折り返しの夜
その夜。
私は部屋を抜け出し、デッキへと出ていた。
潮の匂いを含んだ夜風が頬を撫で、昼間の熱気を洗い流していく。波の音と船の軋む音だけが、静けさを守っていた。
演奏会の光景が、何度も頭をよぎる。
アメリーさんの音色に心を奪われる人々。
その中で「君が褒めるなんて、妬ける」と告げたシャルルの言葉。
冗談だと彼は笑っていた。
けれど、その一瞬に見えた陰りが、どうしても忘れられない。
「……あの人は、私のことをどう思っているのかしら」
思わず口から零れた声は、夜に溶けて消えていく。
完璧な婚約者、誰もが羨む公爵家の嫡男。
私はただ、その隣に置かれた存在でしかない。
けれど、時折見せる柔らかさや、不意の言葉が――私の心を揺らしてやまない。
「分からない……」
胸に灯った小さな熱を、どう扱えばいいのか分からないまま、私は夜風に身をさらし続けた。
「――随分と物憂げな顔だな」
不意に声をかけられ、振り返る。
そこに立っていたのはエドワードだった。
月明かりに照らされた金の髪が揺れ、碧の瞳は冗談めかしながらも、どこか柔らかい光を帯びている。
「驚かせてしまったかな?」
「……いいえ。ただ、少し考えごとをしていただけです」
私の答えに、彼は欄干へと歩み寄り、肩を並べる。
夜風を胸いっぱいに吸い込み、ゆったりと吐き出した。
「船旅も、もう折り返しか」
「……そう、ですね」
思わず彼の横顔を見やる。
エドワードは遠い海の地平を眺めながら、少年のような笑みを浮かべた。
「寄港地での日々はあっという間に過ぎていった。けれど、不思議と心に刻まれる光景ばかりだったな」
「ええ……。本当にそう思います」
心の底からの同意が、自然と口をついて出る。
それほどに、これまでの旅は濃く、揺さぶられるものだった。
「さて、残りの旅で君はどんな顔を見せてくれるのだろう」
茶化すように言うその声音は穏やかで、けれどどこか探るような響きもあった。
私は言葉を返せず、夜の海へと視線を落とした。
「……からかわないでください」
小さく呟くと、エドワードは「おや」と肩をすくめた。
「失礼だな。俺はいつだって本気だよ」
唇の端を上げながらも、その瞳には軽やかな冗談の色が漂っている。
本気ではない――そう分かっているのに、どうしてか胸がわずかに熱を帯びるのを感じた。
「君は控えめすぎる。だから、つい言葉を贈りたくなるんだ」
海風に混じる彼の声音は、冗談と本音の境が曖昧で、どこまでも掴みどころがない。
私は困ったように微笑みを返し、視線を夜空へ逸らした。
――船旅は折り返し。
終わりが近づいていることを、改めて意識させられる。




