第四話:最後の一日
インクの乾いた退職願を三つ折りにし封筒に収める。
晴斗はそれをジャケットの内ポケットにしまい込みいつもより少しだけ早くアパートを出た。空は澄み渡り昨日までの悩みや葛藤が嘘のように世界はくっきりと輪郭を結んでいる。足取りは不思議と軽かった。
葉山市役所市民課。
更衣室で備品係から支給された味気ないベストを羽織り自分の席に着く。パソコンの電源を入れるとデスクトップには葉山市のゆるキャラが能天気に微笑んでいた。この光景も今日で最後かと思うと皮肉な感傷が胸をよぎった。
「おはようございます」
同僚たちが出勤してくる。晴斗は一人ひとりの顔を見て挨拶を返した。彼らとは付かず離れずの関係だった。非正規という見えない壁は常に存在し飲み会に誘われることも稀だった。彼らにとって自分はいついなくなっても構わない代替可能な部品の一つに過ぎないのだろう。
始業前の朝礼。田畑課長が事務的な口調で連絡事項を伝達する。その中で一瞬だけ晴斗に視線を向けたがすぐに逸らした。昨日の議会傍聴の件は彼の中で「見なかったこと」にされているようだった。
午前八時半、業務開始。
窓口のシャッターが開き待っていた市民がぞろぞろとカウンターにやってくる。
「百八十一番のお客様、一番窓口へどうぞ」
マイク越しの自分の声が少しだけ震えた。
目の前に座ったのは若い母親だった。赤ん坊を抱き疲労の色を隠せないでいる。児童手当の申請書類に不備があった。
「申し訳ございません。こちらの所得証明書なんですが昨年度のものでして……」
いつもと同じ定型文。しかしその言葉の響きが昨日までとは全く違って聞こえた。以前は自分を守るための鎧だった言葉が今は目の前の人を傷つける刃のように感じられる。
「え……。でもこれしかもらえなくて……」
「申し訳ございません。規定で最新のものを添付していただく必要がございまして」
申し訳ないと心から思った。
この母親が幼い子を抱えてもう一度別の窓口に並び書類を取り直し再びここへ来なければならない。その手間と心労を思うと胸が痛んだ。だが自分にできることは何もない。システムの一部である限りそのルールに従うしかないのだ。
こんなことをあと何年、何十年と続けるのか?
――もうごめんだ。
晴斗はいつもより丁寧に、しかしきっぱりと手続きを終えた。
午前中の業務が終わり昼休憩に入る。同僚たちが食堂へと向かう中、晴斗は席を立ち課長室のドアをノックした。
「失礼します」
「……木島くんか。どうした」
田畑はデスクで弁当の蓋を開けながら迷惑そうな顔を隠そうともしなかった。
「課長。お話があります」
晴斗は内ポケットから白い封筒を取り出し田畑のデスクに静かに置いた。
田畑は一瞬それが何かわからないという顔をしたが封筒の「退職願」という文字に気づくと箸を持つ手を止め目を丸くした。
「……本気かねこれは」
「はい。一身上の都合により本日付けで退職させていただきたく」
「馬鹿なことを言うな。社会をなめているのか。非正規とはいえ雇用契約というものがある。急に辞められてはこちらが迷惑するんだ」
田畑の声には晴斗を心配する響きは一切なくただ業務に穴が空くことへの苛立ちだけが滲んでいた。
「ご迷惑をおかけすることは重々承知しております。ですがもう決めたことですので」
晴斗は深く頭を下げた。
田畑はチッと舌打ちをすると退職願を乱暴に掴んだ。
「……理由を聞かせてもらおうか」
「葉山市の市議会議員選挙に立候補しようと考えています」
その言葉を口にした瞬間、課長室の空気が凍りついた。
田畑は数秒間、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で晴斗を見つめやがてその表情が侮蔑と嘲笑へと変わっていくのを晴斗は真正面から受け止めた。
「は……ははっ、ははははは!」
田畑は腹を抱えて笑い出した。涙すら浮かべている。
「き、君が? 市議会議員に? 何の冗談だ。エイプリルフールにはまだ早いぞ」
「本気です」
「本気だと言うなら救いようのない馬鹿だな君は。コネも金もないただの臨時職員が議員になれるとでも思っているのか。選挙がどういうものか何もわかっていない」
わかっていない。その通りだ。何も知らない。
だが知っている。あの議場の空気を変えなければこの街は緩やかに死んでいくだけだということを。
「それでもやります」
晴斗の揺るぎない目に田畑の笑いがぴたりと止まった。彼は晴斗が本気なのだとようやく理解したようだった。
「……そうか。まあいいだろう。君のようなのが一人いなくなっても代わりはいくらでもいる。好きにするがいい」
田畑は退職願をデスクの引き出しに放り込むとまるで汚いものに触るかのように手を払った。
「ただし勘違いするなよ。市役所を辞めた以上、君はもう我々とは無関係のただの一般市民だ。我々が君に手を貸すようなことは絶対にない。むしろ……」
田畑はにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「――敵だからな」
その言葉は晴斗の胸に深く突き刺さった。
昨日まで自分もこの組織の一員だったはずなのに。
午後、晴斗が自分のデスクの私物を片付けていると噂はあっという間に広がっていた。同僚たちが遠巻きにひそひそと話しているのがわかる。「議員になるらしいぞ」「頭でもおかしくなったんじゃないか」。その視線は好奇と軽蔑が入り混じっていた。誰一人として声をかけてくる者はいなかった。
最後の挨拶を終え市民課のフロアを出る。
誰からも送別の言葉はない。まるで最初からそこに存在しなかったかのように世界はいつも通りに回っていた。
それが組織というものなのだろう。
晴斗は二年と少しの間自分の居場所だった場所を静かに後にした。
寂しさはなかった。
ただこれから始まる戦いの厳しさを改めて実感していた。




