悪癖こそ我が人生
深紅の薔薇のようなカーペットをシルヴィアに抱かれて進む。天井には魔力石を動力源とした無数のランプが整然と設置されており、鮮明な光がどこまでも続く。脇には壺や絵画、真鍮の鎧などが飾られている。その一品一品が、市民が数年で稼ぐ賃金を遥かに凌駕する価値を持つ。
もっともその価値あるものも、日常風景に溶け込んでしまえばただのものだ。貴族としての見栄を張るための小道具でしかない。
活躍の場も貴族を招待したパーティ以外にない。
莫大な金と労力をかけて見栄を張り、酔った連中が我が物顔で屋敷中を闊歩する。いつだったか、僕の部屋で貴族の男女の逢瀬の現場に遭遇してしまったことがある。それ以来、貴族の集まりは嫌いだ。
そんなことを考えているうちに、シルヴィアが僕の部屋の前で足を止めた。
両手が塞がっているシルヴィアは、部屋の扉を開けることができず、僕を一度降ろそうとした。僕は彼女の首に両手を回し、頑として拒否した。彼女の胸に顔を埋めることになったのは不可抗力である。
無言の意思表示を汲み取った優秀なメイドは、僕の頭のところにやっていた手を放し、扉に手をかけた。
部屋に入るとシルヴィアはベッドの方に向かった。
「そっちじゃない」
僕はそう言って、ベッドの反対側にある紫紺の布が掛けられた展示台の方を指した。
「かしこまりました」
シルヴィアの起伏のない声。
展示台には、僕が長年収集してきた魔道具コレクションが収められているはずだった。それがそのままあるなら、この屋敷から逃げる算段も立つ。
しかし、そんなことは姉さんも織り込み済みだろう。僕の優位性を高めるようなものをそのまま置いておくほど、間抜けじゃない。
展示台に掛けられている布に手をかけて、引く。
案の定、そこには何もなかった。
否、厳密にいえばあった。
魔道具が整然と配列されていた展示台には、悪趣味な長剣が一本代わりに収められていた。
僕はシルヴィアの顔を覗き込み聞いた。
「どう思う?」
「かわいい」とシルヴィアはぽつり。
「え?」
「はい?」
僕たちは互いに見つめあった。
彼女の真っ直ぐな瞳には一点の曇りもない。本気で「かわいい」と思っているらしい。僕は怪訝に展示台を振り返る。そこにあるのは、数多の戦場を駆け抜けたであろう無骨な長剣。どう見ても「かわいい」要素は皆無だ。
「これが、かわいいって?」
「そちらでしたか」
シルヴィアはそこでようやく、僕の言葉を理解したのか、あっさりと答えた。
──彼女はいったい何を「かわいい」と思ったのだろうか。
僕がシルヴィアに求めているのは共感だったのに、彼女の関心は明後日の方向を向いている。
「年代物ですが、よく手入れされているかと」
僕の思考を遮り、シルヴィアが答えた。
つまり、姉さんからのメッセージは明確だった。『剣を使え』と。
僕は諦めて話の流れを変えた。
「ベッドに運んでくれる」
「かしこまりました」
シルヴィアは踵を返した。
その時、ドアが開く音が聞こえた。
僕たちは、同時にそちらに視線をやった。
姉さんが部屋に入ってくると、しばらくして足をぴたりと止めた。
──おっと、これは……。
空気が一段と下がった。
冷気を帯びた姉さんの魔力が部屋に漂い、ひんやりとした空気が吐く息を白くする。
こんなにも寒いのに額に汗が浮かび上がった。ちらと、シルヴィアを見ると、彼女は何事もないというように、姉さんを見ていた。
「……何をしているの?」
微かに怒気の色を含んだ姉さんの声。
僕はこの状況をどう説明したものかと、頭を回す。だが、効果的なものは見当たらない。どうあがいても、シルヴィアに抱きかかえられていることがノイズになる。
「僭越ながら、私が」
答えに窮する僕とは裏腹に、この場の空気を一振りで切り払うシルヴィアの声。
僕は期待と羨望の眼差しを、にわかに向けた。
「レイモンド様が庭園で倒れておられたので、お部屋までお連れいたしました」
簡潔明瞭な回答だ。
「で?」と姉さん。「私は、どうして、あんたがレイモンドをお姫様抱っこしているのか。それを聞いているの」
僕は思わず繰り返す。
「……お姫様抱っこ?」
「何よ」
姉さんがキッと僕に視線をやる。
「エリスティア様は、あれでお可愛いところがおありですから」
このメイドに怖いものはないらしい。
ふと姉さんを見ると、耳元がほのかに赤みを帯びているのが分かった。
僕は、途端、どうしようもない衝動に駆られた。
煽りたてねばならない、と。
「姉さん、気にすることはないよ。いいじゃないか。お姫様抱っこ。何も恥ずべきことは言っていないよ。なんせ第二王女の愛読書にも載っている言葉だ。公爵家の令嬢が──たとえそれが十五の成人した娘の言葉であっても──言っちゃいけないなんてことはないよ」
僕はそこで一度言葉を切り、シルヴィアに人差し指を向けた。
「君も、あまり姉さんを馬鹿にするようなことを言ってはいけない。彼女はゴールドバッシュの家督を継ぐ存在だ。黒いものも、白だといえば、白くなる。そうだろう?」
「おっしゃるとおりかと」シルヴィアは動じることなく答える。
「だろう? つまり、君が僕にしているのは?」
「お姫様抱っこにございます」完璧な敬語で断言するシルヴィア。
僕はそこで指を鳴らし、姉さんを指した。
「ほら、姉さん! あなたはいつも正しい。僕はいまお姫様抱っこをされているんだ。抱き上げるとか、抱きかかえるとか、そんな言葉は僕たちゴールドバッシュ家の辞書にはない!」
僕は得意満面で続ける。
「お姫様抱っこ! ああ、なんて甘美で優雅な響きだろうか! 姉さんも、いつかお姫様抱っこをしてくれる人に出会えるといいね!」
そこでわざとらしく、あっと口元に手をやる。
「あ、そうか。姉さんする側になるのかな? あははっ!」
高笑いする僕。ぷるぷると震える姉さん。シルヴィアは静かにベッドの方に近づく。
「うん? 何をしているんだい」と僕。
困惑する僕をベッドに優しく下ろすシルヴィア。
「では、私はこれで」
彼女はそう言って礼をし、姉さんの隣をそそくさと通り抜けて部屋を後にした。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
静寂が支配する部屋。時計の針音だけが意味深長に響く。
姉さんの耳からは既に赤みが消え、いたって平常に見える。僕はそれがかえって不気味で、唾を飲み込んだ。
自分の悪癖は理解している。相手が隙を見せたら余計なことを口走ってしまうことだ。それで痛い目を幾度となく見てきた。
しかし、後悔はない。僕はその瞬間を生きているのだから。
姉さんは幽鬼のように近づいてきて、僕の隣にぽすんと腰かけた。
「忘れていたわ、あんたはそういうやつよね」
僕はこれから何をされるか知っている。しかし屈するつもりはない。
その証拠に、
「嬉しいでしょう?」
と強がってみせる始末。
姉さんはにこやかに笑顔を見せて、
「ええ」
そう言うなり、僕の脇腹に手を伸ばした。
「──ひっ!?」
「えいっ、えいっ」
シルヴィアの胸の感触と姉さんへの優越感で忘れていたが、僕の身体は疲労で限界を迎えていた。そのため、その些細な攻撃ですら、僕の身体を大きく跳ねさせるのには十分だった。
昔からこうだった。僕が姉さんに優位を取ると、決まってこのような仕返しを受ける。
僕は笑いを我慢しようとしたが、ついには、
「あははっ!」
「どう、レイモンド! これがいいんでしょっ!」
「あ、ああ、ごめんなさい! もう二度と、しません、しませんからっ!」
「だめよ、レイモンド! 許してやんないんだから!」
そう言って攻勢をさらに激しくする姉さん。
僕は息も絶え絶えで、もう何も口にすることができなかった。
「いいこと、レイモンド。お姉ちゃんに逆らうとは、こういうことなのよ」
姉さんは一通り満足すると、威厳に満ちた態度でこういった。
僕はただ息を整えるので精一杯で、その何一つ言い返すこともできなかった。
後日談だが、この一部始終を廊下で聞いたメイドがいたらしい。そのメイドは瞬く間にこの件を同僚たちに喧伝し、しばらくして、僕はなんとも形容し難い眼差しを向けられることになった。




