船旅の終わり
夜の海風は昼の熱をさらい去り、ひやりとした清涼を肌に残していた。
デッキを歩けば、波の音と船のきしむ響きだけが静かに耳を満たす。灯りが点々と海面に映り、暗い水面に星のように揺れていた。
――もうすぐ、この船旅も終わる。
そう思った瞬間、胸の奥に得体の知れない寂しさが広がる。
寄港地を巡り、さまざまな景色を見て、人々の声に触れ、そして……アメリーとオリヴィエの姿を見守ってきた。
アメリーは少しずつ自信を得て、彼と肩を並べるようになっている。今では、二人の間に流れる眼差しや微笑みを見れば、互いに想い合っているのは明らかだった。
いずれ、きっと結ばれるのだろう――そんな予感が自然と浮かぶ。
けれど私は、この船に乗る前、まるで逆の未来を想像していた。
シャルルがアメリーに惹かれていき、婚約者という私はただの飾りでしかなくなるのではないか、と。
それなのに、現実はそうならなかった。
むしろ、彼は幾度となく私の方を見つめ、言葉をかけてくれた。
――「僕がいたいのは君の隣だから」
――「僕もリュシールの特別でいたい」
その言葉のひとつひとつが、まだ胸の内で温かく脈打っている。
これからも、私と彼の婚約は続くだろう。
家同士が決めた約束なのだから、簡単に反故にできるものではない。
それは分かっている。
それなのに――私は今、それを「嬉しい」と感じている自分に気づいてしまった。
シャルルは、誰もが好きになるような人。
穏やかで、才知に満ちて、誰といても自然に場を和ませられる人。
だからこそ、私なんかがその隣にいてよいのだろうかと、今でも自信が持てない。
夜風が頬を撫でる。
熱を帯びた胸の奥と、冷えた海風とが交わり、私はしばし足を止めて空を見上げた。
星の光が滲んで見えるのは、夜気のせいか、それとも……。
足音に気づいたのは、海風が髪を揺らした瞬間だった。
振り向けば、月明かりの下にシャルルが立っていた。白い上着の裾が風に揺れ、その表情には、昼間と変わらぬ穏やかさが宿っている。けれど、その奥には何か決意の色が潜んでいた。
「こんなところにいたんだね」
「……少し、夜風に当たりたくて」
私の返事に、彼はゆっくり歩み寄る。
その瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。
「リュシール。――最後の舞踏会、僕とだけ踊ってほしい」
「……え?」
思わず息を呑んだ。
彼の言葉はあまりに真剣で、冗談の欠片も見当たらない。
「どうして……」
問い返す声は、自分でも驚くほど震えていた。
けれど、彼は微笑んだまま、静かに続ける。
「僕も、君としか踊らないと決めたから」
鼓動が一気に早鐘を打つ。
信じられない気持ちと、どうしようもなく高鳴る喜びが胸の内でせめぎ合った。
「だめです……そんなの、だめです」
必死に首を振る。
舞踏会は社交の場。彼の立場を思えば、誰とでも踊るべきだと分かっている。
それに、私なんかが彼の唯一であるはずがない――。
けれど。
「君以外と踊るつもりはない」
迷いなく告げられたその言葉は、私の心を強く揺さぶった。
――だめだと思うのに、嬉しい。
その矛盾がどうしようもなく苦しく、けれど確かに甘やかだった。
夜風に混じって、胸の奥に灯る熱は冷めないまま、私はただ黙って彼の横顔を見つめていた。




