第三話:傍聴席の景色
傍聴席は驚くほど静かだった。
晴斗を含め傍聴人はまばらに五人ほど。そのほとんどが時間を潰しに来ただけのような老人たちだ。彼らの視線は眼下に広がる議場ではなく手元の新聞や虚空に向けられている。
分厚い絨毯が足音を吸い込む議場は荘厳な半円形をしていた。高い天井から吊るされた照明が使い込まれて艶の出た木製の机や椅子を鈍く照らし出している。ここが葉山市の意思が決定される場所。テレビのニュースでしか見たことのない光景が現実のものとして目の前にあった。
晴斗は固唾を飲んで議場の様子を窺った。議員定数は二十八。そのうちの何人かは空席で出席している議員たちもその態度は様々だった。熱心に手元の資料に目を通す者、隣の議員とひそひそと私語を交わす者、そして――。
(……寝てる)
晴斗は我が目を疑った。
一番奥の席に座る白髪の老議員が船を漕いでいた。こくりこくりと小刻みに揺れる頭は誰の目にも明らかだ。しかしそれを咎める者は誰もいない。まるで議場に置かれたただの調度品のようにその居眠りは風景の一部として完全に溶け込んでいた。
衝撃だった。
結衣の店の未来が市民の生活がこの場所で決められている。その当事者たちがこの緊張感のなさ。市民課の窓口で怒号を浴びながら頭を下げる職員たちの姿が脳裏をよぎる。現場の疲弊などこの場所にいる人間には届いていないのだと痛いほど理解できた。
「――以上、都市計画部長からの答弁を終わります。これより質疑に入ります。五十嵐議員どうぞ」
議長の声が響き中年の男性議員が立ち上がった。晴斗は身を乗り出した。再開発に関する質問かもしれない。
「はい議長、五十嵐です。えー、市長におかれましては日々の市政運営まことにご苦労様でございます。さて質問に入ります前にまずは一言、先日の市制記念式典の盛会心よりお祝いを申し上げます。市長のリーダーシップの賜物と感服いたしました次第で……」
長い。
質問に入る前の「枕詞」が延々と続いた。市長を褒め部長を労い時候の挨拶まで交わす。ようやく本題に入ったかと思えばその内容は「再開発地域の街灯をLEDに変えるべきではないか」という計画の根幹とは何の関係もない些末なものだった。
それに対する市長の答弁もひどいものだった。
「……はい五十嵐議員の熱意あふれるご提言しかと受け止めました。街の景観と安全性の向上は市政の重要課題であると認識しております。つきましてはご提案の件、関係各所と連携し前向きに検討を進めて参りたいと考えております」
前向きに検討する。
役所言葉でそれは「何もしない」と同義語だ。晴斗が市民課で何百回と使ってきた言葉でもある。市長は完璧な笑顔でそう言い切ると満足げに席に座った。質問した五十嵐議員も特にそれ以上追及することなく「ご高配に感謝いたします」と頭を下げて質疑を終えた。
茶番だ。
予定調和の質疑応答。馴れ合いの言葉の応酬。そこには真剣勝負の緊張感などかけらもなかった。
これが『上』の正体か。
これが田畑課長が何も逆らえない絶対的な決定機関の姿なのか。
絶望がじわじわと胸の奥から這い上がってくる。ここにいる人たちは結衣の店の名前すら知らないだろう。商店街で働く人々の顔も人生も知らないまま、ただ「計画」という名の巨大な歯車を回しているだけだ。
晴斗はこれ以上そこにいることが耐えられなくなり音を立てないようにそっと傍聴席を立った。議場の馴れ合いはまだ続いている。しかし彼の耳にはもう何も入ってこなかった。
市役所には戻らず宛てもなく街を歩いた。
夕暮れが迫り葉山市の空が茜色に染まっていく。晴斗はいつの間にか「あさひ通り商店街」に足を向けていた。子供の頃、結衣と走り回ったアーケード通り。しかし今その半分近くの店のシャッターは錆びつき固く閉ざされている。「テナント募集」の張り紙は色褪せ破れていた。
議場で見た澱んだ空気。
目の前にある寂れた商店街の現実。
二つの景色が晴斗の中で一つにつながっていく。あの議場にいる人たちはこの景色が見えていないのではないか。いや見ようとしていないのだ。
結衣の店「食事処あいば」の看板に明かりが灯っていた。ガラス戸越しに中を覗うと結衣が一人カウンターの中で黙々と野菜を切っている姿が見えた。店に入るのをためらった。彼女の期待に満ちた顔を見るのが怖かった。
「……何か分かった?」
結局中に入ると結衣は包丁を置いてすぐに尋ねてきた。その目に宿るかすかな光を晴斗はまっすぐに見ることができない。
「……いや。まだ何も」
そう答えるのが精一杯だった。
「そっか……。まあそんな簡単じゃないよね」
結衣は無理に笑顔を作った。その笑顔が晴斗の胸をナイフのように抉った。無力な自分がひたすらに情けなかった。
その夜、晴斗は六畳一間のアパートの自室で天井の染みをぼんやりと眺めていた。
壁にかけた安物のジャケット。その胸ポケットからは市役所の臨時職員証が覗いている。月に一度振り込まれる十数万円の給料。決して裕福ではないが生きていくことはできる。この職員証を失えばそれすらも危うくなる。親にも勘当同然で家を飛び出してきた身だ。頼れる場所などどこにもない。
議員になる?
馬鹿なことを考えるな。自分で自分が嘲笑いたくなる。金もない、知名度もない、後ろ盾もない。そんな人間がどうやって選挙を戦うというのか。議場で見た議員たちは皆地元の名士や二世議員ばかりだったではないか。
何もせずこのまま市役所で働き続けるか?
そうすれば少なくとも路頭に迷うことはない。結衣には「ごめん、力になれなかった」と謝ろう。彼女はきっと文句も言わずに許してくれるだろう。そして数年後、商店街のあった場所には真新しいビルが建ち自分はそこのテナントに入るカフェで何事もなかったかのようにコーヒーを飲んでいるのかもしれない。
想像した瞬間、激しい吐き気に襲われた。
違う。そんな人生は絶対に嫌だ。
窓口で住民の悲鳴を聞き流すだけの自分。
友人の危機を見て見ぬふりをする自分。
そんな自分を自分が一番許せない。
眠れないまま夜が明けた。
窓の外が白み始めている。朝の光が埃っぽい部屋を照らし出し葉山市の街並みがゆっくりと輪郭を現してきた。
晴斗はその景色を瞬きもせずに見つめていた。
誰かがやらなければ何も変わらない。
笑われたっていい。無謀だと言われたっていい。
だけどこの街で結衣や窓口で会った人たちのように声にならない悲鳴を上げている人たちがいる。その声を聞かなかったことにして自分だけが安全な場所で生きていく。そんな生き方はもう終わりだ。
腹の底から何かがせり上がってくるような熱い感覚があった。
それは単なる怒りではなかった。深い絶望の先に見つけた一条の光。自分の人生を自分の意志で選択するのだという静かで、しかし揺るぎない覚悟だった。
晴斗はベッドから起き上がると迷わず部屋を飛び出した。向かったのは二十四時間営業のコンビニエンスストア。そこで一番シンプルな白い便箋と封筒を一つ買った。
部屋に戻り小さな折りたたみテーブルに向かう。
ボールペンのキャップを外し白い便箋に一文字一文字確かめるように力を込めて書き始めた。
――退職願。
それは安定との決別であり社会への反旗だった。
そして木島晴斗という一人の青年が初めて自分の意志で行った政治的表明でもあった。




