希望の感触
約二週間の朝の観察で、私は彼の朝の行動パターンを大体把握したつもりになった。
そして、もう少し彼の行動を見たくなった。
だから、私は朝の電車を少し早くすることにした。
「あら、今日は早いのね?」
朝、いつもより早い時間に出ようとする私に、お母さんが不思議そうに声をかけてきた。
「うん。 ちょっと早めに行く事にしたの」
「何かあるのかい?」
「ううん、別に何もないけど…。 ちょっと早めに行こうかな?って…」
「そうかい? ま、気を付けてね?」
「はい、じゃ、いってきます」
何故か、お母さんの視線には、探るような雰囲気があった。 これまで、私が何かを変更するのには明確な理由があった。それが、その時のように、あいまいな理由での変更、そこに違和感を感じたのかも知れなかった。 私自身がまだ自分の変化に気が付かない状態だったけど、それでも、既に目に見える様な変化が起き始めていたのかも知れない。
とにかく、私は朝の通勤電車を少し早くした。 彼と同じ電車に乗るために…。
そう。後になって、その事を言葉にしたとき、あまりの分かり易さに苦笑してしまったけど、それって、誰かを好きになった人間の典型的な行動じゃないだろうか…。
とにかく、そうして、私は彼と同じ電車に乗る様になった。
時間に余裕のあるバスで駅に到着し、彼の定位置のとなりのドアの列に並ぶ。 暫くすると、彼が階段を駆け上がって来て、となりの列に並ぶ。
電車に乗ると、彼は扉の脇に陣取り、器用に身体を固定すると目を閉じる。そして、どうやら、いびきこそ掻かないけど、立ったまま寝ているようだった。 まさか?とも思ったけれど、でも、ある日、ほんの少しだったけど、彼の口から涎が垂れるのを見て、思わずふき出してしまいながら、本当に寝てるんだ…。と判った。
それは、自然に浮かんだ笑顔だった。必要に迫られて、笑顔に見える表情を作る。そんな事とは根本的に違う。心の底から自然に湧き上がった笑顔だった。そう。おそらく、私がそんな笑顔を浮かべるのは実に何年ぶりかの事だった。
そして、その瞬間でも、まだ私自身は気がつく余裕がなかったけど、その笑顔は、私の中に気持ち、というものが再生され始めている確かな兆しだった。
その時に見た彼の寝顔は、少し幼く感じた。そして、その感じには何かとても懐かしい感じがした。 やっぱり私は彼を知っている。その思いが強くなっていた。
そうして、私は彼を知っている、いつの時間か、私のこれまでの時間の中で彼と時間を共有していたことがあったはず。 その事を考え始めた。
きっと、就職以前の事だろう。そして、おそらくは短大進学よりも前じゃないか? そして漠然とではあったけど、高校以前の事だろう、そう感じていた。
そんな時、ふと思い出した。彼がバスを使う時、私が乗るバス停からとても近いところから乗ってくる事を。 という事は、彼が住んでいる場所は、私の家からそんなに遠くない、という事だろう。下宿かもしれないけど、彼の家かも知れない、もし、彼の家だとすると、小学校か中学校が同じなのかも知れない。
何となく感じた高校以前に知っていたはず、との感覚とも合う。やっぱり、私は彼を知っている。その考えは、もはや確信になっていた。
けど、それでも、それが誰なのか?それを思い出せない。 しばらくの間は、そんなもどかしい日々を過ごした。
けど、突然、思い出した。
もしかして、彼は柴田くんじゃないか? 柴田くんとは、中学生の時の友達だ。
あの頃、私と柴田くんは本当に仲が良かった。けど、それは恋人の様な関係とは全く違って、ある意味ただの友達で、男女として、というより同性同士の、それでも、互いに信じあう事が出来る、ちょっと悪戯好きの仲間、という感じだった。
その事に気がついたその日、私はその事が確かめたくて、会社に居る間、集中力に欠き、いつもなら決してやらない様なミスを何回もやってしまった。 周囲の人にとっては、そんな風にミスが多い私には何だか違和感があったのだろう。 そして、その理由として具合が悪いんじゃないか?と考えた様だった。
なので「疲れてるんじゃないか? 早く帰って、調子を崩す前に休みなさい」と言われて、少し仕事をやり残したまま、家に帰る事になった。
けどそれは、私としては願っても無い事だった。 気が付いた事を確かめたくて、一日中そわそわしていたのだから…。
なので、少し後ろめたい思いに後ろ髪を引かれながらも、早めに退社した私は、家まで飛ぶ様に帰った。バス停から家までは走ったりもした。梅雨がやっと終わったとは言え、時折雨がぱらつき、湿気が多く、さらに夏も本番に近くなり、汗がだらだらと垂れてきたけれど、そんな事はまるで気にしてなかった。
「ただいま」
そう言い終わると、いつもなら一旦リビングに寄るのに、玄関から真っ直ぐに自分の部屋に飛び込んだ。 そしてバックをその辺に放り出して、本棚に視線を走らせた。
本の背表紙を指で追いながら、中学の卒業アルバムを探した。
おかしい、無い。確か、自分の本棚に、その一番下の段にいれてあったはずなのに…。
「突然どうしたんだい?」
私のそんな行動に、お母さんが怪訝そうにドアのところから覗いていた。
「ねぇ。 中学の卒業アルバムって知らない? 確か、ここにあったはずなんだけど…」
お母さんの言ったことにはまるで答えず、そして振り向きもせずに、その時、私の頭の中にあった唯一の事について訊き返した。
「え? おまえの卒業アルバム? あぁ、それなら、今、ちょっと借りてるけど…」
そんな私に、お母さんはちょっと戸惑っている様だった。
「ホント? 見たいんだけど…」
「今、リビングで見てたところよ。 それにしても、あなた汗だくじゃない」
「ちょっとシャワーでも浴びたら? リビングで待ってるわ」
確かに汗が噴き出していて、手でぬぐいながらだった。けど、シャワーを浴びるより、まずはアルバムを確認したかった。三年生の時、柴田くんは確かとなりの三組だったはず。
お母さんの後を追う様にリビングに行き、テーブルの上にアルバムを見つけると、飛びつくようにしてページをめくった。
「どうしたんだい? 突然…。 まぁ、とにかく冷たいお茶でも飲んで、落ち着きなさい」
ふと目を上げると、お母さんが、水出しのお茶が入ったグラスを私の目の前に置いてくれたところだった。
けど、そのお茶には手を伸ばさず、とにかく、私はアルバムを懸命にめくっていた。
クラスの集合写真は確か後ろの方…。三組のページを開き、みんなの写真を指でなぞっていく。 この人じゃない、この人も違う。 あまり背が高くなかったから、二段目あたりに写っているんじゃないか、そんな事を考えながら確認していった。
一人の男子の写真の上で、ピタリ、と指が止まった。 この人だ。朝の通勤で毎日のように見かける彼の顔と、アルバムの写真、そして、中学生当時の記憶が重なって行き、今、それらがぴたりとはまった。 ゆっくりと、その男子の名前を確認した。
「やっぱり柴田くんだ」
そう言い、お母さんが出してくれたお茶を一気に飲み干した。 しばらく放置されたグラスには水滴がたくさん付いていたけれど、そのお茶は冷たくて、とてもおいしかった。
そんな私を、お母さんは優しく微笑んで見つめていたけれど、今日の私がこれまでとは何かが違う。それを感じていたのかも知れない。
多分そうなんだろう。
おそらく、彼に興味を覚えた日から、普通の人の仮面を被った抜け殻だった私は、普通の人としての気持ちを、心を再生しつつあったのだろう。今、その事に気が付き始めた。
そして、改めて気がついた。
こんなにも何かを知りたいと思ったのは久しぶりだった事。
そして、もっと知りたい、そう思った。