”シルヴィア”
“屋敷”の外に出ると、僕は大きく伸びをした。
太陽が一番高いところで笑い、そよ風は木の葉を伴い歓喜の舞を踊り、小鳥たちは凱歌を口ずさみ、僕を出迎えた。
物珍しくもない生命の息吹に、胸を強く打たれる。
どうやら僕は死んでいるよりも、生きている方が性に合うようだ。
「決めた。これからはもっと慎重に行動しよう」
僕は少し離れたところに捨て置かれた箒に手を向け、魔力を伸ばした。手から伸びた魔力は箒を包み込み、それを自分の方に戻す。掌中に収まった箒に跨ると、僕は調子の外れた口笛を吹き、ふわり宙に浮き、自室を目指した。
――しかし、どうやって僕はこちらの世界に戻って来たのだろう。
至極当然の疑問が頭をもたげた。
僕は腕を組み唸った。
おそらく、杖に施した術式が正しく機能したのだろう。どこかの時点で無意識に収納魔法を発動させて、僕をこちらに戻したのだ、と思う。
ただし収納魔法による人体の転移も、そこでの爆発も前例のないことだから、原因
断定は出来ない。再現性の有無も含めて調査が必要だ。ある程度、纏まった内容になるようだったら〈塔〉――大陸魔術協会の本部――での研究発表会に持ち込むのもいいだろう。
「きっとみんな驚くぞ」魔術師たちの驚嘆を思うと、つい笑みがこぼれた。
その時、「あーっ!」と下の方から大きな声が響いた。はてとそちらを見やると、姉さんが目を見開き指さしていた。
「おはよう姉さん」
「おはようレイモンド――じゃないわよ! あんた、今までどこにいたのよ! お姉ちゃん、心配したんだから!」
「ずっとここにいたよー」
「うそおっしゃい! いいから、降りてきなさい!」
「わかったー」
僕はそう言って、自室を目指した。
「あっ、こら! レイモンド!」
泣いていない姉さんに用はない。困り果てたメイドもいないし、匙を投げようと腕を振りかぶる母さんもいない。
ぷんすか喚き散らす声が背中にぴったりとついてくる。
姉さんは乳臭いといって牛乳を飲まないから、怒りっぽいのだと思う。僕も牛乳は飲まないけれど、そうカッカすることはない。ということは、本人の持って生まれた資質ということになる。しかしそうすると、僕が同い年の子よりも比較小さいのも、本人の資質ということになるので、やはり牛乳を飲まないのがすべて悪いのだと思う。
窓から部屋に入った。
台風が僕の部屋に直撃したらしい。マットレスはベッドから引きずり降ろされ、クローゼットは開け放たれ、書架に収められていた書物はカーペットに投げ出され、机の引き出しは取り外され、筆記具や研究レポートがあたりに散乱していた。
牛乳が必要だ。可及的速やかに。
部屋に僕一人であったなら、五歳児よろしく癇癪を起すことも一考に値する。だが、室内の原状回復にせっせと務める銀髪のお子様メイドの前で、そのような醜態を演じるわけにはいかない。
「やあシルヴィア、がんばっているね」
彼女はこちらに振り向くと、とと、と近づき僕を抱き寄せた。
「レイモンド」
舌ったらずに僕の名前を呼び、シルヴィアは頬ずりをしてきた。
文化の違いである。
シルヴィアは二週間前まで北の山奥に一人で暮らしていた。劣悪な環境で魔物を狩り、文字通り、食い繋いでいた。言葉を持たず、友を持たず、衣服もない。天涯孤独でありながら、ただ生存本能に忠実にあり続けた。
あるいは、彼女にとって僕は初めての同族だったのかもしれない。
屋敷を抜け出し、ふらり山に降り立ち、王都で買った肉を焼いていると薄汚い少女が近づいてきた。両手に刃こぼれした剣を持つ全裸の傷だらけの少女は、ある種の神々しさを放っていた。誇り高き神狼の末裔か、太古の蛮族か、はたまた自分をゴブリンだと思い込んでいる異常者か。
童心には刺激の強すぎる光景に、顔を赤らめ視線を逸らした。
しかしそんな事なぞお構いなしに、その少女は野性味のある、実に見事な四足歩行を見せてくれた。焚火の傍でちりちり焼ける肉と、僕とを鼻を鳴らして観察した。刺激をしないようにゆったりとした動作で、焼けた肉を取り、少女に渡した。少女は警戒を見せたが、しばらくして肉に噛みついた。懐かれた。
年端もいかぬ少女をこのような場所に捨て置くわけにもいかない。僕は彼女を屋敷に連れ帰った。
家族の反応はまちまちだった。勝手に屋敷を抜け出したことで母さんに叱られ、「その歳で女をひっかけてくるとは」と父さんの感心を得て、「ばっちい」と少女を風呂に連れて行くように姉さんがメイドに指示を出した。しかし誰一人として、彼女を屋敷に置くことに意を唱えなかった。
風呂上がりの少女は、何があったのか恐怖に青ざめていた。彼女は僕の姿を認めると安堵の息を付き、丈の合わないメイド服の肩から美しい銀髪がしなだれた。
「君、名前は?」
「……なぁえ?」
「なまえ」
「なまえ?」
僕は彼女を指さし言った。「シルヴィア」
「しぃうあ」
何度か応酬を繰り返すうちに、ついに彼女は「シルヴィア」といった。
僕は歓喜のままに彼女の頭を撫でてやった。
それからというもの、暇を見つけてはいろいろなことを教えてやった。シルヴィアは物覚えが良く、瞬く間に言語を介した意思疎通を過不足なく行えるようになった。動物的感情表現が抜けきっていないが、そのうち人間社会に適応するだろう。
「ねえ、チビ、見つけた?」
シルヴィアが小首を傾げた。
チビとは姉さんのことだ。シルヴィアの方がほんの僅かに背が高い。
「姉さんが、僕を探していたんでしょう? 知ってるよ。そこであった」
「どこにいたの?」
「僕? 秘密」
「ひみつ?」
「内緒ってこと」
シルヴィアはなるほどといい、懐からノートと万年筆を取り出し、僕に差し出した。僕は「秘密」と書き、その隣に「内緒ってこと」と書いて、彼女にノートを返した。
「えらい?」
「よしよし」僕はそう言って頭を撫でてやった。シルヴィアは僕よりも頭二つ分背が高いから、彼女は少しだけ頭を下げた。
「手伝おうか」僕は部屋を見回しながら言った。
シルヴィアは提案を固辞して、作業に戻った。
僕はそれを横目にクローゼットから探索用の革カバンを取りだし、除湿剤の詰められた専用のケースから杖を三本取り出しカバンに放り込んだ。書架から空白の魔導書を一冊抜き取り、やはりカバンに放り込む。
その光景を見ていたシルヴィアが訊いた。「夜逃げ?」
僕は驚き振り向いた。子供の成長は僕が思っている以上に速いらしい。
「ちょっとね」はぐらかすようにそう言い、カバンの取っ手を箒の柄に通した。
「あたしも」
「君、掃除するんでしょう?」
「もういい」
「ああ、そう」
僕はカバンから杖を取り出し、魔力を宿しそれを一振り。瞬間、部屋中の物という物が意志を持ったように、元の場所に戻っていく。
「ごくろう」
僕は目をくるりと回した。
「お褒めに預かり」




