ル・フロラリアン号
白亜の巨船。
海に浮かぶ宮殿と謳われる豪華客船は、陽光を浴びて眩しく輝いていた。
帆柱に翻る旗、煌めく真鍮の飾り、甲板に響く楽団の演奏。
港には貴族たちが集い、出航の時を今か今かと待ち構えている。
私は長い裾を持ち上げながら、列に並んでその堂々たる姿を見上げた。
潮の香りの奥に、甘い香水や絹の衣擦れの音が混じる。……まさしく、社交界をそのまま海に移したような光景だ。
「リュシール」
名を呼ぶ声に振り向くと、婚約者のシャルルが柔らかく笑っていた。
陽光を受けて輝く金髪、誰もが振り返る整った姿。
フロラン王国屈指の名門、公爵家の嫡男であり、私の婚約者。
「大丈夫? 顔が少し硬い」
「……ええ。大丈夫です。ただ、この船の大きさに圧倒されてしまって」
「確かに、初めて見たときは僕もそうだった。けれど、すぐに慣れるよ。君ならね」
穏やかな声が潮風に溶けていく。
彼はどこまでも優雅で完璧に見える人――けれど、私にだけはこんな風に少し砕けた言葉を向けてくれる。
そのさりげない甘さに胸が温まると同時に、私はほんの少しだけ視線を外した。
……これ以上近づいてはいけない。
婚約者として親しくあるべきだとわかっていても、心までは寄せすぎない。
そう意識して、私は常に半歩だけ引いている。
けれど、それを知ってか知らずか、彼は私に自然と歩調を合わせてくる。
そのさまが、余計に胸を締めつけるのだった。
――私は知っている。この航海が、ただの社交の場ではないことを。
《ル・フロラリアン》は、乙女ゲームの舞台だった。
演奏家として船に乗り込むヒロインが、身分違いの恋に落ちる物語。
相手は貴族や異国の王子。彼女を待つのは、身分を超えた禁断の恋――。
その中で、シャルルも攻略対象の一人だった。
完璧な王子様然とした彼は、プレイヤーから最も愛される存在。
けれど彼の物語には一つのスパイスが添えられている。
――彼には婚約者がいる。
ただそれだけ。
顔も名前も出てこず、物語に干渉することもない。
彼との恋を背徳的にするためだけの、舞台装置。
つまり私は、その「影」にすぎない。
それでも。
私は彼に恥じぬようにありたいと思う。
彼が誰を選んでも胸を張れるように、侯爵家の娘として、そして彼の婚約者として。
「行こう。僕たちの席がある」
差し伸べられた手を取り、船内へ足を踏み入れる。
目に飛び込んできたのは、光に満ちた大広間。
シャンデリアのきらめき、笑い声と音楽、絹の衣擦れ。
《ル・フロラリアン》の華やかな航海が、今まさに始まろうとしていた。




