出会い
そして、とにかく、今、私が何とか就職してから大体四年が過ぎていた。
もう、さすがに、ただ生活するだけなら、少なくとも表面的には普通にする事が出来るようになっていた。
普通に会社に通い、問題なく仕事をこなし、職場での人間関係だって、多分、比較的普通に作り上げていた。そして、家でもごく普通の親子関係と言えるだろうと考えていた。
最近は、そんな日々を過ごすことは既に慣れていた。満足はないけど、不満もない。特にどうという事の無い毎日を、その日々のルーチンワークの中で、時間が過ぎ去っていくのを漫然とやり過ごしていた。
どうしてって、それが一番楽だったから。
何も感じない、何も目に留めない。
気持ちなんて、希望なんて、そんなものは要らないから…。 ただ、私が生きるのを止めるのを許される、その瞬間までの時間を平穏無事に過ごしたい。
それだけだった。
だから、私は表面的には落ち着いていた。常に冷静で、落ち着いて物事を判断する、常に理性的で、感情で物事を処理しない。その理由を、周囲の人たちは、私は感情を抑えるすべが上手い為だと考えている様だったけど、実際は違っていた。
私には感情と呼べる気持ちが存在しないのだから…。だから、感情的になる事は不可能で、どんな時でも理性で考えながら対処するしかやり様がなかった。
そう。つまり、普通の人間、という仮面の被り方が上手くなっていた。
だからと言って、私が気持ちや希望を取り戻した訳じゃなかったけれど…。
なので、私は周囲の人のことは、自分の担当している仕事に直接関係しない人に関しては全く視野に入っていなかったし、ましてや、通勤での人込みなどは、自分と関係する訳も無い人たちなのだから、全く無関心で、気にしていなかった。
いえ、そのつもりだったけど…。 ある日、ふと目に留まってしまった人がいた。
けど、最初に目に留まった理由は、その人の行動で、しかも、私が避けることが出来ない状況で、私の目の前で展開された事だったからだと思う。
何でもない事のはずだったけど、何かが引っ掛かった。その人をどこかで見たことがある様な気もした。だから気になったのかも知れない。
そして、それは男性だった。
その日、私がいつも通りに改札を通り、ホームへの階段を昇っていた時だった。
私の少し前で、一人の男性がふらついた。 その時、私が考えていた事は、その男性をどうやってよけていけば一番無駄が無くホームまで上がれるだろうか、って事だった。
その時、もう一人の男性がのすごい勢いで階段を駆け上がって来た。
そして、その男性がふらついたのは、駆け上がっている最中の彼が、前を行く男性のすぐそばを、正にすり抜けようとしていた所だったので、彼には避ける余裕はなかった様だ。
彼は、ふらついた男性をよけ切れず、ぶつかられた。勢いの差もあり、結果として、ふらついた男性は転んでしまった。
そして、その二人に行き先を塞がれる格好になった私は、立ち止まって二人を見ていた。
ぶつかってしまった原因は、明らかにふらついた男性の方にあると思えたけど、避け切れなかった事に責任を感じたのか、彼は丁寧に謝罪し、その男性が起き上がり、憮然と歩き出すのを確認していた。そして、その男性が何事も無く階段を上がっていく事を確認した後、彼もまた、何事もなかったかの様に再び、階段を駆け上がっていった。
慌しい人だな、電車の時間がぎりぎりなのかな? そう考えた。
私がホームに上がってみると、電車は正に発車していくところだった。 彼は、というと、結局間に合わなかった様で、ホームの上で頭を掻きながら「あーあ」などと言っていた。
大して悔しそうじゃないので、余裕があるんだなあ、でも、じゃぁ、どうしてあんな勢いで走ってたのだろう? そんな事を考えながらも、基本的には他人事だったので、私は自分の定位置に向かって歩いていった。
途中、ちらりと彼の方を見た時、彼がいっそ晴れ晴れとした表情で「今日は遅刻だな」そうつぶやいているのが分かった。
そんな彼の言葉が意外で、改めて彼を見てしまった。
改めて見たその顔は、何故か懐かしい感じがした。確かに、同年代と思われる風貌で、いつか見た事がある様で、微かに、遠い記憶が刺激される様な気がした。
彼は、決して自分に非がある訳じゃないのに、相手を気遣い、なのに、詫びられる訳でも、礼を言われる訳でもなく、ただ憮然と無視されてしまった。 そんな、ちょっと失礼な誰かのせいで遅刻する破目になったのだろうに。 それを、文句一つ言わずに、あっけらかんと受け入れている様だった。
なんだか、朝の通勤の、憂鬱で私でさえ気が滅入る様な時間の中で、彼の存在に心が癒される様な気がした。
そんな風に、彼が昨今としては、かなり人の良い人間に思えた事、そんな彼の顔に何だか見覚えがある気がする事、そんな事が重なったせいか、彼を観察する事は、私にとって、通勤の中での新たな日課となった。
とにかく、その日、初めて彼と同じ電車に乗った。私が電車を降りるときになっても、彼はまだ降りる気配はなく、彼がどこまで行くのか、は判らなかった。
時間的にも、見た目的にも、明らかに通勤だと思った。彼はどこに勤めてるのだろう?何をしている人なんだろう?ふと、そんな疑問を感じた。 そして、知りたいと思った。
後から思い返してみれば、そんな風に他人のことを知りたいと思うなんて、その時、既に私の中で止まっていたはずの気持ちが動き出していたのかも知れなかった。 けど、その時はそんな事に思い至らなかった。あまりに自然に感じた疑問だったので、その疑問が、他人に対する興味を取り戻しつつある記しだなんて、思いつきはしなかった。
そう。それまで私が彼に気が付かなかった事は、別に何の不思議も無かった。周囲に対する興味、というのは無いに等しいのだから…。気が付いたのは本当に偶然からだった。
けど、そうして気が付いてみると、それは自然に私の生活の一部になっていった。そして、後から改めて考えてみれば、その時に気が付いた、という事は奇跡だと思えた。
兎にも角にも、私は彼の行動を気に留めるようになった。
そうして彼の事を観察するようになって判ったいくつかの事は、まずは、彼は、普段は私より何本か早い電車で通勤しているんだって事だった。
そして、駅までは自転車で来ている様だった。
私が乗ったバスが、駅前のバス停へと最後の信号待ちをしている所で、その脇を自転車置き場に向かって自転車で走っていく。そんな光景によく出会った。
とにかく、気が付いてみると、私が彼を見かけるチャンスは毎日のように訪れた。
そうしてみると、朝の通勤は私にとって、ちょっとした好奇心を満たす時間になった。
普段は駅まで自転車の彼も、雨の日などはバスを使うようだった。 そして、なんと、彼が使うバスの路線は私が乗っている路線だった。 私が使っているバス停から二つほど駅に近いバス停から彼が乗り込んできた時、最初はひどく驚いた。
彼の存在に気が付いたのが梅雨時だった事もあってか、かなり頻繁に彼はバスを使った。
考えてみれば、彼が同じバスに乗ってきたのは、きっと初めてじゃないんだろうけど、でも、それまでは、私は周囲に誰がいるかなど気にしていなかったのだから当たり前だった。
何にしても、私が彼を気にする様になってからは、その時が初めてだった。
そしてとにかく、心の準備がないときに、気になる存在がいきなり目の前に現れる、というのは驚いてしまう事で、しかも、普段はこちらからその存在を探してしまう相手であり……
つまりその時、私は、心臓がどくん、と不思議な感じで跳びはねた様に感じた。
それでも、その時の私は、その彼に興味を持ったことを自分自身で不思議に感じながらも、彼をどう思う、とか彼と話してみたい、と言った事は考えてはおらず、単に彼の行動を見てみたい、それだけだった。
いえ、それだけだと勘違いしていた。
その時の私自身はまだ気がついてはいなかったけど、それは、私の中に、心と呼べるものがまだ存在している事、再生され始めている事。 その可能性を示す兆候だった。