さんぽ
仕立屋を見送り、僕はやることもないので屋敷を散策することにした。
正確を期するなら、僕たちはと言い直すべきかもしれない。もっとも、シルヴィアは三歩後ろを黙々と付き従うだけ――否、彼女は僕の背中に刺々しい視線を浴びせ続けていた。
背中の傷は騎士の恥とは誰の言葉だったか。
齢十三の歴史の中にきっと答えはあるはずだ。だからといって、その歴史を紐解こうとは到底思えない。たかが十三年の人生で、過去に思いを馳せるのはいささか贅沢が過ぎる。
メイドの視線によって罪人のように赤く爛れた背中を抱えて、ルクスグリフ王立学院の剣術科なんぞに進学するのは自殺行為だ。
命は大切にしなくては。
僕は姉さんに訴状を叩きつけるべきかもしれない。ノブレス・オブリージュを盾に舌戦を仕掛ける覚悟が僕にはある。しかし、野蛮な姉さんは僕のシャツを乱暴に剥き、僕のシルクの背中を持ってして、この議論に終止符を打つだろう。
――ああ、哀れ!
やはり逃走以外に道は無い。
図らずも、僕の手元に駒が転がり込んできた。
あの仕立屋たちは使える。適当な理由を付けてラボに通う口実も出来た。ゴールドバッシュと関係ない部外者を囲い込むことができたのは、実に都合がいい。
彼女たちを上手く使えば、逃走も夢ではない。
僕は思わずほくそ笑んだ。
だが慎重を期すべきだろう。
公爵家が王都一といわれる仕立屋と交流がないというのは、考えにくい。接点があると考えるのが自然だ。でなければ、手紙一つでこの急な訪問が実現するはずがない。
だがセシル・クラインは僕を姉さんと間違え、来訪を知らせる姉さんの口調は伝聞を語るようだった。つまり彼女たちに個人的な接点はない。だがセシルと公爵家に関係がないとは断定できない。しかし密接に関りがあるとも思えない。
仮にセシルが望むような関係を――どのような形であれ――公爵家と築けているなら、彼女は無謀な賭けに身を投じたりしないはずだ。
――僕の考えはこうだ。
彼女は公爵家との関係を深めたいと考えていた。そのために自分の有用性を証明したい。それが今回の訪問に繋がった。
僕の存在はセシルにとって随分と都合がよかったことだろう。彼女の計画において、僕はとっかかりに過ぎない。あのハンガーラック一杯の服の中から、僕が納得して選ばないのも計算ずくだったのかもしれない。彼女にとって新たに服を仕立てるのは既定路線だった。そうすることで自分の名声を高めつつ、公爵家との関係を深める。
素晴らしい計画だ。
僕の逞しい想像力に寄与する部分が多いところを除いて。
なんにせよ仕立屋の協力は期待薄だ。
だからこそ、うまくやる必要がある。彼女たちがそうするように、僕も彼女たちを利用するのだ。
そこでふとあのシャイな娘――エルザといったか――を思い出した。
彼女から話を聞いてみるのが良さそうだ。少し突けば僕の説を補強する情報の一つや二つ、漏らしてくれるだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、何度かメイドたちとすれ違った。彼女たちは僕の姿を認めると、決まって足を止め恭しく会釈をした。そして僕が通り過ぎてしばらくすると、声を潜めて話し始めた。その会話の断片に僕の名前をみつけたのは、自意識過剰が理由ではないはずだ。
もっとも気にしていなかった。
公爵家に生まれてこの方、話題の中心でなかったことがない。
なにも顔だけが理由ではない。
様々な要因があるが、その最たるは僕がゴールドバッシュ家にとって数百年ぶりに誕生した男児であることだ。
ゴールドバッシュ家は歴史的に、男児の出生率が極めて低い。そのため女系であり、女性が絶対的な権力を誇る。使用人が女性で占められているのもそれが理由だ。
婿に来た男たちの、なんと肩身の狭いこと。
彼らと僕の待遇は比較することすらおこがましい。
ゴールドバッシュの正当な血を引く僕は、一族の寵愛を一心に受けてきた。
姉さんが正統後継者として、厳しい教育を受けてきたのに対し、僕は放任主義すれすれの自由を与えられた。
そのため僕は自分のしたいことだけして、生きてきた。
しかし子供というのは往々にして、身近な人間の真似をするものだ。僕も例外でなく、姉さんの真似事ばかりをしてきた。それがまた大人たちの受けがよく、過剰なまでにもてはやされた。
その環境にあって、姉さんは特異だった。
彼女は一族にとって、男児というのがどれほど稀有な存在であるかを認識したうえで、頑なに僕をただの弟として接し続けた。
あるとき、聞いたことがある。
「僕は特別なんだって」と。
幼い姉さんはさらりとこう返した。
「みんなそうよ」
僕が姉さんを愛する理由がそこにある。
とはいえ、適切な距離というものが存在する。姉弟で同じベッドで寝るだなんて、倫理的におかしいと思うし、意思に反して屋敷に連れ戻すのもどうかしている。彼女は弟離れをするべきだ。
年に数回、家族の誕生日と感謝祭で会うくらいが丁度いい。
あるいは、と脳裏を過った。
僕が旅に出ずに大人しく屋敷で過ごしていたら、姉さんは適切な距離感というものを学び、うまく弟離れができていたのかもしれない、と。
――もしそうなら、そのとき僕は……?
恐ろしい考えが一瞬浮かび、頭を振った。
僕は窓から差し込む暖かい日差しの中でふと立ち止まった。三歩の距離でぴたりと止まるシルヴィア。何気なく窓に近づく。目を細めつつ、手でひさしを作る。眼下に広がる馬場で黒馬が疾駆するのが見えた。手綱を握るのは乗馬服に身を包む我が姉君。
下手に近づくと巻き込まれそうだ。
このような危機管理能力が適切な距離を保つ秘訣だ。
――しばらくは馬場に近づかないこと。
そう頭にメモを残して、また歩き出した。
* * *
足は騎士団の方に向いていた。
この屋敷に戻ってから自分以外の男を見た覚えがない。その唯一の男も、鏡に映れば絶世の美少女だ。
不潔で汗臭い男たちを見たくなるのも、致し方なし。
稽古場に入る前から、活気のある声と木剣がぶつかり合う音が漏れ聞こえてきた。
僕は期待に胸を躍らせ足を踏み入れた。むわっとした嫌な空気が鼻を衝く。男たちが質素な稽古着を汗で濡らし、懸命に木剣を振るっていた。僕はそれを横目に、換気をしていないのかと、顔をしかめ部屋を見回す。扉も窓も全て開け放たれていた。
――それでなお、この臭い! ああ不快!
僕は肺いっぱいに不浄な空気を吸い込もうとして、軽い眩暈を起こした。後ろによろける僕。それをさっと支えるシルヴィア。
老齢の男が僕たちに気付き声を張り上げた。
「休め!」
身体の芯を震わすような声。
男がこちらに近づいてくる。
「お久しぶりです、レイモンド様。ご立派になられて」
「やあ、ウォルター。白くなったね」
僕は平静を装い、ひげをさするジェスチャー。
ウォルターはかかっと笑った。
「寄る年波には、というやつですかな」
僕はウォルターをそれとなく観察した。
大柄の男だ。五十手前だというのに、衰える気配のないロマンスグレーの髪が短く整えられている。鍛え抜かれた肉体はその場にいる若い騎士たちにも引けを取らない。色白の肌はうっすらと焼けており、赤みかかっている。口周りに整えられた白いひげが、彼の威厳に拍車をかけているようだ。
「それで今日はどういったご用件で?」
「自分以外の男が存在するか確かめに」
ウォルターは眉間に皺をよせ、
「哲学的ですな」
「ああ」
僕は適当に受け流した。
ウォルターがひっそりと視線を僕の後ろにやる。
「やや、これはシルヴィア嬢!」大根役者のようなひどい調子で、「お加減はいかがですかな?」
シルヴィアはにこりともせずに、
「変わりはありません」
「それはなにより、ところで――」
「いたしません」
「いえ、まだ何も」
シルヴィアは同じ言葉を繰り返した。
なおも食い下がる老齢の騎士。
「しかし、こう長く剣を持たないと感覚が鈍るでしょう。どうか老い先短い老人の頼みを聞くと思って。一試合だけでいいのです」
シルヴィアは取りつく島もなく、冷ややかな視線を男たちに投げた。
古くは王国騎士団の副団長にまで上り詰めたほどの人物だ。その威光は未だ健在だが、このメイドにはそれが通じないらしい。
親と子ほど年の離れた娘に袖にされるウォルターに、僕は涙を禁じ得ない。
辛抱たまらずに僕は口を開いた。
「シルヴィア」
「はい」と彼女。
「やれ」
「かしこまりました」
「シルヴィア嬢!」
興奮のあまりシルヴィアの手を取ろうとするウォルター。それをするりと躱し、群衆をかきわけ、中央に立つ。
「木剣を」
シルヴィアは近くにいた若い騎士にそういった。彼は素早く、自分の手に持つ木剣を渡した。シルヴィアは感覚を確かめるように、木剣を自分の顔の前まで持ってきて、短く息を吐いた。それを片手に持ち、涼しい顔で振り下ろす。全身の骨が鋼鉄で出来ているのか、体幹のブレが一切ない。彼女は微かに小首を傾げたように見えた。
「それで」
スカートの裾を翻し僕を見た。
「誰の相手をすればよろしいのでしょうか」
いつもと変わらぬ無機質な声。
僕はシルヴィアを半ば感心するように見た。
ウォルターが当然と言わんばかりに一歩前に出た。その表情は感謝祭を心待ちにする子供の様だった。
随分とシルヴィアを買っているようだ。
そのとき、
「私が!」
少年の裏返った声が稽古場に響いた。
その場の視線が彼に注がれる。一瞬、それに驚いた様子を見せたが、すぐにぴんと背筋を伸ばし、胸を張った。
深海のような髪の少年はまだあどけない顔をしていた。
僕はちらりとウォルターを見て口を尖らせた。
「決まりだな」
そういって手の平を見せた。
露骨に肩を落とすウォルター。
シルヴィアと少年が対峙する。その周囲を男たちが囲う。僕は特等席――ウォルターの肩の上――からそれを見下ろしていた。
「で?」と僕。
ウォルターが微かに頭を動かした。
「実力は?」
「筋はいいかと」
「煮え切らないな」
「三ヵ月前まで独学で剣を学んでいたそうです」
「見習いか」
「ええ」
ウォルターは短く息を吐いた。
「お気に入りってわけだ」
からかう様に僕は言った。
表情は見えないが、微かに笑ったように感じた。
視線を道場の中央にやる。
僕はふと彼の名前を聞いていないことに気付いた。
ウォルターに訊こうとした瞬間、少年が口を開いた。
「ヴィル・マーシャルと申します。以後、お見知りおきを」
ハツラツとした好感の持てる声。
「シルヴィアです」
彼は深々と礼をした。それに倣うシルヴィア。
剣先を下にやり、左手で木剣を持つシルヴィア。背筋をピンと伸ばし、ただそこに佇んでいるだけのように見える。対して木剣を両手で構える少年は、肩に力が入り過ぎているようだ。
歴然とした差がそこにはあった。
二人の間に透明な膜が張られているようだった。その膜の中では、当事者にしかわからない緻密なやり取りがあり、緊張を生む。ヴィルの額に汗が流れる。シルヴィアは事も無げに、伏し目がち息を吐いた。二人の体内を魔力が満ちていくことに、その場の全員が気付いていた。
いや、その場の全員が体内を魔力で満たしていた。
戦士の基本技能の一つに、〈魔力纏い〉というものがある。魔力はその性質上、内から外に流れるものである。〈魔力纏い〉はその自然の理に逆らい、全身に魔力を留め続け、循環させることを指す。細胞の活性化は五感のみならず、身体機能を驚異的に底上げする。
身体にかかる負荷が大きいが、それを勘案しても、〈魔力纏い〉は有用な技術だ。
この場にいた――僕を除いた――全員が〈魔力纏い〉をしていた。
途端、下の方から地響きが鳴り響いた。
「始め!」
それがウォルターの声であることに気付くのにしばし時間を要した。
試合の合図とともに、ヴィルが動いた。と思った次の瞬間――空気の激しい振動――シルヴィアが木剣を受け止める姿。あまりの速さに音が遅れてくるようだった。僕はヴィルが、シルヴィアに打ち込む瞬間が見えなかった。
僕は目で追うことを諦め、瞳を閉じた。
意識を集中し、魔力の残滓を追った。
ぼんやりとした人影が、微かに魔力を帯びた棒状のものを持っている姿が頭に浮かぶ。シルヴィアが受け止めた剣を跳ね返す。体勢を崩すヴィル。その隙を見逃さずに、シルヴィアが追い打ちをかける。
普通であれば勝負は決したかに思える。
しかし二人は魔力を纏い人間の限界を超えている。
ヴィルは空中で身体を翻し、シルヴィアの木剣を足場に、曲芸師のように宙返りをして距離を取った。床に着地すると、彼は一足飛びに、再びシルヴィアの懐に飛び込んだ。シルヴィアはそれを最小限の動きで躱し、木剣を振り下ろす。ヴィルはそれを受け止め、反撃に転ずる。二人の木剣が鉄を打つような甲高い悲鳴を上げた。剣戟はいつまでも続くかに思えた。
ヴィルは一度距離を取る。精神を集中し脚部に魔力を集中させる。深い呼吸が僕の耳にまで届いた。シルヴィアはその場に佇む。どうやら少年の一撃を真っ向から受け止めるつもりらしい。
次の攻防で勝負が決することを、その場の全員が理解していた。
三度目の息を吐いた瞬間、ヴィルが動いた。刹那、鉄が激しくぶつかる音と共に、シルヴィアの身体が後ろに吹き飛ばされる。姿勢は保たれている。彼女が床に足を付くのを待たずに、ヴィルの高速の連撃が執拗にシルヴィアを追い詰める。耳障りな音が稽古場に響き渡る。
筋がいいなんてものではない。驚異的である。ウォルターの言葉にも納得がいく。しかし、その猛攻をシルヴィアは完全に捌き切っていた。
ヴィルが一撃を打ち込むたびに、体内の魔力が放出されていた。疲労の蓄積が著しく、攻め手が次第に弱まっていく。そのことを戦っているシルヴィアが気付かないはずもない。
彼女はその隙を見逃さず、相手の木剣を渾身の力で下から叩き上げた。ヴィルはたまらず木剣を吹き飛ばされた。
――よく持った方だ。
そう思いながら目を開けた。
ヴィルは床に膝をつき、荒い呼吸で苦しそうにシルヴィアを見上げた。その両手は痺れからか、微かに震えていた。シルヴィアは一つ会釈をして、木剣を床に投げ捨て、こちらに向かって歩いてくる。
しかし、ヴィルは〈魔力纏い〉を解いてはいなかった。
次の瞬間、ヴィルはシルヴィアに向かって突進をした。捨て身の行動をシルヴィアは簡単に躱し、すれ違いざま容赦なく彼の背中にかかとを落とした。くぐもった声を上げてヴィルは動かなくなった。
どよめきが起こる。
その中心に立つシルヴィアは、息一つ切らしていない。結われた銀髪がふいに解けた。
その佇まいに、僕は姉さんの姿を重ねていた。
彼女のような人間が王立学院にはごろごろいる。
魔力がないのにそこに進学するだって?
棺を作る音が聞こえるようだ。