織物の国
翌朝、船を降りた途端に広がったのは、まったく異なる空気だった。
焼けつくような太陽の下、白壁の家々が続き、色鮮やかな布や香辛料の香りが風に混ざる。声高に呼びかける商人たちの声と、動物の鳴き声、絨毯のように並べられた果物や宝飾品――そこはまさに異国の市場だった。
けれど私は、その賑わいに心から溶け込むことができなかった。
夜会での問いかけが、胸の奥にまだ刺さっていたから。
――僕も君の特別だと思っていい?
シャルルの声が、耳に残って離れない。
隣を歩く彼は、いつもと変わらぬ穏やかな表情で周囲に気を配り、さりげなく私を人混みから守ってくれている。その自然さが、かえって胸をざわつかせた。
「見て、あの染め物の布。とても鮮やかだよ」
彼が差し向けてくれる言葉に、私は少し遅れて頷く。
返事はしたけれど、心のどこかでぎこちなさを隠しきれない自分がいた。
やがて他の貴族たちと合流すると、たちまち輪の中心はシャルルになった。
若い令嬢たちは色とりどりの宝石を手に取りながら、彼に感想を求めては笑い声を弾ませる。
彼は誰に対しても柔らかな微笑を絶やさず、言葉を選びながら応じていた。
――やはり、完璧。
私は少し下がった位置で、その姿を静かに見守る。
「……相変わらず控えめなのね」
ふと耳に届いたのは、近くの令嬢の嘲るような声。
振り向けば、薄く笑みを浮かべながらこちらを見ていた。
「公爵家の婚約者ともあろう方が、もっと堂々としていればよろしいのに」
胸の奥がきゅっと痛む。言い返すべきか迷った、そのとき。
「――そこが、彼女の良いところです」
シャルルの穏やかな声が割って入った。
彼は私を振り返り、微笑んで言葉を続ける。
「控えめであるからこそ、周りのことをよく見ていられる。僕にはない強さだと思っています」
その声音に、令嬢たちは一瞬驚いたように目を見張り、やがて取り繕うように笑って話題を変えていった。
私はただ、胸の奥が熱を帯びていくのを抑えられなかった。
――どうして、この人はこんなにも自然に私を肯定してくれるのだろう。
夜会での問いかけと重なり、言葉にできない思いが胸の内で渦を巻いた。
人混みが一瞬途切れ、私とシャルルは並んで歩く形になった。
彼は肩の力を抜いたように息をつき、ひそやかに囁く。
「……さっきの令嬢たち、気にする必要はないよ」
その声は、社交の場で聞き慣れた丁寧な響きではなく、柔らかで少しくだけた調子だった。
「僕だって、ああいう場面は得意じゃない。だから君がいてくれると助かるんだ」
「……助けになるだなんて」
思わず小さく笑ってしまう。
彼は肩をすくめ、子どものように悪戯っぽい目をした。
「ほんとさ。僕ばかり持ち上げられると、どうにも落ち着かない。君が横で静かにしていてくれると、ちゃんと地に足がついてる気がする」
「……そんな風に、思っていてくださったのですか」
「うん。僕が素でいられるのは、君といるときくらいだからね」
からかうように微笑んで言うその声音に、胸の奥がひどく熱を帯びた。
夜会での問いかけが再び頭をよぎる。
――僕も君の特別だと思っていい?
答えられなかった言葉が、今も喉の奥で絡まったまま。
「……」
私が言葉を探して沈黙すると、シャルルはふっと笑って歩調を合わせてくれた。
市場の喧噪の中、彼と二人きりで交わす砕けた声が、何よりも大切な秘密のように胸に残った。




