舞台袖の友情
シャルルの手が私の上に重なったまま、言葉を探していたとき――。
「シャルル様!」
高い声がバルコニーに届いた。
振り返ると、鮮やかなドレスに身を包んだ令嬢が立っていた。
煌めく髪飾りも、わざとらしい笑顔も、光に浮かんでいる。
「探しましたわ。次の曲が始まりますのに、皆さまお待ちかねです」
その声音には、私への遠慮など微塵もなかった。
シャルルはわずかに目を細め、けれどすぐに微笑を作る。
「……そうか。ありがとう。すぐに戻るよ」
そう答える声は穏やかだが、握られた私の手にはまだ力が残っていた。
彼の青い瞳が、わずかに名残惜しげに私を見つめる。
「行ってください、シャルル」
私は笑みを浮かべて囁いた。
それが私の役目であるかのように。
彼は小さく頷き、令嬢にエスコートされて大広間へと戻っていった。
残された私は、夜風を胸いっぱいに吸い込む。
心臓の鼓動がまだ落ち着かない。
――そのとき。
「あの……」
控えめな声に振り向くと、そこにいたのはアメリーだった。
舞踏会の喧騒から離れ、夜気を浴びに来たのだろう。
手には楽譜もなく、肩の力が少し抜けているように見えた。
「ごきげんよう、アメリーさん」
「あ……リュシールさま。お邪魔してしまいましたか」
「いいえ。むしろ、ちょうどいいところでした。……もしお暇でしたら、少しだけお付き合い願えます?」
思わず口にすると、アメリーは驚いたように目を見開いた。
けれど、すぐにほっとしたように微笑む。
「はい、もちろんです」
二人並んで欄干に寄りかかり、静かな海を眺める。
波の光が揺れ、星のように瞬いていた。
「……リュシールさまは、本当に優しい方ですね」
不意に告げられ、私は小さく目を瞬かせる。
アメリーは夜風に頬を染めながら、真っ直ぐこちらを見ていた。
「他の貴族の方は、私が演奏家だからと必要以上に距離を置かれます。でも……リュシールさまは違います。こうして同じ目線で話してくださる」
その言葉に胸が温かくなる。
彼女は気づいていない。
私が彼女に優しくするのは――憧れと敬意ゆえなのだと。
「そんな風に言っていただけるなんて、光栄ですわ」
私は静かに微笑んだ。
海を渡る風が、二人の間を柔らかく撫でていった。
「そういえば――」
夜風に髪を揺らしながら、私はふと思い出す。
「楽譜は見つかりましたか? あの図書室で探していたもの」
アメリーは驚いたように目を丸くした後、ふっと頬を緩めた。
「ええ……。少し珍しい曲が置かれていて、とても嬉しかったんです。実はその後も……オリヴィエさまが気にかけてくださって」
「オリヴィエ・ド・ベルナール伯爵が?」
「はい。演奏家としての私に、貴族の方からああして親しく声をかけていただけるなんて……夢のようで。けれど、私、つい……」
彼女は言葉を切り、夜の海へ視線を落とした。
「親切心だけだとわかっているのに……まるで特別な存在だと錯覚してしまいそうになるんです。思い上がってしまいそうで、怖くて」
その声はかすかに震えていた。
――この船での彼女の立場。
貴族の只中に、一人庶民として飛び込んできた心細さを思うと、痛いほど伝わってくる。
「アメリーさん」
私はそっと彼女に向き直り、静かに告げた。
「親切心だけで、あの方があなたに時間を割くと思いますか?」
アメリーの瞳が揺れる。
けれど、すぐに首を横に振った。
「……でも、伯爵さまのような方が、私に……」
「立場は関係ありませんわ。あなたの音楽が、人の心を動かしているのです。だからオリヴィエ様も――惹かれているのではなくて?」
私の言葉に、アメリーは小さく息を呑んだ。
そして、恥じらうように頬を染め、胸に手を当てた。
「……そう、だったら。嬉しいです」
その笑顔は、舞台で見せる毅然とした姿よりも、ずっと年相応の少女のものだった。
私はそっと視線を海に向ける。
――彼女の物語は、きっとこれから動き出す。