第一話:灰色の定型文
1.完全なフィクションです:
本作に登場する「葉山市」という架空の都市を舞台に、人物、団体(市役所、市議会、企業、後援会等)、政党、事件など、すべての要素は作者の創作によるものです。実在の地名、人物、団体、事件とは一切関係がございません。類似の名称があった場合も、全て偶然の一致です。
2.特定の思想・信条の推奨・批判ではありません:
物語のテーマとして政治活動や選挙運動が描かれますが、これはあくまで物語上の設定です。作者が特定の政治思想、イデオロギー、宗教、または実在の政党や政治家を支持、あるいは批判・貶める意図は一切ございません。
3.法律・制度の描写について:
作中では、公職選挙法や地方自治法などの法律、あるいは議会の慣例などが登場します。物語の進行上、一部を簡略化したり、創作上の設定を加えたりしている場合があります。本作の描写を、法的な解釈の根拠とすることはおやめください。
4.現実世界との切り離しのお願い:
本作の登場人物の言動や物語の展開を、現実世界の特定の政治家や事件に当てはめて解釈すること、またそれに基づき特定の個人や団体を誹謗中傷する行為は、作者の意図するところでは全くありません。固くお控えください。
5.エンターテインメントとして:
本作は、一人の青年が困難に立ち向かう成長物語として、また社会の仕組みをテーマにしたエンターテインメントとして執筆されています。架空の世界の物語として、そのドラマをお楽しみいただければ幸いです。
「申し訳ございません。そちらの申請はこちらの窓口では受け付けておりませんでして。三番窓口の戸籍係のほうへ」
木島晴斗は完璧な無表情のまま淀みなく言葉を紡いだ。プラスチック製の番号札を握りしめた老婦人が何か言いたげに乾いた唇を動かしたが晴斗はそれに気づかないふりをしてそっと視線を横にずらす。彼の視線の先には次の番号札を持つ市民が早くしろと言わんばかりの圧力で佇んでいる。
葉山市役所市民課。
蛍光灯がジーと低い唸りを上げコピー機が時折、紙を吐き出す乾いた音を立てる。空気には古い紙とインク、そして人いきれの混じった独特の匂いが満ちていた。ここで臨時職員として働き始めて二年が経つ。最初の頃に抱いていた「市民の役に立ちたい」という青臭い理想はこの灰色の空気の中でとっくに窒息していた。
今の自分は壁だ。それも感情を持たないただ規則という名の定型文を繰り返すだけの冷たい壁。
「だからなぜダメなんだと聞いているんだ!」
隣の窓口で怒声が上がった。またか、と晴斗は思う。住宅補助の申請が通らなかったのだろう。職員はマニュアル通りの言葉を壊れたテープレコーダーのように繰り返している。
「ですから規定によりまして……」
「規定、規定ってこっちは生活がかかってるんだぞ!」
その悲鳴は晴斗の耳を通り抜け後方の書類棚に吸い込まれて消えていく。聞こえないわけじゃない。だが心を動かせば自分がすり減るだけだと知ってしまった。臨時職員の自分に規定を覆す力など万に一つもない。できるのは市民の怒りと絶望をただ受け流すことだけ。
正午のチャイムが鳴り窓口のシャッターが半分だけ下ろされる。昼休憩だ。晴斗は硬直した肩を一度だけ回し職員食堂へ向かう人の流れから外れた。食欲などとうに失せている。屋上へ続く階段を重い足取りで上った。
金網の向こうには葉山市のくすんだ街並みが広がっている。人口二十五万。かつては城下町として栄えたが今は緩やかに寂れていくどこにでもある地方都市だ。
「……何やってんだろうな俺」
誰に言うでもなく呟きが漏れた。金網に額を押し付ける。金属の冷たさがわずかに意識を覚醒させた。
その時だった。
「晴斗!」
背後から澱んだ空気を切り裂くような快活な声がした。振り返るまでもない。この街で自分をそんなふうに呼ぶ人間は一人しかいない。
「結衣……。どうしてここに」
息を切らせて立っていたのは幼なじみの相葉結衣だった。彼女は駅前の「あさひ通り商店街」で祖母から受け継いだ小さな定食屋を切り盛りしている。Tシャツにエプロンという姿は市役所の雰囲気から明らかに浮いていた。
「どうしてって大変だから来たんじゃん! ちょっとこれ見てよ!」
結衣は乱暴に一枚の封筒を晴斗に突きつけた。中から引き抜かれたA4の紙にはおよそ彼女の店には似つかわしくない無機質なゴシック体でこう印字されていた。
『葉山市駅前南地区第一種市街地再開発事業に伴う建物等移転調査のお知らせ』
「再開発……?」
晴斗はその文字を目で追った。聞き覚えのある事業名だ。議会で何度も議題に上がっては予算の都合で凍結されていたいわくつきの計画。
「なんか小難しいこと書いてあるけど要は立ち退けってことみたい。ウチの店なくなるって」
結衣の声は努めて明るかったが指先が微かに震えているのを晴斗は見逃さなかった。
晴斗は都市計画課が作成したその書類に視線を落とした。書かれているのは法律の条文と測量の日程、そしてこの事業が「葉山市の百年を見据えた活性化に不可欠なものである」という美しくも空虚な文言。一枚の紙が人の人生を思い出の詰まった場所をいとも簡単に奪い去ろうとしている。
「これ決定事項なのか……?」
「わかんないよ! だから市役所にいる晴斗なら何か知ってるかと思って……」
晴斗の脳裏に数ヶ月前の記憶が蘇る。課長たちが「南地区の件、ようやく議会が通したらしいぞ」と話していた。その時の自分はそれを自分とは無関係の世界の出来事としてただ聞き流していた。
あの時なぜもっと関心を持たなかったのか。
市民課の窓口で繰り返した「申し訳ございません」という言葉が今度は巨大なブーメランとなって自分の喉元に突き刺さるような感覚がした。
「……調べてみる」
やっとの思いで晴斗はそれだけを口にした。
「本当? よかった……。晴斗がそう言ってくれるなら心強いよ」
安堵の表情を浮かべる結衣に晴斗は何も言えなかった。
臨時職員の自分に一体何ができるというのか。
わかっている。できることなど何もない。きっと数日後、自分は結衣の前でこう言うことになるのだ。
――申し訳ございません。これは決定事項ですので。
屋上の風がやけに生暖かく感じられた。
灰色の日常に最初の亀裂が入った瞬間だった。




