完璧な影で
寄港地から船へと戻ると、再び《ル・フロラリアン》は静かな揺れに包まれた。
長い一日を終えた私は、部屋の扉を閉め、柔らかな灯りの下で鏡台の前に腰を下ろした。
髪をほどくと、ふわりと潮風の香りが広がる。今日一日のざわめきが一気に遠のき、ようやく心の奥の声が浮かび上がってきた。
――「そこが彼女の良いところです」
市場で令嬢に揶揄されたとき、シャルルが口にしてくれた言葉。
完璧で隙のない彼が、私の控えめさを肯定してくれた。
さらに、二人きりになったときには、砕けた声音で「僕が素でいられるのは君といるときくらい」とまで。
胸が熱くなる。
けれど同時に、夜会で告げられた問いが頭を離れなかった。
――僕も君の特別だと思っていい?
答えられなかった。
言葉が見つからなかった。
彼の「特別」に自分がふさわしいのか。
公爵家の嫡男、誰もが憧れる完璧な人の隣に、ただの「控えめ」でしかない私が。
アメリーのように才能があるわけでも、オリヴィエのように情熱を語れるわけでもない。
ただ静かに佇むことしかできない私が。
「……私は、何を望んでいるのかしら」
小さく零した声は、部屋の静寂に吸い込まれていった。
諦めているはずだった。物語の中心に立つのは、あの少女と彼らのような人たちだと。
それでも――シャルルの瞳に映されるたびに、揺れてしまう心を抑えきれない。
窓を開け放つと、夜の海風が頬を撫でた。
静かな波音だけが、私の迷いを優しく包み込んでいた。
部屋に籠っていても落ち着かず、私は羽織を取ってデッキへと足を運んだ。
夜の海風は昼の熱をすっかりさらい、ひんやりと心地よい。暗い海に浮かぶ月光は銀の道を描き、船はその上を静かに滑っているようだった。
――そこに、先客の姿があった。
「……アメリーさん?」
欄干に寄り添い、夜空を見上げていたのは、演奏家の少女だった。彼女は驚いたように振り向き、すぐに控えめに微笑んだ。
「リュシールさま。……すみません、少し空気を吸いたくて」
「いいえ。私も同じですわ」
並んで立つと、しばし言葉を交わさず、波音だけが耳に満ちる。
不思議と心が落ち着く沈黙だった。
だが、胸に絡みついていた思いは、海風に溶けるようにふと口をついて出てしまった。
「……シャルルは、本当に完璧な人です」
アメリーが小さく瞬きをしてこちらを見た。
私は視線を夜の海に向けたまま、言葉を続ける。
「誰にでも優しくて、どんな場面でも穏やかで……私には、あまりにも勿体ないほどで。――隣に立つ自信が、ないのです」
口にしてしまえば、それは弱音以外の何ものでもなかった。
侯爵家の娘として人前で決して零すことのない想い。けれど、今だけは止められなかった。
アメリーは驚いたように目を見開き、そして少し戸惑いながらも静かに答えた。
「……リュシールさまは、とてもお優しい方です。だから、シャルルさまも、あんなふうに自然に笑われるのではないでしょうか」
その言葉に、胸の奥がわずかに疼く。
――自然に、笑う。
彼が見せる柔らかな笑みは、誰にでも向けられているのではなく、私の隣にいるときだけのものなのだろうか。
答えは出ない。けれど、アメリーのまっすぐな声音に、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。




