番外編 シャルルの独白
僕は公爵家の嫡男として生まれた。
幼い頃から「公爵家の跡取り」としての教育を受け、失敗も弱音も許されなかった。
礼儀作法も学問も剣術も、すべてにおいて完璧であることを求められた。
やがて周囲は僕を「非の打ちどころのない青年」と評するようになった。
その言葉に誇りを抱くべきなのだろう。けれど、胸の奥ではいつも、重たい鎧を着せられているような息苦しさがあった。
本当の自分を見ようとする者など、誰一人いなかったのだから。
――そんな中で、初めて彼女に出会った。
気の強い令嬢たちが己を飾り立て、少しの隙をも奪おうと迫ってくる中で、リュシールはまるで花のように控えめで、ひっそりとそこにいた。
最初に言葉を交わしたときのことを、今も鮮明に覚えている。
彼女は自分を飾ろうとせず、ただ静かに微笑んでいた。その佇まいに、張りつめていた心がふっとほどけた。
――この人となら、穏やかでいられるかもしれない。
そう感じた瞬間から、彼女は僕の特別になったのだ。
やがて共に過ごす時間が増えるにつれ、僕は気づいていった。
彼女はただ控えめなのではない。人の心を思いやり、決して声高に主張しなくても、芯には強さを持っている。
その優しさと強さに触れるたび、惹かれていく気持ちは止められなかった。
だが――彼女は決して僕に心を開こうとしなかった。
常に一定の距離を置き、どこか遠慮するように振る舞う。
僕がどれほど近づこうとしても、その壁は壊れず、もどかしさばかりが募った。
だからこそ、この船旅に賭けた。
長い旅の中で、少しでも距離を縮めたいと願った。
けれど現実は、思い通りにはならなかった。
アメリー嬢やオリヴィエ殿、そしてエドワード殿下──彼らの前では、リュシールは僕に見せたことのない表情を見せるのだ。
楽しそうに笑い、時には真剣に意見を交わし、その瞳を輝かせる。
特に、エドワード殿下。
彼は王子でありながら、どこか無邪気に彼女をからかい、気さくに言葉をかける。
そのたびにリュシールの頬が赤らむのを見て、胸の奥を焼かれるような嫉妬を覚えた。
自分よりも彼女の心に近いのではないか――彼にリュシールを奪われてしまうのではないか――そんな焦燥が日ごとに強くなっていった。
僕は完璧であることを求められ続けてきた。
けれど、彼女の前に立つときだけは、それが苦しくなる。
完璧な婚約者であろうとするよりも、ただ「一人の男」として、リュシールに求められたいと願ってしまう。
彼女に心を開いてもらいたい。
誰よりも近くで、彼女の笑顔を見ていたい。
――その願いが、嫉妬や焦燥をかき立て、抑えきれない思いとなって胸を満たしていく。
あの夜のことを思い出すと、今でも胸の奥が熱くなる。
最後の舞踏会。煌びやかな音楽と笑い声に包まれた大広間で、僕は人の輪の中心にいた。
けれど、心は落ち着かなかった。視線はいつも、会場の隅にいるリュシールを探していた。
彼女はまた、壁の花のようにひっそりと立っていた。
それが彼女らしくて愛おしいと思う反面、どうして僕の隣にいながら、そんなにも遠くに感じさせるのかと胸が締めつけられた。
そこへ――彼が現れた。
エドワード殿下。
いつもの柔らかい笑みを浮かべ、彼女に近づき、壁際にいることをからかうように声をかける。
「日の当たる場所で咲くべき人だ」
「君が真ん中に立てば、誰もが見惚れるだろう」
僕が言いたくても言えなかった言葉を、彼は軽々と口にしてしまう。
そして、リュシールは頬を染めて、困ったように微笑んだ。
その瞬間、胸がどうしようもなく焼けるように熱くなった。
悔しくて、惨めで――それ以上に、彼女がその言葉に心を揺らしているのではないかと思うと、恐ろしくてたまらなかった。
気がつけば、僕は彼女のもとへ歩み寄り、その手を無理に取っていた。
驚いた顔をしたリュシールの細い手を引き、大広間を抜け出す。
周囲の視線も、背後で鳴り響く音楽も、何もかもが耳に入らなかった。
連れ込んだ自室で、ようやく息が乱れていることに気づいた。
彼女の大きな瞳が僕を見上げる。その視線に耐えきれず、僕は口を開いた。
「……君は、どうして僕には心を開いてくれないんだ」
「アメリー嬢にはあんな風に笑うのに。オリヴィエ殿には真剣に語りかけるのに。エドワード殿下には……あんな顔をするのに」
本当は、こんな子供じみた嫉妬を口にするつもりなんてなかった。
けれど、リュシールを思う気持ちが抑えきれず、心の底からあふれてしまった。
言ってしまったあと、後悔が胸を突き刺した。
嫌われるかもしれない。軽蔑されるかもしれない。
公爵家の嫡男として、決して見せてはならない弱さをさらけ出してしまったのだから。
けれど――彼女は逃げなかった。
ただ驚いたように目を見開き、やがて、ぽつりぽつりと自分の思いを打ち明けてくれた。
「シャルルは、誰からも好かれる素敵な方だから。いつかきっと、私なんかよりもっと相応しい人を見つけて……私は置いていかれるんだって、そう思っていました」
「私は、日陰の……壁の花が似合う人間です。あなたの隣には、もっと華やかで強くて……堂々とした人が似合うんです」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が熱く締めつけられた。
どうして、彼女がそんな風に自分を卑下していたのか。
僕にとってどれほど大切な存在なのか、彼女は知らなかったのだ。
気づけば、必死に言葉を重ねていた。
「違う。君じゃなきゃ嫌なんだ」
「ずっと……ずっと、君だけが欲しかった」
その時、リュシールの瞳に涙がにじみ、震える唇から言葉がこぼれた。
「私も、シャルルが好きです」
「許されるのなら……私は、あなたの隣を歩きたい」
その瞬間、胸の奥で張りつめていたものが一気にほどけ、世界が光に包まれたような感覚に襲われた。
ずっと手を伸ばしても届かないと思っていた花が、やっと僕に向かって咲いてくれた。
喜びが溢れ、どうしようもなく彼女を抱きしめた。
その温もりが確かに腕の中にあって、初めて「僕は彼女に選ばれた」と実感できた。
――あの時の安堵と幸福を、僕は一生忘れることはないだろう。




