シルヴィアの日記
屋敷の外に出るとひんやりとした夜気が出迎えた。ネグリジェから伸びる足に冷たい空気があたり、身震いする。
咄嗟に部屋を出たが、これといった目的はない。まさかこんなにも簡単に一人になれるとは思いもしなかった。どうやら姉さんたちを過剰に評価し過ぎているきらいがあるようだ。
にょきりと“逃走”の二文字が頭をもたげる。やぶさかではない。無謀と軽率はいつだって若さの味方だ。だが昼間の一件もある。さすがに敷地の巡回を強化しているはずだ。無理にことを起こせば、いざというときに支障をきたす。
そこまで考えてから、ベッドを出た時点で手遅れなのでは、という気がした。
僕は頭上に浮かぶその思考を、ぶんぶんと頭を振り霧散させた。
春の夜風のなんと冷たいことか。その場にじっとしているだけでは、いたずらに身体を冷やすだけだ。僕は風に背中を押され歩き出した。
屋敷から正門に続く道を進む。整備された幅広な道を挟むように、緑の絨毯がどこまでも伸びている。噴水を横目にみやり、足早に通り過ぎる。肌寒さに身体を両手でさすった。大した効果は見込めなかった。
十分ほど歩き、ようやっと正門が目に入った。石造りの門柱から翼のように伸びる鉄柵が侵入者を拒んでいる。公爵家の紋章が左右の鉄柵に刻まれていた。その隙間から、制服姿の衛兵の姿が見えた。
僕は門越に声を掛けた。男たちがこちらを見た。右手側の男が持ち場を離れた。彼は、こんな時間に何をしているのかと聞いた。僕が適当にはぐらかすと、彼はにやりとしていった。
「夜這いの帰りですか」
僕は眉間に皺を寄せ、抗議の声を上げた。
男は言い訳をするように言葉を継いだ。
「持ちきりですよ。久方ぶりに戻ったと思えば、王都から愛人を呼びつけて、離れに囲っていると」
正面から殴りつけられたような衝撃。下顎が外れてしまったのか、空いた口が塞がらない。
黙っていたもう一人の男が、さすがですな、とからかうようにいった。
この時、僕の思考を支配していたのは、愛人認定されたセシル・クラインに対する申し訳なさではなく、姉さんのことだった。彼女は貴族の出自だが、妙に潔癖なところがある。僕の不純異性交遊を知ったら、自分の行いを棚に上げ怒り狂うことだろう。
目の前の男が何やら言葉を並べている。しかし僕の耳には届かない。馬車馬の如くせわしなく働く思考は悪い方に突き進む。
窓のない部屋で拘束具を全身に付けられた僕。姉さんこそが世界であり、神だ。僕は愛玩動物として一生を終えるのだろう。無痛が苦痛となりそれが普通になる。ふいに見知らぬ子供が僕に駆け寄ってくる。遠い記憶の自分に似た面影を宿している。扉の所に立つ女性が子供を呼んだ。子供は僕に手を振り、母親らしきその人物のところに行くと、勢いよく抱き着いた。
「またね、レイモンド」
姉さんはそう言い残し、子供の手を引いて扉を閉める。
その言葉が脳内で山彦の様に反響する。それに衛兵の声が重なり、僕を現実に引き戻した。声の主を見ると、心配そうにこちらを見ていた。彼は調子に乗り過ぎたと謝罪した。僕は大丈夫という様に頷いた。
しかし、暗い部屋の愛玩動物はそれを良しとせず、衛兵たちをひょいと一捻りして逃げ出すべきだと、声高に主張した。その意見に僕は賛成票を投じたが、どうしても、ひょいしたのちの未来を思い描くことが出来ず断念した。
簡素な別れの言葉を置いて、とぼとぼと来た道を戻る。
部屋には戻りたくない。仕立屋に仕事場として提供しているラボは、珍妙な噂が闊歩しているせいで足が向かない。僕はおもむろに芝生に腰を下ろす。ややもせず、芝生を濡らす夜露に服が濡れ、不快だ。しかし自分を憐れむために、あえてそこで横になった。
満点の星空。とは決して言えない。しみったれた分厚い雲が居心地悪そうに流れていく。芝生に接する面が、ことごとく濡れそぼり、全身を冷やした。
まるで家無き子だ。実家の敷地内でこんな惨めな思いをするとは思わなかった。
どうして、こんな目に合っているのだろう。
僕は訝しんだ。
もくもくと心に浮かび上がるシルヴィアの顔。あの蝋人形にも劣るメイドが、僕の言い付けを守っていたならば、と思わずにはいられない。彼女が無意味に目を光らせていなければ、姉さんがベッドに忍び込むことも、僕の純情が踏みにじられることもなかったはずだ。すべてシルヴィアのせいである。
ふと彼女のベッドが使われていないことに思い至った。
僕は勢いよく立ち上がり、おもむろに使用人の居住棟に向かった。
居住棟は屋敷を正面から見たときに右手の方にある。徒歩で十五分ほどの距離だ。その反対には騎士団の駐屯地と、訓練場が併設された地帯が広がっている。
三階建ての居住棟はシンプルながら洗練された外観をしている。正面から入り、三階まで階段を上がる。西側の突き当りが目的地だ。僕は躊躇なくそのドアを開き、中に入った。
部屋には必要最小限の家具が置かれていた。皺ひとつないベッドに、綺麗にたたまれた掛布団。机の上には小さな花瓶に黄色い花が一輪指してある。簡素な書架はまばらに埋まっているが、収められている書物はどれも背割れしていた。
その中の一冊に目が留まり、思わず手に取る。僕が六歳の頃に出した本だ。内容は初級魔法と上級魔法の消費魔力の比較検討について論じたものだ。趣味で出したものだが、そこそこの反響と、微々たる印税を得たのを覚えている。
表紙を捲った最初のところに『親愛なるシルヴィアへ』と記載され、その下に僕のサインが走っていた。
僕は両目を閉じて眉を上げた。心なしか晴れやかな面持ちで本を戻した。
――屋敷を出る前に、彼女に甘いものをごちそうしてやろう。
心にメモを残しつつ、僕のサイン本の隣に彼女の日記が刺さっていることに気付いた。
僕は姉さんとは違いプライバシーを尊重する。他人の個人的な記録を勝手に覗くのは、許されざる行為だ。しかし、日記とはかくも耽美に流し目を寄越すものである。その誘惑を振り払うのは至難の業。視界に入れないのが最もいい選択肢である。
理性こそがひとを作るのだ。
僕は誘惑を振り払い、ベッドに身を投げた。
そして日記を開いた。
最初の方はミミズが張ったような文字でひどく読みづらかった。ページを手繰るごとにその点が改善されていく。読み進めるうちに、毎日日記を書いているわけではないことに気が付いた。
ぱらぱらとページをめくっていると、ふとある部分に目が留まった。それを声に出して読み上げた。
「レイモンド様が亡くなった可能性がある?」
半年前の記述だった。
僕は怪訝に前後のページを手繰ったが、肝心のところが抜け落ちていた。代わりに、姉さんが酷く取り乱し、塞ぎ込んでいたこと。ゴールドバッシュの総力を挙げた捜索が実施され、一ヵ月前にようやっと所在が判明したことが書かれていた。
一通り読み終えたのち、僕は日記を閉じた。
――いや、なんで?
半年前といえば、僕が魔力を失ったのと同時期だ。なんらかの方法で公爵家は魔力探知を行っていたが、突如として反応が消失したために、僕が死んだと誤認したということだろうか。
姉さんの過剰なスキンシップについても、一応の説明が付きそうだ。つまり、もう二度と会えないと思っていた弟が、五体満足に戻って来たのだ。喜びもひとしおだろう。
もっともその行為に理解を示すことは出来ても、納得は出来ないが。
窓の方を見ると朝と夜の境界線がせめぎあっているのが見えた。
一晩中、起きていたせいでもうくたくただ。
僕は枕の隣に日記を置いた。片手を枕の下に滑り込ませる。と、何か固いものが当たった。それを枕の下から引きずり出す。先ほど読んでいたのとはまた別の日記が出てきた。
横になりながら、ページを開く。少し読み進めると、これが日記でなく私小説であることが分かった。僕は熟読したのち、そっと元の場所に戻した。
世の中には知らないでいた方がいいこともある。
シルヴィアの執筆中の小説はそういった類のものだった。
僕は布団にくるまった。
眠りに落ちるまで、美しいメイドと幼い主人の歪な恋愛譚について考えを巡らせた。