初対面だよね?
枕が変わったせいか、寝つきが悪い。
時計を見ると四時を回ったところだった。
まだ起きるには早い。
朝の稽古も今日はない。
たったいまそう決めた。
僕は二度寝の構えをとった。
窓の外では、あまねく世界に光を降り注ぐ女神が、こちらにおいでと手ぐすねを引いている。にべもなく、僕は布団を頭からかぶった。女性がらみの醜聞は間に合っていた。
ふと、今のこの状況こそが更なる醜聞を招くのでは、と頭をもたげる。
僕はベッドから飛び起きて、大きく伸びをした。一刻も早く――使用人たちに見つからぬように、居住棟を出なくては。そう思いつつも、どこか呑気な面持ちで窓を開けた。新鮮な空気を肺に取り込むと、頭が冴えていくのを感じる。窓辺に両手を付き、身を乗り出した。
眼前に広がる澄んだ青空と若草の絨毯が、よい一日を予感させる。
ふいに視線を感じ、はて、とそちらを見た。ぽつねんとこちらを見上げる少年と目が合った。よく見ると、その手に花が握られている。僕はにやりとして、そこを動くなと指さした。
――どうにもおもしろいことになりそうだ。
僕は野次馬根性甚だしく、部屋を飛び出した。階段を駆け下り、居住棟を出てすぐのところに件の少年が立っていた。
「どうなっているんだ!」少年は声を抑えがちに言った。「どうして君がシルヴィアさんの部屋にいるんだよ!」
――どうなっているはこちらのセリフだ。
朝の挨拶を省くとは、騎士団の未来は仄暗いようだ。
「落ち着けよ、ポール」と僕。
「ヴィルだ。レニー」
僕は怪訝に眉を潜めた。
――レニーだって?
騎士団は解体した方が良さそうだ。
「僕たち、初対面だよな?」
「バカ言え」
ヴィルは吐き捨てるようにそういった。
少年の顔と結びつく記憶は、昨日の稽古場での一件だけだ。彼の顔に話しかけるりも、背中の痣に向かって話した方が、まだ親近感を覚える。
まじまじとヴィルの顔を見ていると、なんだよ、と彼は顔をしかめた。ここでは目立つからと、ヴィルは屋敷の方に向かって歩き出す。僕は納得のいかない顔でそれに従った。居住棟から少し離れたところでヴィルが口火を切った。
「それで」意図的に言葉を切り、「説明してもらおうか」と彼はすごむ。
僕はとぼけて聞き返した。
ヴィルはやきもきとしたのを隠すことなく、ぶっきらぼうなに話を促した。
「チェスをしていた。そういえば納得してくれるかな」僕は得意げに左手を上げた。「なあヴィル、バカのフリはよせよ。こんな時間に女性の部屋から出てくる理由が、そうあるものか。――ああそうとも! 僕はあの部屋で一夜を過ごした! なんというか、そう、ホットだった」
ホットの部分で、両手の人差し指と中指を軽く曲げて見せた。黙って話しを聞いていたヴィル少年が、赤面して叫んだ。
「……ハレンチ、破廉恥だ!」
それを一笑に伏す。
「心が触れ合うとは、こういうことを言うのだろうね」
慈愛に満ちた表情を作った。
少年はわなわなと全身を震わせた。かと思えば、その場でくずおれ地面に両拳を打ち付け絶叫。その拍子に花弁が舞った。
思わず身体を強張らせる。遠くの方で鳥が木々から飛び立つのが見えた。
眼前で小さくうずくまる少年。その背中を踏みつけてやりたくなるのは、貴族の血が関係しているのだろうか。逡巡ののち、僕はちょこんと彼の背中に座り、肩を叩いた。
「ヴィル」
反応はない。
僕は気にせず、続けた。
「冗談だ」
ヴィルの頭がもっさりと動きこちらを向く、
「冗談?」
片眉を上げて、からかっただけだといい、頭を横に振った。ヴィルの表情にゆっくりと安堵が広がる。それに笑みで応えて、ところで、と話を継いだ。
「どういったわけで、君は彼女の部屋を見上げていたのかな?」
ぎくりと視線を逸らすヴィル。僕が”優しく”促すと彼は観念して語り始めた。
僕は彼が気持ちよく話せるように口を挟まないことに決めた。その甲斐あってか、最初はぽつぽつと言葉を漏らすといった感じだったが、次第に熱を持ち、雄弁になっていった。
ヴィル少年の言葉はおおよそ予想通りだった。
つまり、彼はシルヴィアに恋をしていた。一目で彼女に心を奪われたらしい。この三ヵ月間――騎士見習いとして公爵家に来てからこれまでだが――彼女のことが頭を離れない。交流を持ちたいが機会がない。一目でもその姿を拝みたくて、居住棟の方に足繁く通っては、こっそりと部屋を見上げていた。昨日、稽古場に彼女が来たときは驚いた。だがこれはお近づきになる絶好の機会だと思った。模擬戦の相手に志願したのはそういった理由からだった。
これを少年の初心な恋情と捉えるか、変質者の始まりと捉えるかは難しいところだ。
僕は彼が話し終えるのを待ってから聞いた。
「君、歳は」
「十五歳」
ポツリ呟いた。
「改善の余地はある、か」
「え?」
「気にするな。――僕たち初対面?」
ヴィルは呆れたように息を吐いた。
「つまんないぞ、それ」
僕は唇を尖らせた。
「それだけ見違えたということさ」
ヴィルが納得という様に眉を上げた。
「たしかに」彼が言った。「もう二年か」
「男児三日合わざるはなんとやら」
「背も伸びるわけだ」
そういってヴィルは僕の頭に手を置いた。
「性別まで変わるとは思わなかったけど」
からかう様に言って頭を乱暴に撫でる。抗議の眼差しをヴィルに向けた。しかし彼はお構いなしに笑ってみせた。僕が不満気に腕を組んでいると、
「レイモンド様」
遠くの方で名前を呼ばれ、そちらを向く。ヴィルの身体が途端固まった。シルヴィアが優雅な佇まいでこちらに歩いてきた。
「こちらにいらっしゃいましたか」
シルヴィアはヴィルを一瞥したのち、僕に視線を向けた。不器用な笑みを浮かべるヴィル。僕は小さく笑った。
「おはよう、役立たず」
「あら、いけず」
シルヴィアは表情を変えずに言った。
「エリスティア様がお探しになっております」
その言葉に彼女の日記の内容が想起された。
「早めに顔を出した方が良さそうだ」僕は二人の前に躍り出た。「教会の墓を荒らしかねない」
珍しくシルヴィアの表情が陰った、ような気がした。それに気づかないふりをして、
「またなヴィル」
僕は口をぱくぱくと動かし、彼女に声を掛けろと、恋する少年に促した。しかし察しが悪く彼は眉間に皺を寄せ、なんだと口を動かす。僕は目をぐるりと回し、屋敷に向かって歩き出した。
後ろを歩くシルヴィアが言った。
「ご友人ですか?」
僕はそっけなく答えた。
「さあ?」