出航パーティー
船内に足を踏み入れた瞬間、目を奪われた。
煌びやかな大広間。天井から吊るされたシャンデリアは幾千もの光を放ち、鏡面のように磨かれた大理石の床に反射して、まるで星空の下に立っているかのようだった。
すでに多くの貴族が集まっており、笑い声やグラスの触れ合う音が波のように広がっている。
衣装はどれも華やかで、色とりどりのドレスが花園のように揺れていた。
「……圧倒されますね」
思わず漏れた私の言葉に、隣のシャルルが軽く笑う。
「大広間は船の心臓だからね。これから毎日のように舞踏会や音楽会が開かれる。飽きるほどに」
「飽きるほど、ですか」
「でも、君はきっと楽しめると思うよ。……君は人をよく見ているから」
その柔らかな声音に胸が温まる。
けれど、私が答えるより先に、周囲の貴族たちが彼に声をかけてきた。
「シャルル様、ご機嫌麗しゅうございます」
「まあ、やはり今宵もお美しい……」
次々と集まる人々に、シャルルは微笑を絶やさず応じる。
完璧な立ち居振る舞い。
フロラン王国の未来を担う若き公爵家嫡男に相応しい、王子様然とした姿。
私は横に控えながら、その光景を静かに見守った。
誇らしく、同時にほんの少しだけ遠く感じる。
そんなとき、楽団の控えの方で小さなざわめきが起きた。
見ると、一人の若い女性が慌てて楽譜を拾い集めている。
裾を引きずらないよう不器用に身をかがめ、周囲を気にして縮こまっていた。
それを見た貴族たちは、ちらりと視線を向けただけで通り過ぎていく。
――演奏家など、あくまで雇われの余興。
彼女に声をかけ、手を貸すことは「身分を下げる」行為とみなされる。
だから誰も、彼女に近づこうとはしない。
私は自然に足を向けていた。
「どうぞ」
床に散らばっていた一枚を拾い上げ、声をかける。
女性が顔を上げた瞬間、その大きな瞳が驚きに見開かれた。
栗色の髪、少し緊張に強張った頬。けれど、礼を言う声は澄んでいて、まるで楽器の音のように耳に心地よい。
「……ありがとうございます。助かりました」
「いいえ。大事なものですもの、落としては大変ですわ」
彼女は胸に楽譜を抱きしめ、小さく微笑んだ。
その笑顔にはまだ遠慮がにじむ。
彼女が平民出身で、この場で肩身の狭い思いをしていることが伝わってきた。
「リュシール?」
背後からシャルルの声がした。振り向けば、彼は少し不思議そうにこちらを見ている。
私は静かに頷いて、女性に名乗った。
「リュシール・ド・ヴィルヌーヴと申します。侯爵家の娘ですわ。……お名前を伺っても?」
「あ、アメリー……アメリー・デュランと申します。演奏家として、この船に……」
そのとき、楽団の合図が響き、彼女は小さく頭を下げて戻っていった。
手にした楽譜を胸に抱き、背筋を伸ばして歩く姿は、先ほどよりもずっと堂々として見えた。
「……珍しいね」
隣に立ったシャルルが、横目で私を見た。
「君がああやって、見知らぬ相手に自分から声をかけるなんて」
「困っていたようですから」
「そういうところが、君らしい」
柔らかな言葉に、ほんの少し胸が疼いた。
――この人は、誰にでもそう言えるのだろうか。
そう思いながらも、私は微笑を浮かべるにとどめた。
やがてアメリーの演奏が始まり、大広間は水を打ったように静まり返る。
彼女の音色は澄みわたり、まるで海のきらめきを映すように人々を魅了していった。
その姿を見つめながら、私は心の奥で思う。
――やはり彼女こそが、物語の中心にふさわしい。