婚約者との距離
図書室を後にしようとしたとき、背中に柔らかな気配を感じた。
振り返れば、扉の脇に立っているシャルルの姿。
彼の眼差しは静かに、けれど確かにこちらを見ていた。
「シャルル、何かご用がありまして?」
私が問いかけると、彼は少し口元を緩め、歩み寄ってくる。
「うん。君を迎えに来たんだ。甲板のラウンジでお茶を用意させてある。せっかくだから、一緒にどうかなと思ってね」
いつもと変わらぬ穏やかな声色。
けれどどこか言い訳めいた響きに、私は小さく瞬きをした。
「……ご丁寧にありがとうございます。すぐに伺いますわ」
そう答えると、彼は安堵したように目を細める。
その仕草に、なぜだか拗ねた色が混じって見えた。
並んで歩き出したとき、彼が口を開いた。
「さっきは……楽しそうだったね。アメリー嬢やオリヴィエ伯と」
「ええ、音楽のお話を少し。私には新鮮で、とても有意義でした」
正直な感想を述べた。
しかし、隣を歩くシャルルは少し肩をすくめ、からかうように微笑む。
「……僕とは、そういう風に楽しそうに話してくれないのに?」
思わず言葉を失った。
頬に熱がのぼり、視線を逸らしてしまう。
そんな私の様子を見て、彼は小さく笑い声を漏らした。
「冗談だよ。気にしないで」
軽やかにそう言って、空気を和ませる。
その優しさに胸がほっとするのと同時に――心の奥に小さな棘が残った。
冗談にしては、ほんの少しだけ本音が混じっていたように思えて。
ラウンジの一角、甲板に面した席に案内されると、潮風が窓から差し込んで頬を撫でた。
磨き上げられたテーブルには、すでに紅茶と菓子が整えられている。薔薇色のゼリーに、砂糖菓子をまぶした焼き菓子。見ただけで甘い香りが広がった。
「さあ、どうぞ。君の好きな茶葉を選んでおいた」
シャルルは椅子を引き、私を座らせてから自らも向かいに腰掛ける。
紅茶を注ぐ手つきは優雅そのもの。銀器が光を反射し、紅い液体が静かにカップを満たす。
「……ありがとうございます。お気遣いいただいて」
礼を述べると、彼は小さく首を振った。
「君の笑顔が見られるなら。それが僕の楽しみでもあるんだ」
その甘い声音に、胸が小さく跳ねる。
彼は誰に対しても柔らかく接するけれど――ときおり、こうして私にだけ向けられる言葉がある。
けれど私は、無意識にカップを持つ手を固くした。
「……私は、そこまで表情豊かな方ではありませんのに」
「そうかな? さっき、アメリー嬢やオリヴィエ伯と話しているときの君は、とても楽しそうだった」
再びその話題。
今度は冗談めかさず、穏やかなまなざしで。
私は少しだけ目を伏せた。
「音楽のお話は、私には新鮮でしたから。……婚約者としてのあなたを前にすると、どうしても礼儀を意識してしまいます」
正直にそう言うと、彼の表情が一瞬、驚きに揺らぐ。
だがすぐに微笑みを取り戻し、柔らかく言った。
「……そうか。なら、僕のほうが努力しなくてはならないね」
「努力……ですか?」
「君に、礼儀や義務を忘れて、素直に笑ってもらえるように」
カップを傾ける仕草に、少年のような真っ直ぐさが垣間見える。
完璧な仮面の下に隠れている、彼の本当の顔――。
私は思わず視線をそらした。
それ以上見つめてしまえば、胸の奥に押し込んでいる感情が揺らいでしまう気がして。
窓の外では、水平線が夕陽に染まり始めていた。
紅茶の香りと、彼の柔らかな眼差しに包まれながら――私は心の奥に、小さな波紋が広がるのを感じていた。