図書室の音楽談義
図書室は、船内で最も落ち着ける場所のひとつだった。
分厚い絨毯が足音を吸い、壁一面を覆う本棚には、各国から集められた文学や楽譜が整然と並んでいる。
窓越しに差し込む午後の光はやわらかく、紙の香りと混じって心を静めてくれた。
「リュシールさま……」
棚の前に立っていたアメリーが、気づいたように振り返る。
少し緊張をにじませながらも、その声にはどこか安堵が含まれていた。
「楽譜を探しているのですか?」
「ええ。次の演奏会で弾く曲を決めるように、と指示がありまして……。けれど、どれも立派すぎて」
彼女が抱える楽譜の背表紙には、名だたる作曲家の名が並んでいる。
私でさえ知っているような有名な楽曲ばかりだ。
「選ぶのが難しいのですね」
「……はい。私には、少し荷が重い気がして」
そう言って俯くアメリーに、かける言葉を探していたとき――背後から低い声が響いた。
「重い? とんでもない」
振り向けば、黒髪に知的な雰囲気を漂わせた青年が立っていた。
艶やかな仕立ての上着に身を包み、片手には分厚い楽譜集を抱えている。
その眼差しは真っ直ぐで、どこか舞台に立つ芸術家を思わせた。
「あなたが奏でれば、どんな名曲も新しく生まれ変わるでしょう。私はそう思いますよ」
「……え?」
戸惑うアメリーに、青年は軽く一礼する。
「オリヴィエ・ド・ベルナール。伯爵家の者です。芸術に関しては、少々うるさいと自負しているので」
オリヴィエ――。
私も名は聞いたことがある。若くして数々の芸術支援を行い、文壇や楽壇でその名を知られる人物だ。
「これはご挨拶が遅れました。侯爵家の娘、リュシール・ド・ヴィルヌーヴです」
「存じておりますよ。あなたのご婚約者である公爵家のシャルル様とも、以前お目にかかりました」
穏やかに微笑む彼の横顔は、どこか舞踏会の喧騒に身を置く貴族たちとは異質で、学者のような真摯さを帯びている。
「それにしても……」
とオリヴィエは楽譜を指でなぞりながら言った。
「今の楽壇は技巧にばかり偏りすぎている。もっと心を震わせる演奏が求められているのに」
その言葉に、アメリーがはっと顔を上げた。
「……私もそう思います。音は飾りではなく、人の心に触れるものだと」
「おお、同じ考えを持つ方がいたとは! やはり音楽は国境も身分も超える」
オリヴィエが熱を込めて語り、アメリーも思わず笑みを浮かべる。
二人の会話はやがて、作曲家の解釈や演奏の在り方にまで広がっていった。
私はそのやりとりを静かに見守りながら、どこか心が温まるのを感じていた。
――アメリーは、この世界で確かに自分の居場所を見つけつつある。
そう思った矢先、ふと視線を感じて振り返る。
入口に立っていたのは、シャルル。
彼は穏やかな笑みを浮かべていたけれど、その瞳の奥に揺れる影を、私はまだ読み取ることができなかった。