絶望の恐怖
けど、そんな私の気持ちに、もう一人の私が強制的にブレーキをかけた。
怖かった。 男の人の事を知りたい、そう思う事の、その向こうに待っている事が。その向こうに踏み出して、以前、私は徹底的に打ちのめされた。
まさしく、身も心も引き裂かれた。
あんなに痛い思いをしなければいけないなら、もう気持ちなんかいらない。そう決心したのではなかったのか? また、傷つくような事があったら、私はどうするだろう? 両親には二度と自殺はしない。そう約束させられた。 けど、その約束だって、破ってしまえば言い訳する必要はなくなる。 もし、もう一度打ちのめされたりしたら…、その時、私には約束を守る自信はなかった。
だから、この四年間、こうして希望を、気持ちを持たないようにして過ごしてきたのではなかったか? それをまた、踏み出すのだろうか?
でも、知りたい…。
希望さえ持たなければ大丈夫じゃないか? 高望みさえしなければ、今の自分の周囲にある事だけで満足して、それ以上を望まない事。そうすれば大丈夫。お母さん、お父さん。二人と一緒にそっと暮らしていく事だけを望むなら大丈夫。
私はそれで十分に生きていける。 それ以上は望まない。
望むと、手に入らなかった時に悲しいから。
手に入ったと思った後に失うのはつらいから。
そして、信じたものに裏切られるのは死ぬほど痛いから…。
だから、両親だけを信じて、それ以外を望まないようにしてきた。そうすれば、これ以上傷つかずにすむから。
確かに、中学生時代、彼、柴田くんと仲が良かった。 けど、それは恥ずかしながら、悪戯仲間と言った感じだった。少なくとも当時、柴田くんを異性として、恋愛対象として意識した事はなかった。それは向こうも同じだったと思う。まぁ、そもそも、恋愛なんかに興味がなかったのかもしれない。それは中学生の女の子としてはちょっと変わった所だったと思う。
そう、当時は自分の興味の対象の事、自分の事に手一杯で、恋愛という事に関してほとんど関心が無かったと思う。 誰かに恋してた、そんな記憶はなかったから。
けど、とすると、知るだけですむだろうか? 少し知ったらもっと、もっと知ったらもっともっと。きりが無いはず、そういう状態の記憶はある。初めからそんなつもりじゃなくても、いつの間にかその状態になってしまう。 いつそうなるか判らない。
ならば危険には近付くべきではない
そう考え、私は気がつかなかった事にしようと決めた。
翌日から、朝の電車も元の時間に戻した。時折、駅前の信号で、柴田くんの自転車が大急ぎでバスの脇を走っていくのを見つけてしまっても、その姿を追うのは止めた。
知りたくない、知る必要はない、私は知らなくても大丈夫。 知ってはいけない…。
そう呟きながら…。
何を知りたくないのだろう?
彼の事を知りたくない? 知ってしまった後の私の心の動きが怖い?
彼の言葉が怖い? 彼の言葉で、私の気持ちが揺れ動くのが怖い?
彼が私の事を知ったらどう思うだろう? 中学生のころは、単なる悪戯仲間だった。その頃と同じ事を思うだけだろうか? それだけなら、私が感じる事もそれだけなら、きっと大丈夫。何も新しいことが起きなければ、新しい望みを感じなければ、それならば、失う事もない。
けど、私は既に感じている。 これ以上、彼の事を知ってしまうと、新しい望みが生まれてしまうことを…。その望みを知りたくない。
そして、その望みが叶わなかった時の落胆を、もし叶ったと感じた後に失ったら、そしてもし、信じた後で裏切られたら…。そんな様々な事を、そのたくさんの可能性のうち、私が夢見てしまうだろうものは、叶う可能性なんてあまりない、ごく、ごく僅かなものに違いない。
だから、望みを知ってしまうと、後で傷つく事になる。
望みを持ちたくない、知りたくない。 知らなければ大丈夫…。
やはり、元の場所に戻ろう。望みを持つことの恐ろしさは、もう十分に味わった。
もう要らない。 これ以上何も欲しくない。 このままでいよう…。
もしも、神様がいるなら、私の言う事に耳を貸してくれるなら。
私を傷つけないで下さい。
お願いします。 もう何も望みません。だから、もう打ちのめさないで下さい。
それだけが私の望みですから…。
そうして結局、私は元の位置に還り、元の仮面を被ることにした。
けど、実は既に以前とは違っていた。
逆になってしまっていた。以前は気持ちを持たない私が、普通の気持ちがあるかの様な仮面を被っていたのだけど。 今度は、気持ちを持ってしまった私が、気持ちを持たない仮面を被ることになっていた。
そうやって、無感動を装った私は、無感動な日常をすごし始めた。
けど、傷つきたくなくて、一生懸命に自分を守ろうと、想いを封印しようとしているのに、そんな想いに、思い出につながるイベントが始まった。
そう。私たちの町の七夕祭りが、今年もまた始まった。まぁ、彼との思い出は、どれを取ってもロマンチックとは程遠いけれど、それでも、七夕祭りを見ると、その飾り付けや、夜店の列を見ると、つい彼を思い出してしまう。
近隣の小学校や中学校が作った飾りが、アーケードに飾られていた。つい、出身の中学校の飾りを探してしまう。 そして、見つけてしまうと、やはり彼の事を思い出してしまった。
飾りのあちこちに、その当時の私たちのやりたい事を書きまくって怒られた事。 その時の夢を叶えるんだ、自分達で頑張るけど、神様にも手伝ってもらおう、そんな事を言って、神社にお参りにも行った。そして、屋台を巡って、射的をしたり、輪投げをしたり、カステラをほおばり、お好み焼きをぱくついて、二人で笑いながら走り回った。
まぁ、別に二人きりで巡った訳じゃないはずだけど、いつの間にか他の皆とははぐれてしまい、気がつくと私と彼の二人で走り回っていた。
あの頃はまっすぐだった、いえ、どっちかと言うと、怖いもの知らず、という方が正しい表現かもしれない。けど、とにかく、私たちは曇りのない楽しい世界を生きていた。
もう、あの頃の様な喜びは、高揚は感じる事はないのだろうか…。
一抹の寂しさが、私の心をよぎった。
けれど、慌てて気を取り直した。
だめだめ、そんな喜びや、高揚を感じようだなんて、そんな事を望むと、失った時につらい思いをする。そんなつらさには耐えられない。一抹の寂しさ、そんな曖昧なものなら、耐えることが出来る。
だから、何も望まない、これ以上傷つかない為に、もう何も感じないようにするんだ。
心の片隅に痛みを感じながら、それが大人になる為の試練だ、そう自分に言い聞かせた。
けれども、偶然を装った次のきっかけは既に動き出していた。