芸術の国
《ル・フロラリアン》が最初に寄港したのは、地中海沿岸に広がる芸術の都。
白壁に赤煉瓦の屋根、狭い石畳の路地には絵画や彫刻を並べた露店が軒を連ね、陽気な楽師が広場で音を奏でていた。
空気そのものが芸術を讃えているかのようで、歩くだけで胸が弾む。
「まるで街全体が美術館ですね」
思わずこぼした言葉に、隣のシャルルが柔らかく微笑んだ。
「君がそう感じるなら、この街も幸せだろう」
その軽やかな言葉に胸が熱くなる。けれど、すぐに視線を逸らし、気配を探した。
――アメリーの姿。
彼女は広場の一角で、オリヴィエ伯爵と並んで小さな楽器店を覗いていた。
手に取った古びた楽譜を愛おしげに撫で、オリヴィエと夢中で言葉を交わす。
その真剣な眼差しは、アメリーを一人の芸術家として尊重しているのが伝わってきた。
アメリーの頬が紅潮し、楽しそうに笑っている。
その笑顔に、私は安堵を覚えた。
――彼女が幸せそうだから。
けれど同時に、別の感情が胸を掠める。
私はアメリーを友として応援しているのだろうか。
それとも……彼女がシャルルと恋に落ちないから、安心しているだけなのだろうか。
その思いに気づいた瞬間、心の奥に小さな棘が刺さった。
「リュシール?」
「……ええ、大丈夫です。少し眩しくて」
太陽を仰ぐふりをして微笑む。
けれど、胸に広がる影は消えてはくれなかった。
午後、私とシャルルはこの街で最も有名な美術館を訪れていた。
大理石の柱が並ぶ壮麗な建物。館内には古代の彫像や宗教画、そして鮮やかな色彩の絵画が飾られ、訪れる者を圧倒していた。
「この街の人々にとって、芸術は息をするようなものなのでしょうね」
私がそう呟くと、シャルルは横で穏やかに微笑む。
「君の瞳に映ったものなら、きっと何倍も美しく見えていると思うよ」
「……からかわないでください」
ほんの冗談めかした声に、頬が熱を帯びるのを自覚した。
展示室をひとつ抜けたところで、見慣れた顔に出会った。
――アメリー・デュランと、オリヴィエ・ド・ベルナール伯爵。
二人は並んで絵画を眺め、何やら熱心に言葉を交わしていた。
アメリーがこちらに気づき、小さく目を丸くする。
「リュシールさま、シャルルさま……!」
控えめながらも嬉しそうな声色。
その横でオリヴィエが微笑み、優雅に会釈する。
「ちょうど良いところでお会いしました。今夜、この街の大広場で催される演奏会にいらっしゃいませんか? 旅の音楽家たちが腕を競い合う、なかなか見事な催しですよ」
アメリーが、胸の前で手を合わせるように言った。
「ぜひご一緒できればと……。とても有名な演奏会だそうです」
彼女の瞳は期待に輝いていた。
私は思わず頬を緩め、頷く。
「ええ、ぜひ。――よろしいかしら、シャルル?」
「もちろん。君が望むなら」
彼の返答に、アメリーの顔がぱっと明るくなった。
その様子を見ながら、私は胸の奥に温かさと小さなざわめきとを同時に感じていた。




