ出る涙が嬉しかった。雅人と一緒ならどんな事でも受け止められる。彼なら本当に私の全てを受け止めてくれる、そう確信した瞬間だったと思う。 彼と知り合ってよかった。 彼の目に留まってよかった。 彼を好きになってよかった。 嬉しくて、嬉しくて、ただ涙が溢れてきた。
声を抑えて泣きじゃくりながら、それでも、しゃくりあげながら、その合間に一生懸命に伝えた。「好き」「好き」「雅人が好き」「愛してる」「好き」周囲からどんな風に見られてるだろうか、雅人は当惑してるかもしれない、でも止まらなかった。 ただ、雅人が愛しかった。
そんなでたらめな私を、雅人は優しく抱きしめてくれた。そっと抱きとめて、私の体をさすりながら「ありがとう」「僕も遥が大好きだ」そう繰り返してくれた。
雅人に抱きしめられて、暖かい安らぎ満たされていくのを感じていた。 もう取り戻す事は無い、そう考えていた人生を取り戻せたのかも知れない、そんな思いに心が震えていた。
とにかくその時は、雅人の気持ちが嬉しかった。 そして、ただ幸せだった。
結局、その日は、私の過去については、告白する事は出来なかった。
それでも私は幸せになれるのかも知れない、その可能性を信じた日だった。