第五話:城壁の外へ
午後五時十五分。
定時の終業を告げるチャイムが葉山市役所の庁舎内にぼんやりと響き渡る。晴斗は正面玄関のガラスの向こうでその音を聞いていた。職員たちが一日の仕事から解放された顔であるいは明日への憂鬱を滲ませた顔で次々と自動ドアを抜けてくる。
彼らとすれ違うたび奇異なものを見るような視線が突き刺さった。もう噂は市民課だけでなく庁舎全体に広まっているのかもしれない。「あの非正規が選挙に出るらしい」。その視線には嘲笑とほんの少しの憐れみが混じっているように感じられた。
誰も晴斗には話しかけない。晴斗も誰にも話しかけない。
つい数時間前まで自分もあの人の流れの中にいたはずなのに。今はもう透明な、しかし決して越えられない壁で隔てられているようだった。
最後に自分のIDカードを通用口の警備員に返却する。警備員は事務的な手続きを終えると何の感情もこもっていない声で言った。
「お疲れ様でした」
その言葉が晴斗がこの場所で受け取った最後の言葉になった。
自動ドアが静かに開く。
一歩外へ足を踏み出した。アスファルトに夕日が反射し目がくらむ。振り返ると灰色の巨大な建物――葉山市役所がまるで意思を持った生き物のように自分を見下ろしているように見えた。
あれは市民を守るための「砦」ではなかった。
変化を拒み現状を維持し続けるための巨大な「城壁」だ。
そして自分は今その城壁の外へと放り出されたのだ。
「公務員」という肩書を失った瞬間、世界は今までとは全く違う顔を見せ始めた。
身分を証明するものはポケットの中の運転免許証だけ。明日からの収入のあては何もない。あるのはなけなしの貯金と無謀としか言いようのない決意だけ。
ふらふらと駅の方へ歩き出す。
携帯が震えた。画面には「結衣」の文字。
「もしもし晴斗? 今大丈夫?」
「ああ大丈夫だ。どうした?」
「どうしたじゃないよ! 市役所辞めたって本当!?」
結衣の声は驚きと不安で上ずっていた。噂はもう彼女の耳にも届いているらしい。
「ああ辞めた。今日で」
「なんで!? 私の店のせいで……?」
「違う。いや……違わないか。お前の店の件がきっかけになったのは確かだ。でも決めたのは俺自身だ」
晴斗は言葉を選びながら自分の決意を伝えた。市議会議員選挙に出る、と。
電話の向こうで結衣が息を呑む音が聞こえた。
「……本気なの?」
「本気だ」
「でもそんなの無理だよ! お金とかどうするのさ!」
「どうにかなる」
何の根拠もない言葉だった。だがそう言うしかなかった。
「……わかった。とりあえずうちの店に来なよ。話聞くから」
結衣は呆れながらも最後にはそう言ってくれた。その声にほんの少しだけ救われた気がした。
夕暮れの街は家路を急ぐ人々でざわめいていた。
学生たちの笑い声、スーパーの袋を提げた主婦、疲れ切った顔のサラリーマン。彼らの日常の中に自分の居場所がないように感じられた。誰もが社会という名の大きな船に乗っているのに自分だけが小さなイカダで荒れ狂う海に漕ぎ出したような途方もない孤独感。
これが城壁の外の世界か。
守られた場所から一歩踏み出すということがこれほどの不安と恐怖を伴うものだとは想像もしていなかった。
商店街のアーケードが見えてくる。
その入り口の掲示板に見慣れた顔写真のポスターが貼られているのが目に入った。
満面の笑みを浮かべた初老の男。
現職の市議会議員、市川幸太郎。再開発計画を強力に推進している最大会派の重鎮だ。ポスターには力強い筆文字でこう書かれている。
『実行力! 葉山の未来を切り拓く!』
その笑顔がまるで自分をあざ笑っているかのように見えた。
そうだ。これから自分が戦う相手はこの圧倒的な「現実」そのものなのだ。
晴斗はポスターを睨みつけた。
恐怖で足がすくむ。今からでも市役所に戻って田畑課長に頭を下げれば退職願を撤回してもらえるかもしれない。そんな弱い心が頭をもたげる。
だが彼は奥歯を強く噛みしめた。
もう後戻りはしない。
この冷たくて広い荒野でたった一人だとしても戦い抜くと決めたのだ。
晴斗はポスターから視線を外し結衣の店へと向かって再び歩き出した。
彼の孤独なそしてあまりにも長い戦いが今静かに幕を開けた。
夕日が落ちきり街には最初の星が瞬き始めていた。




