やっぱり好き
だから、その日、花火大会で、あの四人みんなで会場に向かい、予定通りに、すぐにそれぞれ二人ずつに別れたあと、彼が言ってくるだろう事は予想していた。 そして、その場合の私の答えも分かっていた。
期待と不安と、そしてほんの少しの恐れとを抱えた私の答えは一つだった。
木曽川の堤防から少し降りた処で、彼に言われた。
「俺、おまえが女性として好きだ。 付き合って欲しい」
思わず微笑んでしまった。やっぱり中学生の頃の関係を引きずっちゃうんだな、わざわざ、女性として、なんて言わなくても、お互いの表情を見れば、丸分かりなのに。
「嬉しい…。 ありがとう…。 でも、一つだけ約束して」
「え? 何を?」
「好きじゃなくなったら、ちゃんとそう言って」
「気持ちを誤魔化したりしないでね? 他の人と付き合う前にちゃんと私を振ってね?」
「え…? なんでそんな事…?」
彼の疑問は当然だろう、告白の瞬間に、別れはきちんと、なんて言われるなんて…。
「いつでも、お互いに対してだけは、この関係に関してだけは真っ直ぐで居たいの。 そうじゃないと、私は… 私は、怖いの…。 だから…、 お願い」
彼はちょっと当惑気味の表情で、私を見つめていたけれど、ふと天を仰ぎ、次に私に視線を向けたときは、不敵な笑みを浮かべていた。 あぁ、そうだ、この顔だ。 何かを決意した時の仕草、表情って、案外変わらないんだな…。そんな事を思った。
「分かったよ。 そんな事は考えたくないけど、もし、そんな時が来たら、約束するよ。 その代わり、おまえも同じ事を約束してくれ」
その返答は私の期待以上だった。向こうからしてみれば、私の気持ちに不安を覚える事はあるんだろう、ならば、私の返答も決まっていた。
「えぇ、約束するわ。 そんな事は嫌だけど、ね?」
そう言って私は、自分から彼の唇に自分の唇を合わせた。 自分からそんな大胆な事をするなんて、信じられない気もしたけれど、でも、自分が何か一つ成長できた様な気もしていた。そして、その成長を助けてくれたのが彼なんだ。そう感じていた。
そして、これからはずっと彼と一緒にいよう。 彼となら、信じあえる。お互いへの想いがなくなったとしても、彼の人柄の良さは信じられる。
だから、私は何も恐れる事はない、と。
それでも、私には、まだ様々なハードルがあった。
あの悪夢が私に残した影響は、そんなに簡単になくなってしまうものなんかじゃなかった。それでも、一番基本的な問題は一つ克服できた。他人を、男性を信じる。その気持ちを取り戻せた事はとても大きかった。
後は、焦らずに、ゆっくりと関係を育てて行きたい。そう考えていた。
彼なら、私を包んでくれる。私がまだ抱える問題を、きっと共有して、一緒に取り除いてくれる。そんな根拠なんて無かったけど…。
でも、とにかく彼なら信じることが出来る。
それが一番だった。だから真っ直ぐにぶつかれば大丈夫。そう感じることが出来た。
その日から、私と、彼、柴田雅人は恋人同士として付き合う事になった。
なんか、そんな風に言葉でそう言うと、とても堅苦しいし、私たちの告白はムードがある物とは言えなかったかもしれない。けど、実際のところ、その後、私たちは、自分で言うのも恥ずかしいけれど、かなりラブラブのバカップルに成り果てていた。
朝は、また私が少し早めの電車に変えて、駅で待ち合わせをする様になった。電車に乗ってしまうと、私が降りる名古屋駅までは十五分足らずなので、あっと言う間ではあったけれど、同じ電車に乗って、周囲に気が付かれない程度に手を握り合って、一日の始まりの時間を雅人と共有出来るのは嬉しかった。
雅人は私が降りる名古屋駅からもう少し乗って、そこから二度ほど乗り換えて、名古屋港のすぐ脇にある会社に通っている、という事だった。
彼は四年制の大学だけでなく、修士課程も修了した、ある意味高学歴の持ち主で、中学生の時には、私と一緒に木に登っていた悪ガキが出世したものね? などと思った。
まぁ、それはともかく、要は、彼はまだ就職二年目、駆け出しのぺーぺーで、実際の仕事を覚え始めたばかり、これからやっと本格的な戦力として働き始める。そんな状態だった。
つまり、彼の帰宅時間っていうのは、とても遅かった。
平日、帰りの時間を彼に合わせようと思うと、名古屋駅での待ちあわせは、早くても八時過ぎ、遅くなる時は十一時過ぎっていう事もざらだった。
私は、これまで仕事では出来る限りの事を精一杯やっていたつもりだったけど、やはり、気持ち、と言うものが無かった私は、どこかおざなりに仕事をしている、そんな状態だった。
つまり、私が担当した仕事に関して、言われた事、指示された内容は、その通りにこなすけど、自分の考えを持とうとは思わなかったし、言われた以上の工夫はしなかった。
だから、帰宅時間っていうのはほぼ決まっていて、大体は定時の五時に退社したし、ときに残業するとしてもせいぜい七時までで、九時、まして十時、十一時なんてあり得なかった。
けど、雅人と付き合うようになり、気持ち、と言うものを取り戻してからは、不思議な事に仕事に対する態度も変わって行った。 言われた事だけをやっても満足できなくなった。ちょっと目に付いた事にもこだわる事を覚えた。 同僚と意見を交わすこと、自分の意見を考えて、主張する、そんな事が増えていった。
周囲が私を見る目も少し変わった様だった。はっきりと気が付いたのは、ある日「月嶋さん、最近熱いね」なんて、同僚がにっこり笑いながら言ったときだった。 その言葉に、私は笑顔で応えることが出来た「ありがとうございます」と。
そう、その笑顔は作られた笑顔ではなかった。自然に感じた気持ちが現れたものだった。
彼との恋愛が、私の仕事への態度を改めさせる。そんな事までは考えた事もなかったけど、それでも、やはり、気持ちに張りがあった。恋するような心を、気持ちを取り戻したことが、私の生活のあらゆる部分に変化を生じさせている様だった。
そうして、私は仕事にもやりがい、と言うものを感じ始めていた。 なので、とにかく、その時、私は様々な事が順調で、大げさな言い方をするならば、正に人生を取り戻した。そんな風にすら思えた。 まぁ、恋人とラブラブで脳みそがピンク色に染まって、何が起きても「幸せ~」と半目で呟く、そこまでの恋愛中毒ではないつもりだけど、それでも、雅人との恋が、色々な面でプラスに働いている、その実感はあった。
なので、最初に雅人の帰宅時間を聞いたときは信じられない。そう思ったけど、いつの間にか、雅人ほどじゃないにしても、私の帰宅時間も遅くなる傾向になり、雅人の帰りの電車に合わせる、なんて事すら結構出来るようになった。
まぁ、二人の帰宅時間が遅くなる事で時間が合う、っていうのはちょっと情けない感じもあったけれど、一緒に帰れる、その喜びの前には、そんな些細な事はどうでも良かった。
それに、たとえ一緒に帰れない日でも、いつも携帯メールでやり取りしていたので、今、彼が何をしているのか、私が何を考えているのか、それはお互いにとてもよく分かり合っていたと思う。就業中にそんな私用メールのやり取りをするのは、規則の上ではイケナイことには違いないとは思う。もちろん、本当に就業中にメールが来る事は、ほとんどなくて、大体は昼休み、そして三時過ぎの休憩時間だった。
私たちは、そうやって、お互いの状況を伝え合うメールを交換していた。そして、そのやり取りで、私たちの仕事の効率は明らかにアップしていたと思う。だからなのか、上司も、同僚も、私が時として携帯を覗き込んでいる状況を責めるような事は一度も言わなかった。
そういう点でも、私の職場っていうのは、規則ばかりではない、実際的で理解のある人たちによって支えられてたんだな。なんて、別の面でも改めて感心したりしていた。
そんな風に、私は雅人と恋人として付き合う関係をとても喜んでいたし、彼の事をどんどん好きになっていく自分を感じていた。
けれども、そうなればなるほど、私の中で膨れ上がる恐れがあった。
もう、恋人になってから約二週間、そろそろ八月も終わり、カレンダーの上では秋がやってくる、という時間。 雅人とは既に何度かキスはしてるし、手を触れ合わせるのはほぼ毎日、なんだけど…。 けど、私は、まだ彼から求められたことがなかった。
この歳の恋人同士っていうのはどうなんだろう? 告白したその日に、っていうのは急すぎるかもしれないけど、二週間経って、毎日のように顔を合わせているのに、でも、何も言ってこない、えぇと、その、彼が私を求めてこない事には、何か理由があるんだろうか?
まぁ、私の方には確かに理由があって、彼が求めてこない事に密かに安堵のため息をついたりしている、っていう部分はあるんだけれど…。 それでも、この歳の恋人同士って言うのが、それだけって言うのは普通じゃない、って事は分かるつもりだった。
どうしてだろう? まさか、私は彼にとって、そういう魅力はないのだろうか?
ともすると、そんな何とも言えない不安が頭をよぎる事があった。