囁かれた強さ
船に戻ると、煌びやかな寄港地の賑わいが夢だったかのように、静かな船内の空気が広がっていた。
月明かりを受ける甲板を歩きながら、私は胸の奥に重たいものを抱えていた。
安堵と、揺らぎと、拭えない劣等感。
「やあ」
不意に、背後から陽気な声がかかった。
振り返ると、エドワードが片手をポケットに突っ込み、気さくな笑みを浮かべて立っていた。
「ずいぶん浮かない顔をしてるじゃないか。婚約者とのデートは楽しくなかったのか?」
からかうような声音に、私は慌てて首を振った。
「そ、そんなことはありません。とても……素敵な時間でした」
言葉に嘘はない。けれど心の奥が晴れないままなのは、自分でも分かっていた。
エドワードは小さく首を傾げ、私を覗き込む。
「ふうん? でも君の顔はそう言っていないな」
胸の奥を見透かされたようで、私は視線を逸らした。
夜風が裾を揺らし、言葉がつい零れ落ちる。
「……彼は、私のには勿体ないほどの相手ですから」
その一言に、エドワードの瞳が少しだけ鋭さを増した。
普段の軽薄さを装った笑みの奥に、真剣な色が差す。
「なぜだ? なぜそんなにも自分に自信がない?」
真正面から問われて、私は一瞬、答えを失った。
彼の視線はまっすぐで、冗談めかした軽やかさは消えていた。
胸の奥にある弱さを、すべて見抜かれている気がして。
夜風に髪を揺らしながら、私は小さな声でこぼした。
「……私には、他の貴族令嬢のように振る舞う強さがないのです。華やかに笑って、人を惹きつけるような――ああいう存在感が、どうしても持てなくて」
吐き出してから、胸がひどく重たくなる。
侯爵家の娘としてあるまじき言葉だと分かっていても、口から零れてしまった。
けれど、エドワードは肩を竦めて笑った。
冗談めかすことなく、真っ直ぐな声音で言う。
「君は勘違いしてる。控えめであることは、弱さなんかじゃない。むしろそれは、君だけが持つ強さだよ」
胸の奥にじんわりと広がる温かさに、思わず息を呑んだ。
そんなふうに言われたことは、一度もなかった。
「……そんなことを言ってくれるのは、あなただけです」
自然と笑みが浮かんだ。
自嘲混じりではなく、どこか心が軽くなるような笑み。
エドワードは満足げに頷き、月光を受けて輝く瞳を細めた。
「それなら光栄だな。けれど、覚えておいてほしい。君が思うよりも、君はずっと――人の目を惹いている」
彼の言葉に、胸がまた少し波立つ。
けれどその波は、不思議と心地よいものだった。
しばしの沈黙を破ったのは、柔らかな声だった。
「リュシール」
振り向くと、そこにシャルルが立っていた。
薄灯りの下でもなお整った姿で、けれど私を探していたのだろう、肩がほんの僅かに安堵の色を滲ませている。
「お探しのようですよ」
隣にいたエドワードが、愉快そうに目を細めた。
そして軽く手を振りながら、茶目っ気を含んだ声で告げる。
「それじゃあ俺は退散しよう。婚約者と――いい夜を」
からかい混じりのその一言に、頬がかすかに熱を帯びる。
エドワードはあっさりと背を向け、月光に金の髪を揺らして去っていった。
残された静けさの中で、シャルルが歩み寄る。
その眼差しには、淡い探るような光が宿っていた。
「……さっき、彼とどんな会話を?」
問いかけは柔らかく、けれど底にわずかな緊張が漂う。
私は息を整え、視線を外さずに答えた。
「他愛もない話です。ほんの、些細なことを……」
言葉を濁すわけではなく、本当にそうだった。
けれど――胸の奥でかすかに残る波立ちは、私自身にしか分からない。




