はったりではない
夜の帳に欠けた月がぽっかりと浮かぶ。夜風が庭園の花を愛でるついで、自室の窓を撫でていく。僕はふかふかのベッドの中で、時計の音と心音が交わるのを聞いていた。
姉さんは未だ戻らず、僕の心中も穏やかではない。
医務室の一件が尾を引いていた。
頬に描かれた一筋の線がじくじくと痛む。その度に胃がむかつく。と、同時にあの場面がリフレインする。
結局、あれがどういった経緯で、なにを目的としていたのかがはっきりとしない。
無数の可能性がある。しかしそれを断定するのは困難だ。その最たるは、姉さんに対して信用が置けないことに起因する。
彼女が誘拐紛いの手段を講じるような人物でなければ、僕だって「ああ、命を狙われているんだなぁ」と簡単に受け入れることができた。しかし姉さんは僕を手元に置くためならば、どんな手段も講じる。さも差し迫った危機があるかのような状況を作り、自分の傍が安全であると、僕の思考を誘導せんとしている気がしてならない。
しかし確たる証拠はない。
信じるも疑うも心理的要因に寄りすぎる。
その事実が僕をベッドの中で悶々とさせた。
部屋の前にはシルヴィアを待機させている。ネズミ一匹部屋に入れないように言いつけてある。年頃の娘に――いくらメイドといえど――寝ずの番をさせるのは気が引ける。しかし彼女の肌荒れと引き換えに、安眠を買えるのなら安いものだ。
もっとも気が昂って眠れそうにない。頭が冴えて思考の奔流が起きていた。布団の中で朝までコースに違いない。優秀な頭脳を持つのも考え物だ。
自嘲気味な笑いが漏れた。
そうこうするうちに、眠りに落ちた。
どれほど時間が経っただろうか。
夜を支配する月は舞台袖に下がったようだ。分厚い暗幕が下り、星の瞬きすらも望めない。
僕は自分以外の何者かがベッドに潜り込んできたので目を覚ました。
眠りを妨げられ不機嫌な面持ちで、目をしばたたかせた。身体を動かそうとして、呻き声が漏れた。気だるい身体を無理やり動かす。と、すぐそこから落ち着いた息遣いが聞こえた。
舞台の第二幕が始まるらしい。
幕が上がり、花形の月が暗闇を切り裂きながら姿を現した。
姉さんの切れ長な紫の瞳に僕が映った。
「おやすみなさい」と姉さん。
「え、やばっ」
反射的に口を突いて出た言葉だった。
ベッドに忍び込むのはよしんば目を瞑ろう。昼間の出来事に何ら触れないというのは、どういった了見か。というか、シルヴィアは何をしているのか。
姉さんの腕がこちらに伸びてくる。僕はベッドを跳ねるようにして距離を置いた。
「なんだってのよ。お姉ちゃんは疲れているの」
不満気な声が闇夜に溶ける。
ひるむことなく僕は訊いた。
「あれは何だったの」
「命を狙われているのでしょう。知らないわよ。私だって」
「姉さんが絵を描いたんだと思っていた」
無言。
僕は言葉を継いだ。
「適当な人間を見繕って、一芝居打ったんでしょ。三文芝居にしては熱が入っていたようだけど、少し考えれば分かるはずだ。あんな健康的な医者がいるわけがないって」頬の傷が熱を帯びる。「僕を傍に置いておきたくて、色々と考えを巡らせているんだろうけど、逆効果だよ。こんなことばかりされると、僕、姉さんのこと本気で嫌いに――」
僕は最後まで言葉を続けることが出来なかった。
唇に柔らかいものが触れた。
何が起きたのか分からない。
理解しているが、それを脳が拒んでいる。
ふいに姉さんの言葉が脳裏を過る。
――言いたいことがあるのなら、言ってもいいわよ。ただし覚悟をすることね。お姉ちゃんの許可なく口を開こうものなら、キスで口を塞がれる、その覚悟を。
つまり、この姉は言葉通りのことをしたのだ。
しばらくして、姉さんが唇を離した。何も言わずに僕を抱き寄せる。ひんやりとした姉さんの肌とは対照的に、僕の身体は火にくべられた様に熱を帯びていた。鼓動が――実に情けないことに――早鐘を打つ。
この状況をどのように説明していいか分からない。
一つ確かなことは、ファーストキスはレモンの味ではなかった。
「懐かしいわね」姉さんがポツリ呟いた。僕は何も言えずにどぎまぎと耳を澄ます。「あんたはよく泣く子だったから、その度にこうして黙らせてやったのをよく覚えている。二歳になるころには、泣かなくなってしまったわ」
今明かされる衝撃の真実。
つまり、僕はとうの昔に初キッスを奪われていたということか。しかも相手は、実姉。慨嘆たる思いが胸に広がる。
「不審ゆえに信じたのよ」姉さんが言った。僕がどうにか顔を動かすと、彼女が目を瞑っているのが分かった。「怪しすぎて、むしろ信頼に足ると思った。それだけよ」
どうやら僕の疑問に答えてくれているらしい。
――なるほど、つまり人を見る目がないということか。
姉さんが言葉を継ぐ。
「それから、あのメイド。なんだって部屋の前に突っ立っているのよ。目を開けながら寝るなんて器用な真似までして、不気味ったらないわ」
僕は深いため息を吐いた。
しばらくして、姉さんが寝息を立て始めた。僕はどうにも落ち着かず、姉さんの両腕による拘束を慎重に解き、起こさないようにこっそりとベッドを抜け出した。途中、どういうわけか姉さんの唇に視線が行き、僕は顔が熱くなるのを感じた。
――こんなところにいてはいけない。
貞操の危機を感じる。
文明人として倫理に恥じ入るようではいけない。
僕は密偵のように慎重な足取りで扉を目指した。ベッドと扉の中腹ほどのところで、姉さんのくぐもった声が聞こえ、身体を硬直させた。ゆっくりと声のする方を確認し、少し待ってから、再び歩みを進めた。ややもすると、扉の前に辿り着き、音を立てないようにドアを開けた。ベッドの方をちらりと見やり、姉さんが眠っているのを再度確かめてから部屋を出た。
扉をくぐりすぐのところにメイドが立っていた。心臓を素手で掴まれたようでぎょっとした。微動だにしないシルヴィアを見やり、姉さんの言葉を思い出した。彼女の前に立つと、青い瞳が僕を見下ろしていた。明るいときに見るのとはまた違う、妙な迫力があり足が竦みそうになる。おもむろにシルヴィアの目の前で手を振った。反応はない。耳を澄ますと、安定した寝息を漏らしているのが分かった。
蝋人形の方が幾分か役に立ちそうだ。
僕はそんなことを考えながら、外に向かって走り出した。




